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袋小路派の政治経済学*第5講「格差」(後編)

袋小路派の政治経済学*第5講「格差」(後編)

格差のコスト:その1

 とりあえず、格差の利益の裏返しで、格差のコストが低所得層に重くのしかかることは確かです。ただ、これだけでは格差拡大派の大好きな自己責任論でチョンです。この、さしあたって低所得層に集中してのしかかってくる格差のコストが、どのように社会全体のコストに結びつくかを明らかにしなければ、それは「格差のコスト」とは言えません。

 まずは、最も単純な数の話というのがあります。格差拡大派のデザインでは、大体、この国民を10%の勝ち組と90%の負け組に分けられるものと見られています。もちろん、勝ち組の中でも、さらに10%の勝ち勝ち山の大将組と、その大将に仕えることで勝ち組に入れてもらっている将校組に分かれます。一方、負け組の内部でも、当然、格差はあるわけで、この負け組の上部10%だって、下を見れば貧乏人の山また山ですから、本人は思いっ切り勝ち組のつもりで、「自分達勝ち組」の利益を守るためと信じて、直属の上司である勝ち組将校の下で下士官として任務に励みます。で、残りの約八割は兵卒、すなわちソルジャーとして、目の上で威張っている中間管理職に敵意を、雲の上でふんぞり返っている勝ち組には憧れを抱きつつ、日々、牛馬のように働かされます。この国民の大半を占めることになるソルジャー組が、その中での地位にはまた差があるとは言え、基本的に格差の不利益を被るわけですから、頭割りで計算すれば過半の国民が犠牲になるという点で、国民経済を単位とした格差のコストと捉えることができます。ただ、格差拡大派は、頭割りは政治の論理であって経済の論理ではないと反論するでしょうから、当然、他の面からも格差のコストを見ていく必要があります。

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悪不平等

 格差拡大派は、「悪平等」という言葉が大好きですが、それに対抗するはずの「悪不平等」という言葉は、とんと聞かれません。理由は簡単、戦後の反差別・平等主義的な憲法の下で根付いた、「不平等はそもそも悪だ」という社会通念が、まだ辛うじて残っているからです。逆に言うと、格差拡大派が本当に駆逐したいのは、このような社会通念であって、そのための有力な攻撃として、「平等は正義ではない」という意識を浸透させるために、「悪平等」という表現を使っているとということです。特定の制度に対する「悪平等」攻撃は、その制度に対する直接の攻撃であるとともに、平等を正義と捉える社会通念に対する間接的な攻撃でもあります。しかし、平等を正義、不平等を悪と捉える社会通念は、何も敗戦・新憲法制定を機に世に広まったわけではありません。戦前から、日本では不平等を正そうとする様々な動きがありました。それに、そもそも右翼・タカ派の皆さんだって、明らかな侵略戦争である太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼んで、欧米列強に対する自衛戦争、アジアの解放戦争として肯定的に評価する重要な根拠の一つは、当時の欧亜の地位の不平等にあります。ほら、平等を正義とする感覚というのは、戦後の産物でも左翼の専売特許でもないんですよ。でも、格差拡大派の粘り強い攻撃によって、その感覚もかなり希薄になってきているので、ここで一つ、平等を正義とする社会通念を補強するための反撃として、「悪不平等」という言葉を持ちだしてきてみようではありませんか。

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格差のコスト:その2

 今度は、低・中所得層という「社会の大部分とは言え、一部」ではなく、社会全体について、格差によって生じるコストを見てみましょう。格差は、低所得層に対して、経済的なものにとどまらず、政治的、社会的、物理的、精神的と、あらゆる分野に渡って強いストレスをかけます。このストレスに対する反応は様々ですが、その一つに犯罪があります。犯罪が、反社会的行為であることは確かですが、他の側面から見ると合理的である場合もあります。犯罪の「合理的」な抑止力というのは、罰の不利益が犯罪の利益を上回ることに拠っています。もちろん、個人の倫理観など、別次元の抑止力も存在しますが、刑法は、基本的には「倫理的でも道徳的でもないが合理的」個人を前提として、設計されています。ところが、困窮状態にある低所得者にとって、今更、失うものなどなく、「罰の不利益」は高が知れているために、「利益の魅力」に惹かれて走る経済犯罪に対して、なかなか歯止めになりません。また、格差拡大派は、低・中所得者層に対する労働力の買い叩きを容易にするために、失業率を高めに保とうとします。これは当然、この層における失業率の上昇を招きます。本当なら、仕事をしてまともに稼ぎたいところだが、職はないし金もないが、暇はある。こんな状況が長く続けば、その暇をまともじゃない稼ぎ方で活用しようという人が増えるのは当然です。「仕事があれば、かっぱらないなんてやらないよ。」こんな声が大っぴらに聞かれるのは、まだ、途上国の路上にとどまっているようですが、日本の路地裏も、一皮むけば似たような状況になってきています。

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ピッキング  picking

 もう、知らない人はいませんよね、日本で最も一般的な鍵、シリンダー錠の鍵穴を専用工具でカリカリとこじって開けてしまう、あの技です。下宿の鍵をなくしてしまって、町の鍵屋さんに泣きついたことのある学生なんかは、見たこともあるでしょうし、恥ずかしながらこの私めも、車で鍵の閉じ込みをやってしまったときに、JAFの作業員さんにやってもらったことがあります。一体、どういう文脈で?と思いますよね。もちろん、ピッキング盗は経済犯罪の一種です。それがどうして?と言いますと、その専門技術との関係なんです。ピッキングによる犯罪が、こんなに一般的になる前から、「鍵?どこの家の鍵も、すぐに開けられるよ」というのが、鍵屋の内々の言葉でした。でも、そこから、「じゃあ、泥棒に入ればいいのに」とは行きませんでした、昔は。“昔は”です。なぜかというと、手口が専門的だから、足が着く(手指しか使ってないけど)危険性が高く、そもそも、鍵屋で普通に食っていられたからです。ところが、今は状況が変わっています。

 もちろん、ピッキング盗には外国人が多いのも事実ですが、彼らは本国で鍵屋をやれるだけの腕は十分にあるということは、まず、日本での実戦において証明されていますし、技術の手ほどきを最初に行ったのは、日本の技術者であるケースが多いとも言われています。ま、要するに、ピッキングの技術があっても、表の鍵屋の商売だけでは食っていけなくなったので、自ら、ピッキング盗に手を染めるか、あるいは直接はやらなくても、技術を教えたり、鍵屋専門の秘密情報を横流ししたりするケースが増えたということです。そして、もう一つの状況の変化、つまり、捕まりにくくなったということも大きく作用しています。ここのところ、警察の犯罪検挙率は粉飾に粉飾を重ねても20%台前半で低迷しており、簡単な話、世で起きる犯罪の4分の3は野放しになっています。これ、届けのない泣き寝入りや、発覚していない完全犯罪は含まれていませんので、実態はこんなものではすまないというのはわかってもらえると思います。たとえば、全国のコンビニ店主がこまめに万引きの被害を届けるだけでも、この国の犯罪検挙率が二桁を回復する日はこなくなるでしょう。こうした状況に加えて、もはや、ピッキング=プロの仕事=鍵屋という式が成り立たなくなってしまったので、近くでピッキング盗があったからと言って、捜査員が道具を調べに来るようなこともなく、その気になれば、あとは腕と度胸で稼ぎ放題というわけです。

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重機ATM爆窃団

最近は対策が進んだのか、あまり聞かなくなりましたが、一頃、連日のように被害が報じられていたのが、銀行やサラ金が郊外に設置している独立ボックス型のATMを、近所の工事現場からかっぱらってきた重機でぶっ壊し、中に入っている現金を頂戴するという、この重機ATM爆窃事件です。これもけっこう、ピッキング盗との共通性があるんですよね。重機オペレーターというのは、これはこれで専門知識・技術を必要とする専門職でして、同じ建設労働者とは言っても、素手でツルハシを振るうような皆さんとは違って、それなりの給料がもらえます。ところが、最近でこそ活気が戻ってきた建設現場ですが、不況の波、公共事業削減、人件費圧縮の波と、幾多の荒波に曝されて、建設現場の雇用環境も、ここ15年ほど悪化の一途を辿って来ました。そうなれば、元々、鍵屋よりは「気は短くて力持ち」の人々が多い職場ですから、「それなら一丁、この腕で一山当てて(掘って?)やろうかい」という人が出てきてもおかしくないわけで、世の中にけっこう広まったというわけです。要するに、せっかくに身につけた技術を健全な形で収入に結びつける場を奪っておいて、生きていたけりゃ仕事を選ばずに働け、などと身勝手なことを政府の側が言ったとしても、皆が素直に従うとは限らないということです。

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ヘイト・クライム  hate crime

かつての「格差なき社会」であった頃の日本では、太平洋の対岸の火事だったので、ホームレスなどと同じく、ちょうどいい訳語が当てられる前に、カタカナで入ってきてそのまま定着しつつあるのが、このヘイト・クライムです。ちなみに、ヘイトが憎しみ、クライムが犯罪でして、階級間、あるいは人種間など、個人的ではない恨み、逆に言えば社会的、一般的な恨みによる犯罪のことを言います。最近もありました、カリスマ女医令嬢誘拐事件など、身代金目当ての誘拐事件というのは、元々、貧困層による富裕層に対するヘイト・クライムという側面を持っているのですが、もっと純粋な形で凄惨な犯罪が行われ、日本のヘイト・クライム史上の画期となったのが、池田小事件でした。犯人の宅間守元死刑囚(執行済み)に関しては、人格上の障害なども見られ、その発言を全面的に信用できるわけではありませんが、少なくとも自身が述べた動機は、社会の底辺に生きるものからのエリートに対する階級的な恨みに貫かれていました。しかし、事件の発生から死刑執行に至るまで、この事件を巡っての報道は、事件の悲惨さや学校側の警備体制の不備、あるいは被害者遺族の悲しみ、宅間元死刑囚の遍歴など、この事件の根本的な動機の部分から敢えて目をそらすような報道に終始し、この事件のヘイト・クライムとしての側面には、ほとんど光が当てられることなく終わりました。その後、この事件の教訓から、学校の警備体制は強固になりましたが、一方で、ヘイトの源泉である階級間格差は拡大の一途を辿ってきました。そして、警備が強化された学校の周辺でも、児童が犠牲となる痛ましい事件は絶えることなく、「他人の幸せをぶちこわしたかった」という動機による、マンションからの児童突き落とし事件も発生するなど、むしろ世の中は、第二、第三の池田小事件を今か、今かと待つような状況になってきています。動機なき犯罪は存在しません。動機こそ、犯罪の出発点です。犯罪検挙率20%台という、この犯罪天国の日本で、このことを忘れて犯罪の予防は成り立ちません。池田小事件のヘイト・クライムとしての側面が故意に無視された要因の一つとして、それが格差拡大への障害となるとの判断があった可能性は高く、そこには、第二、第三の池田小事件が発生したとしても、貧富の格差は拡大していきたいという政権サイドの強い意志が働いたと見ることができます。ですから、いくら学校を要塞化して警備を固めようとも、犯人予備軍もどんどん増えていきますから、第二、第三の池田小事件は必ず起きます。

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格差のコスト:その3

格差の問題は、それが過大で固定的である点にあります。現実の経済生活というのは、格差拡大派が喧伝するようには、個人の努力だけでなんとかなるようなものではなく、また、負け組に固定されている限り、過大な格差の前に絶対的にも相対的にも貧しい生活を余儀なくされるのが実情です。これは、格差によって相対的な貧困が生じるのは当然の結果ですが、過大な格差は貧困層から富裕層への所得移転が制度化することによって発生するため、貧困層は所得をさらに削られて、絶対的にも貧困の度を強めることになるからです。たとえば、現在、目論まれている消費税増税も、確実に貧困層から富裕層への所得移転効果を生む政策の一つです。要するに、格差拡大後の社会においては、大多数の人々は、様々な間接的手段によって、巧妙にその所得の上前をはねられる一方、その上がりを頂く側の富裕層には、堀江被告や村上容疑者のように、東大を出た上に犯罪に手を染めでもしない限り、仲間入りすることはできないということです。このような現実に直面して、意欲を失うなと言う方が無理な話ですよね。そう、格差は社会の大部分を占める、中・低所得層の人々の労働意欲を減退させる結果、社会全体の経済的活性を低下させるという働きを持っているんです。ニートの中でよく言われる言葉に、「働いたら負け」という、働き者のおとーさん達が聞いたら仰天するような言葉がありますが、これは必ずしも怠け心から出たようなものではなく、すでにこのような状況に陥っているニート周辺の労働環境に対する捨て身の異議申し立てという意味合いを持っています。ニート、ニア・ニート、フリーターを巡る労働環境は、「働きたいけど、人間的に働ける職場がない」というのが実情です。格差の拡大は、今後、このような労働環境の悪化が、さらに多くの職場に広がっていくことを意味しています。実際、筆者のような底辺教育労働者の労働環境も、文科省による労働強化のプレッシャーに晒されて、悪化の一途を辿って来ています。はっきり言って、低所得層の労働環境は、そもそも「努力が報われる」ような状態にないんです。

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所得意欲/労働意欲

意欲、意欲と言いますが、そして私も言いましたが、実はこうした文脈で語られる意欲にも二つの種類があります。その一つは労働意欲で、こうした話では、普通、意欲と言えば労働意欲です。しかし、人には労働意欲を押しつけようとする格差拡大派の皆さんを衝き動かしているのは、もう一つの意欲、所得意欲の方なんです。もちろん、誰だって所得意欲は当然、持っています。そして、労働が効率的に所得に結びつく、つまり「努力が報われる」環境にあるならば、所得意欲は容易に労働意欲に転化します。おお、それでいいじゃないか、と行かないのはもうわかりますよね。お察しの通り、人口上、働く人の大部分を占める中・低所得層の労働環境は、そのような状況には、もはやありません。ですから、所得意欲を労働意欲に転化させる装置が働きません。そうなると、所得意欲はその欲求の実現を求めて、犯罪意欲など、別の意欲に転化していくか、あるいはハナから諦めて所得意欲そのものが減退するなどの反応を見せます。前者は、下はスーパー、コンビニでの万引きから、サラ金強盗、振り込め詐欺、そして上はインサイダー取引、組織的金融犯罪と、様々な経済犯罪の悪の華をそこここに咲かせて他人を傷つけますし、後者は引きこもり、鬱病などに転じて、自分を傷つけ、哀しみの淵に沈んでいきます。このような状況で、彼らを牛馬のようにこき使うためには、ストレートに労働意欲を刺激するか、あるいは「努力すれば報われる」というウソを信じ込ませるしかありません。格差拡大派が、実態においては全く逆のこのような状況を加速しつつ、口先では「努力が報われる」だの、「意欲を引き出す」だのと繰り返す背景には、このような事情があります。一方で、格差拡大派の皆さんは、多くの働く人々が努力をしても報われないことの裏返しとして、努力をしなくても報われるという、ひじょーにおいしいポジションを確保しています。これは、彼らの人一倍強烈な所得意欲によって構築された利権です。彼らもまた、その強烈な所得意欲を、普通の労働意欲に転化するなどという地道なことをやらずに、所得に直結するウマいやり方に振り向けたから、その地位を手に入れることができたんですね。こんな、どれほどアヤしい努力を重ねたかわかんないような連中に、「意欲」とか言われたくないです、やっぱり。

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強欲

強烈な所得意欲、それを強欲と言います。最近の日本では、強欲とか、ごうつくばりといった言葉が、死語になりつつあるようですけどね。逮捕直前、村上容疑者が、彼を取り囲んだメディアを通じて、国民に対して「お金儲けるのは悪いことですか?」と大演説こいていましたが、ブラウン管を通して問いかけられた貧乏人の一人として答えようじゃありませんか。それは、量と質によりますよ。犯罪的手段により、大量のお金を儲けるのは悪いことだと思います。そして、サヨクの立場から言わせてもらえば、大量のお金は犯罪的手段を使わなければ、そうそう儲けられるものではありませんて。大量のお金を、手段を選ばず儲けようとするその根性、すなわちその強欲がムラカミズムの本質です。世の中の底辺の仕事、割の合わない仕事を引き受けて、「お金儲け」をしようというなら、誰も文句は言いませんて。私が昔、新聞配達を始めた当時、お世話になった人は、「努力すれば報われる」と信じて、家族を抱えて時には二紙かけもちまでして、冬の山形(地球温暖化以前)ですら、朝の三時から自転車に乗って働いていました。ところが気の毒なことに、ある時、凍った路面で滑って転んで頭を打って大怪我をし、一命は取り留めたものの、以来、廃人同然となってしまいました。これだって、村上容疑者に言わせれば「同じお金儲け」かもしれませんし、小泉や竹中に言わせれば、「自己責任」かもしれません。でも、私はそうは思いません。この人が、10万にも満たない月給のために毎日(新聞配達なので、本当に毎日)必至で働いた労働の価値が、10万など目くそにもならないような巨額の収入を手にしてきた彼らの労働の、10分の1にも満たないとは、到底、思えません。彼らは、自分達だけがおいしい思いをするために、すなわち己の強欲を満たすために、他人に割の合わない仕事を押しつけているんです。こうした、一部の人々の際限のない強欲が、世の中に災いの種を大量にバラ撒いています。格差の元凶は強欲です。

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