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勝ったあなたは自己実現、負けたあなたは五月病?
執筆者 土屋彰久

勝ったあなたは自己実現、負けたあなたは五月病?

五月病

日本は、春の4月から新年度が始まりますが、そうして4月に始まった新しい職場、学校といった生活環境になじめずに、5月頃に集中して脱落者が出てきます。五月病とは、社会レベルではこうした現象、個人レベルでは急性鬱病を中心に、脱落の原因となった病的な精神状態を指します。五月病の原因は、人によって様々ですが、メジャーな原因としては、新しい環境に馴染めない、人間関係がうまくいかないといった原因や、志望の学校、職場に進めなかったという挫折感、逆に志望の学校、職場に進めたのに、期待していたようなものではなかったという失望感、あるいは、それでかえって目標を失ってしまったという「燃え尽き症候群」、などといったものが挙げられます。そのようなわけで、入社試験や入学試験を勝ち抜いたはずの「見かけの勝ち組」も、必ずしも大丈夫というわけではなく、本来なら入れただけでみんな喜ぶような企業や大学でも、いろいろと五月病対策を行っています。

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五月祭

人気度から言えば、一番、五月病が少なそうな大学、東大の文化祭で、読みは「ごがつさい」です。「さつきさい」の方が雅な感じでいいという声も外部には多いようですが、あくまで「ごがつさい」だそうです。東大の場合、本部の本郷キャンパスが春の五月祭、教養部の駒場キャンパスが、秋の文化祭シーズンの駒場祭となっていますが、本部と教養部が別キャンパスの大学では、秋に本部、春に教養部という振り分けの方が多数派です。実際、この春のシーズンの文化祭には、各大学の五月病対策という側面もなきにしもあらずで、その意味でも新入生がいる教養部キャンパスで、春に文化祭をやる方が合理的と言えましょう。東大が逆なのは、やはり「勝ち組大学」の余裕でしょうかね。ただ、東大でも五月病はけっこういるそうです。

また、緯度が高く春の訪れが遅いヨーロッパでは、春祭りにあたる元祖「五月祭:May Day(いわゆるメーデーと日付も同じだが、中身は違う)」が、各地で行われ、「五月祭の女王:May Queen」が選ばれたりします。

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仮面浪人

五月病の治療法の一つに、仮面浪人というのがあります。仮面浪人というのは、大学受験で志望校には受からなかったものの、すべり止めには合格した受験生が、その大学に入学し、学生の身分は得つつも、実質的には浪人生として次年度の志望校受験を目指して、受験勉強を続けるというものです。仮面浪人にも、学籍だけ確保して実質的に、もしくは本当に休学して勉強する純粋型から、学生生活は始めつつも、受験勉強も平行して行う並行型、そして、大学に入ってみたものの不満が残り、再トライを決意する一念発起型と、様々ありますが、五月病から移行するのは一念発起型が中心です。大学全体の競争率は低下する一方で、人気校、上位校の難度は相変わらずで、仮面浪人はむしろ増えてきているようです。並行型の仮面浪人に向いているのは、受験科目に直結する英語系や数学系なので、ちょっと後ろ向きな話ではありますが、併願校の選択の際には一考してみるのもよいかもしれません。

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ゴールデン・ウィーク

おそらく、かなりの五月病予備軍を救っていると思われるのが、この絶好の時期にあるゴールデン・ウィークの存在です。今は、ハッピーマンデーや、5月4日の特別休日制度の導入によって、それほどバラツキなく大型連休が取れるようになっていますが、以前は曜日の並び方によって、当たりはずれの波がけっこうありました。また、日本の場合、今はみどりの日となっている昭和天皇の誕生日、そして労働者の日であるメーデーが近くに並んでいるという特殊事情が、両者が祝日として同時成立し得ないという絶望的状況を固定化させています。かつて保革伯仲と言われた時代に、メーデーを祝日とする、この一点のみで社共が共闘して選挙に臨んでいたら、5月1日も休みになって、4月29日から5月5日まで見事に一つおきに並んでいたかもしれません。そうなれば、行きがかり上、間に入る4月30日、5月2、4日も休みにしないわけにはいかないでしょう。しかし、日本で保守政権が続く限り、メーデーだけは意地でも祝日にしないでしょうから、現実にはまったく期待できませんね。

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メーデー

五月祭の方ではなく、「労働者の日」の方のメーデーですが、これは1886年の5月1日に、アメリカの労働者、労働組合が8時間労働制を要求して、大規模な争議行動を展開したのが始まりです。これにちなみに、1890年に第二インターナショナルが5月1日を労働者の日と定め、労働者に世界的な連帯を呼びかけ、以後、おなじみのメーデーが定着していきました。日本でも、戦前は弾圧されていましたが、戦後は労組の主催で毎年、大規模な集会が開かれるようになりました。戦争直後は、「食糧メーデー」や「血のメーデー」など、労働者の窮乏ぶりを反映した闘争色の強いものでしたが、その後、デモ規制の強化、生活条件の改善、労組の組織率低下と弱体化、経済成長など、様々な要因によって穏健化が進む一方で、参加者も減少し、一部にはその存在意義に疑問を投げかける動きもあります。

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離職率

若者の就労環境を巡って、最近、よく出てくるようになった言葉ですが、具体的には新卒者の3年以内の離職率を指す言葉として使われるのが一般的です。ここのところ、この新卒3年以内の離職率は、大卒で30%程度、高卒で50%程度という、かつて終身雇用制を大きな特徴の一つとしていた頃の日本では、考えられないほどの高水準で推移しています。終身雇用制の崩壊が言われ始めて久しいですが、この離職率の高まりは、その流れが何よりも若者の心の中で進んでいることの証左と言えましょう。

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終身雇用制

かつては、年功序列制と並んで日本型雇用システムの最大の特徴でした。バブル以前の日本経済が強かった頃には、その強さの秘訣としてもてはやされていた時代もありましたが、逆に日本経済が弱体化してくると、その弱さの元凶の一つとして、やり玉に挙げられるようになりました。まったく、いい加減な話ですが、要は風向きが変われば、長所も短所に早変わりするということです。しかし、一度終身雇用制が崩壊した後は、たとえまた風向きが変わったとしても、もうその長所が生かされる機会はありませんね。

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終身雇用制のプラス面

終身雇用制は、ある種の労働力買い叩きカルテルのようなもので、どこの会社でも中途採用に消極的な姿勢を取る結果、労働者は現在の労働条件に不満があっても、なかなか今の会社を辞めるわけにはいかず、結局、各企業の雇用コストを抑制できるという効果があります。また、労働者の方としても、会社側の提示する労働条件を受け入れてさえいれば、まず首を切られることはないので、将来に対する不安は低下し、巨額のローンを組んでマイホームを買う、といったような、冷静に考えればかなりリスキーな消費行動を取ってくれるので、全体としては、内需の底上げにつながり、景気にはプラスとなります。また、雇用関係は夫婦関係よりも長くなることも珍しくなく、自然な感情として会社に対する忠誠心も向上します。特に、高度成長期には、このサイクルが、表面上、うまく回っていたために、この終身雇用制により、企業は比較的良質な労働力を大量かつ安価に安定して調達でき、国際競争力を高めることができました。

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終身雇用制のマイナス面

しかし、風向きが変わると、終身雇用制の特徴は、様々なマイナス面を露呈し始めます。世界において工業化が進み、また、日本の経済力の向上を反映して、為替が円高に動くようになると、日本の主要産品である工業製品の需要は当然ながら低下します。それまでの日本は、終身雇用制の強みを生かして、価格を下げると同時に生産量を増やし、「作れば売れる」という状態を実現して、利益を伸ばして来ました。しかし、世界的に工業製品の供給が過剰になり、また円高により日本製品の価格競争力が低下してくると、「作っても売れない」という状態に変わるので、「安く、沢山作ること」に強い終身雇用制は、途端に無用の長物となってしまいました。つまり、日本企業は需要を上回る余剰生産力を抱え込んでしまったということです。そして、この余剰生産力の再配分が、リストラ=リストラクション=経営構造の再構築というわけです。

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リストラ

リストラは、まるで首切りと同義のように用いられていますが、本来はそうではありません。もちろん、首切り、レイオフも、リストラの一種ではありますが、リストラというのは、経営構造の立て直しであり、経営資源の再配分ですから、一部に生じた余剰生産力を新規事業に振り向ける多角化もリストラですし、逆に多角経営の下で、不採算部門を縮小して本業に特化するのもリストラの一種です。ただ、この種の努力をさんざん重ねても、駄目だったために始まったのが、今風のリストラ、すなわち首切り、不採算部門の処分といった余剰経営資源の放棄による経営のスリム化であったために、リストラ=首切りという理解が一般化しました。たしかに、余剰生産力というのは、利益を生み出さない限り、借入資金であれば金利を、従業員であれば給料を払い続けなければいけないので、利益が見込めないならば、さっさと返上してしまうのが得策とも言えます。雇用関係というのも、企業が労働者から労働力を借りている関係としての側面を持っています。しかし、金の貸し借りと違って、人間がからむだけに、人という資本の扱いは難しく、それを誤れば、大企業といえども容易に破綻してしまうんですね。しかし、その怖さを自覚している経営者は少ないように思われます。工場をを建てて、人を雇って、物を作って売れば、それで経営者面ができた、古き良き時代の名残ということでしょう。

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成果主義

終身雇用、年功序列に代わって、新たな雇用システムとして登場してきたのが成果主義です。かつては、日本の雇用・俸給システムとの対比において、欧米流、特にアメリカ流の「実力主義」という呼び方の方が一般的でした。その頃は、外資系企業=実力主義と相場は決まっていました。ただ、実際のところは、外資系企業の中でも、本社系・本国人優先とか、非実力主義的な雇用慣行も様々あり、真の実力主義を期待して、早々と夢破れた外資系企業就職組も、また多いのが現実です。何事も、一面的な理解はリスキーですね。ただ今日でも、外資系企業の方が、よい意味で実力主義的であることは事実といえましょう。対して日本の成果主義ですが、経営側の都合に合わせて、かなり歪められた形で日本の職場には導入されているようです。よく言われるのは、経営陣や管理職には適用されず、中間管理職以下の昇給やボーナスを抑制する口実にされているだけといった、成果主義の適用対象の不公平、そして、成果の判定に際して、客観的・合理的基準を設定するのが難しいために、直属の上司などの判定者の恣意的裁量により左右されやすいという、判定の不公平です。こうした状況下では、結局、立場が上の者ほど不当に有利な労働条件に置かれるために、短期的には、不当に不利な立場に置かれる多数の一般従業員の雇用コストを抑制することが可能ですが、本人に不満が残るような不当な賃金の抑制は、結局のところ、労働意欲や忠誠心の低下をもたらすために、長期的には、むしろ労働力の質の低下を招き、雇用コストを上昇させることになります。華々しく成果主義を導入したはずの企業が、必ずしもうまくいってない背景には、こうした日本企業ならでは風通しの悪さを温存したままで、一方的、かつ御都合主義的に成果主義が導入されているという事情があります。その意味では、「日本型の成果主義経営」は、本来の成果主義の観点からは誤りと判断されると言ってもよいでしょう。

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自己実現

さてさて、リストラの寒風にさらされるばかりの中高年サラリーマンのみなさんには不評な成果主義ですが、とりあえず下振れリスクの少ない薄給で、しかも「いやならやめればいい」感覚の若年層には、成果主義は好意的に受け入れられているようです。まあ、自分達の親父世代が、年功序列と終身雇用を信じて、家庭すら犠牲にして会社に尽くした挙げ句に、30年越しの滅私奉公で手に入れた次席係長上級副代理程度のポストすらリストラで失って、路頭に迷うのを見ていると、地道に地べたを這いつくばる地虫人生よりは、飛んで火にいることになってもいいから、上昇のチャンスのある羽虫人生を選びたくなるのも当然といえば当然ですね。そんな、ギャンブル精神と根拠のない自信に満ちあふれた若い世代の間に、ここ10年ほどの間にすっかり定着したのが「自己実現」です。自己実現、つまり自分の力で自分のなりたいものになる、ということですが、要するに、それぞれの個人的な価値基準の中で立身出世を遂げるということで、かつての立身出世主義の価値基準が多様化し、個人化したものに過ぎません。そして、大部分のみなさんが望む自己実現は、結局のところ、経済的成功を含みます。つまり、好きなことをやって金も儲かる、というのが、大抵の人が思い描いている自己実現の中身です。それなら俺だって、自己実現したいよ、と誰でも思いますよね。それでいいんです。でも、「手っ取り早く金持ちになりたい」というのも、ちょっと品がないですよね。それを「自己実現したい」というと、何やら途端に高邁な理想のように聞こえてしまいます。この素晴らしい便利さが、この言葉を急速に普及させた要因です。「自己実現を図りたい」という言葉は、「聞こえのいい肩書きと、楽して贅沢に暮らせるだけの金が欲しい」と訳せば、すぐに理解できます。

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勝ち組/負け組

旧世代が、皆、負け組となって死に絶えていそうな10年後ぐらいには、かつての勝ち組・負け組の意味を知っている人は、もういなくなっているかもしれませんが、そもそも勝ち組・負け組というのは、最近のような勝ち組=高額所得者、負け組=勝ち組に蹴落とされた貧乏人といった意味ではありませんでした。これは、日本が太平洋戦争に負けた直後の頃に、まだまだ情報の伝達が不確実だったこともあって、中南米の移民先の国々日本人社会で、日本が負けたという報道を信じる人が負け組、信じない人が勝ち組に分かれて、一時はけっこう激しく対立していたという出来事から来ています。実際、日本の南方の島々でも、敗戦後、島を占領していた部隊が敗戦の報を信じず、戦争ごっこを続けて住民の虐殺や集団自決を続けた例はけっこうあり、多くの無駄な悲劇が生まれています。

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格差社会

高額所得者に対しては減税を行う一方で、貧乏人に対しては増税を行うという、政府の格差拡大政策は、少なくとも選挙結果を見る限り、国民の支持を集めました。その結果、それまで、経済の活性化や国際競争力のアップを大義名分に掲げ、様々な間接的政策により進んでいた、日本社会の格差の拡大は決定的なものとなり、本格的な格差社会の到来となりました。格差社会というのは、所得層ごとの人口分布のパターンが、多数の低所得層と少数の高所得層に分極化し、その乖離の度合いが強まった状態を指して言われる言葉です。具体的には、貧乏人の側では、数が増える一方で所得が減り、金持ちの側では数が減る一方で所得は増え、そこそこの収入という中間層は勝ち組と負け組に分かれて分極化することで、数が減るという形になります。こうした格差社会化の傾向は、ジニ係数という数値によって、数値化して表すことが可能で、日本のジニ係数の推移には、この格差社会化の傾向がはっきりと表れています。

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ジニ係数

ジニ係数というのは、他の用法もありますが、基本的には所得分布の格差を0から1の範囲で表す経済指標として使われています。数式としては、簡単に言えば「平均所得からの各人の乖離の度合いの総計」となり、数値は、完全に平等な場合には0となり、誰か1人が全所得を独占している場合には1となり、その間で低ければ低いほど平等ということないなります。一般的な判断の目安としては、0.1以下/人為的な平準化策が存在する、0.1〜0.2/平等の度合いは高いが所得向上の意欲がそがれやすい、0.2〜0.3/標準的なレベル、0.3〜0.4/格差は拡大しているが、所得向上の意欲は刺激されやすい、0.4〜0.5/格差が大きく、悪影響が目立つ、0.5以上/是正が必要、となっています。格差がある程度以上なると、所得向上の見込みそのものがなくなるために、逆に所得向上の意欲が低下するという点も、重要です。日本の場合、80年度以降、増大の一途を辿っています。厚生(労働)省が3年ごとに発表する数値を見ると、1981年から2002年までで、当初所得で0.35から0.50に、再分配所得で0.31から0.38(以上、概算値)と、それぞれ増加増大しています。今年発表になる数値は、2002年度以降の格差拡大政策を反映して、さらに増大していることが予想されます。

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ギャンブル資本主義

今の日本の経済は、当たりはずれの差が大きすぎることから、ギャンブル資本主義、あるいはカジノ資本主義といった言われ方もしています。政府は、「努力した人が報われる」などと、その高額所得者優遇税制や、でたらめで恣意的な規制緩和政策を自画自賛していますが、あれはウソです。実際は、汗水垂らして長時間働いている人の圧倒的多数は、所得は低く抑えられる一方で、保険、税金、年金と、増えるばかりの負担にあえいでおり、報われるどころではありません。「うまくやった人が得をする」というのが、今の日本の実態で、一般労働者はギャンブル無縁の地道な生活なんて許してもらえません。なぜなら、ギャンブル資本主義の世の中では、給料は最初から宝くじで支払われるためなんですね。続き番号で渡されるので、10枚に1枚は末等が当たります。これが、最低限の生活保障となるので、飢え死にすることはありません。で、まともな当たりくじはとは言うと、勝ち組の皆さんが最初からほとんど独占してしまっているんですね。もちろん、少しは庶民にも当たりを出します。そうすれば、この次は俺も当たるかな、などと徒な期待を抱いて、みんな大した文句も言わずに、「宝くじの給料」をもらい続けてくれますからね。これを「公正な競争」などと思っている限り、給料はいつまでも10分の1のままです。

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