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復活・リメイクのキーパーソンからキーワード
 

水泳

1930年代から第2次大戦をはさんで戦後しばらくは「水泳王国」「平泳ぎ王国」とよばれていた日本。数々の花形選手のフィーバーがあったが、その後競技ルールの改正等で、長い低迷期を迎える。しかし2003年7月のバルセロナ世界水泳で、北島康介選手が平泳ぎ100m、200mともに世界新で優勝、日本水泳復権の声が一気に高まった。

北島康介(きたじまこうすけ)

1982年東京都荒川区生まれ。5歳から東京スイミングセンター(東京都豊島区)で水泳を始め、全国中学校選抜において100mおよび200m平泳ぎを制して注目を集める。2000年4月の日本選手権で優勝、同年のシドニーオリンピックでは、100m平泳ぎ準決勝で1分1秒31の日本新記録。その後も、世界選手権、日本選手権などで次々と日本新記録を更新し、2002年10月には釜山アジア大会において200m平泳ぎで2分09秒97の世界新記録で優勝。2003年7月、バルセロナでの世界水泳では、男子平泳ぎの100mと200mでともに世界新をマークして金メダル2つを獲得。同年11月に紫綬褒章(→◆叙勲)を授章。年齢制限(55歳以上)撤廃後の初の授章者として、体操の鹿島丈博とともに話題を呼んだ。

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目力(めぢから)

強い視線、人をひきつける力のある視線。しばしば芸能界やメイクの世界で用いられる用語。北島康介にも目力があるといわれており、96年から北島を指導する平井伯昌(のりまさ)コーチの言によると、「(中学の時は)体が硬く、泳ぎもあまり巧くなかったが、凄く眼光が鋭かった」とのことで、集中力が他の生徒とは明らかに一線を画していたという。北島のように、精神面から見出される選手は珍しいとのこと。

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西日暮里(にしにっぽり)

東京都荒川区。北島康介の育ったところで、いわゆる下町。実家は精肉店を営んでおり、父親からはスパルタ式で育てられた。挨拶や外向性には特に厳しかったという。北島の並外れた精神力、プレッシャーへの強さ、友人への手厚さなどは、下町育ちが幸いしているのでは、との見方もある。

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中央大学

1885年開校の英吉利法律学校が母体。1905年に中央大学と改称。同大の水泳部は1920年創設の名門。戦後、数多くの五輪出場選手を輩出。アメリカでのコーチ留学経験のある高橋雄介(1962生)ヘッドコーチが主導する総合的な強化体制により、2000年シドニー五輪では、源純夏、中村真衣、田中雅美の3名のメダリストを出した。

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古橋広之進(ふるはしひろのしん)

1928年静岡県浜名郡生まれ。小6で学童新記録を出して「豆魚雷」と言われた。日大卒。1947年8月、400m自由形で4分38秒4の世界新記録。49年8月の全米選手権では400、800、1500m自由形、800mリレーの4種目に世界新で優勝、「フジヤマのトビウオ」とよばれた。52年ヘルシンキ五輪で惨敗し、現役を引退。日大文理学部教授、日本水泳連盟会長、国際水連副会長、JOC会長などを歴任。93年には文化功労者に選ばれた。

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競技人口

日本体育協会に加盟している競技団体登録競技者数でいうと、水泳の競技人口は約11万人(スポーツ白書 1998)。テニス、柔道、剣道、軟式野球は100万人を超えているから、必ずしも多いとはいえない。また、小中高校ではつねに女子の割合が男子を上回っている。競技人口とは言えないが、余暇に水泳を楽しむ人は7000万人弱ともいわれる。

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水泳ニッポン

日本はかつて「平泳ぎ王国」とよばれ、1928年のアムステルダム、32年のロサンゼルス五輪で鶴田義行が200mで連覇。36年のベルリン大会200mで葉室鉄夫、前畑秀子の男女両選手が優勝した。戦後も56年メルボルン大会200m(古川勝)、72年ミュンヘン大会100mで金メダル(田口信教)、92年バルセロナ大会200mでは、岩崎恭子選手が金メダルを獲得している。

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低迷期

かつて「平泳ぎ王国」と呼ばれた日本だが、国際水泳連盟(FINA)により潜水泳法が禁止、この泳法の有力選手を多く抱えていた日本水泳会には大きな打撃となった。平泳ぎは世界レベルから後退し、56年の金メダル(古川勝選手)以降、72年のミュンヘン大会(田口信教選手)まで金メダルが途絶えた。

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ジュニア・オリンピック(JO)

日本水泳連盟が主催するジュニア最大の水泳大会。10歳以下〜18歳のクラスにわかれ、短水路(25m)が春、長水路(50m)が夏に行われる。古橋広之進は、1985年、日本水泳連盟会長就任以来、日本の水泳を強くするにはジュニアの時期から切磋琢磨させていくべきとの考えをもっていた。その観点からも、ジュニア世代が定期的に競い合うJOの意義は大きなものがあるという。実際、2003年世界選手権で活躍した北島康介や稲田法子など、一線の選手はジュニアオリンピック経験者が多数。

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