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世界秩序のキーパーソンからキーワード
 

パウエル  Powell, Colin

アメリカ合衆国国務長官。湾岸戦争では事実上の最高司令官を務めた。1937年生まれ。ニューヨーク市サウス・ブロンクス出身。ニューヨーク市立大卒。ジョージ・ワシントン大修了。経営学修士。ベトナム戦争では名誉負傷賞を受ける。89年にブッシュ(父)政権下で黒人初の統合参謀本部議長に就任。ブッシュ(子)政権下で現職。

湾岸戦争

1990年8月、OPEC(石油輸出国機構)の割り当てを越えて石油を生産しているとして、イラクがクウェートに侵攻。国連安保理による撤退要求に応じなかったため、翌年1月、多国籍軍がイラクを空爆、湾岸戦争が起こった(3月停戦)。パウエルは黒人初の統合参謀本部議長として「砂漠の嵐」作戦を指揮した。

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『マイ・アメリカン・ジャーニー』  My American Journey

パウエルの自伝。貧しいジャマイカ移民の子として生まれ、サウスブロンクスに育ったパウエルがニューヨーク市立大学で地質学を学んだのち陸軍に入隊、ベトナム、韓国駐留を経て国防副長官補佐官、国家安全保障問題担当補佐官を経て統合参謀本部議長となり、35年の軍人生活を終えるまでを綴る。邦訳は角川書店刊、単行本で700ページ、文庫版で3冊にも及ぶ大部なものだが、アメリカでは一大ベストセラーとなった。

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ドナルド・ラムズフェルド  Rumsfeld,Donald H.

1932年生。米国防長官。穏健派のパウエルに対し、チェイニー副大統領と並ぶタカ派とされる。プリンストン大学卒後、海軍に入隊。75年、フォード政権下で史上最年少の国防長官に。軍改革やMD(ミサイル防衛)の推進者でもある。イラク攻撃に関しても強硬論を展開、「古い欧州」発言などで物議を醸した。

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ネオコン

ネオ・コンサーバティブ(新保守主義派)の略。アメリカが掲げる民主主義を基本理念にして、世界中に新たな秩序を構築していくことが国際社会の安定をもたらすという考え方。ブッシュ政権下ではポール・ウォルフォウィッツ国防副長官がその領袖と目される。親イスラエル人脈が多いという。これに国益重視の対外強硬派であるラムズフェルド=チェイニーが加わり、イラク攻撃論を展開。

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人望

多くの人が寄せる信頼の気持ち。パウエルは湾岸戦争の英雄として国民的人気があり、また国際協調派としても支持を受けている。2003年2月にアメリカで発表された世論調査によると、対イラク政策でパウエルを信頼するとの回答が63%だったのに対し、ブッシュ大統領は24%。パウエル自身はこの結果について、「世論調査結果を分析しないことにしている。私は自分の仕事をするだけ」と答えている。

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コンドリーザ・ライス  Condoleezza Rice

1954年生まれ。米国家安全保障担当大統領補佐官。86年、国防総省に勤務。ブッシュ(父)政権下で、国家安全保障会議上級部長(ソ連・東欧担当)に。98年、ブッシュ・テキサス州知事の外交顧問。01年、ブッシュの大統領就任に際して、黒人女性として初の現職に。パウエルら穏健派とタカ派の折衝役で「戦うプリンセス」と呼ばれている。

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無法者政権  Outlaw Regimes

2003年1月の一般教書演説(大統領が上下両院に対しておこなう今後1年間の施政方針演説)で、ブッシュ米大統領がイラクや北朝鮮などを念頭において用いた表現。ちなみに、前年の一般教書演説ではイラン、イラク、北朝鮮を名指しで「悪の枢軸」(Axis of Evil)と呼んで批判。

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「重大な違反」

2003年2月、国連安保理の外相級会議で、パウエルは衛星写真やイラク当局者の会話盗聴記録を提示。これをイラクによる大量破壊兵器の開発継続・隠蔽工作を示す新証拠として、国連決議1441に対する「重大な違反」ととらえた。ブッシュ政権はこれを武力行使に向けた有効なステップと見たが、仏独露は平和解決を求める共同宣言を発表、対立が激化した。

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「イラクの自由」作戦  Operation Iraqi Freedom

2003年3月、対イラク開戦に際して、命名された作戦名。国防総省が世論を重視、広報的な観点も考慮して決定したという。米英で作戦の名称は異なり、英軍は「TELIC」作戦(「目的にかなう」の意)。タイムズ紙によると、英国防総省が「コンピューターのボタンを押して」選んだ名前だという。

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外遊

外国に旅行すること。政治家などの場合に用いることが多い。イラク開戦に際し、外国で人気の高いパウエルが積極的に外遊して米の方針を宣伝していたら、国際世論は違っていたかもしれないと言われる。パウエルには湾岸危機の折、国を離れていたために重要な政策に加われなかった経験があり、今回も強硬派に外交政策を乗っ取られるのを恐れてのことという。

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