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“収穫の秋”で農と食のキーパーソンからキーワード
執筆・協力 編集工房インデックス

武部勤

北海道斜里町

武部の生地(1941年生)。人口約1万4000人。北海道東端部、オホーツク海に面した知床国立公園の玄関口である。主産品は、馬鈴薯、ビート、小麦、たまねぎ、人参、鮭、鱒、ほたて等々。日本におけるナショナル・トラスト運動成功例の地として有名。武部は地元・斜里高校卒業後、早稲田大学法学部へ進学。卒業後は、故・三木武夫の私的政策研究所「社団法人中央政策研究所」に勤務した。その後、故・中川一郎の後押しで北海道議会議員に当選。さらに、故・渡辺美智雄の秘書を経て1986年に衆議院議員に初当選した。以後5期連続で議員を務めている。

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三木武夫

1907〜1988。徳島県生まれ。明治大学法学部卒業。30歳の若さで衆議院議員に当選、当時最年少議員。その後50年以上にわたって国会議員として活躍---当初は小政党を転々とし、また後には自民党にあって少数派閥の長であった。にもかかわらず歴代内閣で要職を占めつづけ、その駆け引きの強さからバルカン政治家とよばれた。1974年、金脈問題で辞任した田中角栄の後を受け、クリーン政治を掲げて内閣総理大臣に就任、第4派閥からの指名という意外さは「青天の霹靂」という流行語に。武部は郷里の先輩であった林太郎という人物から三木に紹介され、中央政策研究所に6年間在籍した。

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中央政策研究所

1963(昭和38)年設立。20年ぐらい先の世界と、その中での日本を見据えつつ、日本の政治・社会に関して政策の基礎となる総合的な調査・研究を行い、社会と国家の発展に寄与することを目的とする。会員制。現在、海部俊樹(元内閣総理大臣、衆議院議員)が最高顧問を務め、理事長として平岩外四(元経団連会長、東京電力顧問)が就任。武部は1964〜71年まで、実質6年間研究員として在籍し、政策などを学んだ。

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中川一郎

1925年北海道広尾町生まれ(大相撲・八角親方〈元横綱・北勝海〉と同じ)。宇都宮高農を経て、九州大学農学部卒業後、農林省入省。大野伴睦自民党副総裁秘書を経て、1963年衆議院議員初当選。1973年、青嵐会結成、代表世話人となる。その後、福田内閣の農林水産大臣、鈴木内閣の科学技術庁長官などを歴任。81年、青嵐会を「自由革新同友会」に改組し「中川グループ」の長として自民党ニューリーダーの一人に。自民党総裁選後の1983年に急逝。自殺説があるが死因は定かではない。中川昭一衆院議員の父。農林族の大物であり、鈴木宗男は中川の秘書を務めていた。中川の後援者であった武部の父(ラーメン店経営)の依頼により、中川は北海道議会議員選挙で無所属の武部を後押しし、29歳の道議が誕生した。

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渡辺美智雄

1923〜1995。栃木県出身。東京商科大学商学専門部卒。1963年、衆議院議員当選。同期の中川一郎らとならび農林族議員。栃木なまり丸出しで、しかもわかりやすい語りがうけ、「ミッチー」の愛称で親しまれた。福田内閣の厚生大臣、大平内閣の農林水産大臣、鈴木内閣の大蔵大臣、中曽根内閣の通産大臣などを歴任。1991年宮沢政権で副総理に就任。武部は青嵐会で会ったのが縁で1984〜86年の間、渡辺の秘書を務めた。武部は、渡辺のことを親方のような存在だったと語っている。

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青嵐会

せいらんかい。1973年、当時の田中角栄政権の中国政策、さらに金権的体質に危惧を持つ石原慎太郎や渡辺美智雄、中川一郎らによって結成された派閥横断的な政策集団。結成の盟約を結ぶ儀式として血判を押して話題となった。

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山崎派

山崎拓(1936〜)を中心とする派閥。中曽根派→渡辺派を起源とする。正式名称は「近未来研究会」。党内第5派閥。旧渡辺派議員が中心。リーダーの山崎拓は、かつて加藤紘一、小泉純一郎とともにYKKとよばれた政治的盟友関係で有名。武部は渡辺美智雄に「私の後は、山崎についていけ」と言われ山崎を支持、山崎政権の発足を目指している。

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農林族

自民党農林水産部会を根拠地として、農業・林業関係に強い政治家のことを自民党農林族議員(農林族)という。もともと保守政権として農村地帯に強い支持基盤を持つ自民党においては、大きな力を持つ。農林族は生産者側に立った政策を主張するが、武部は2002年、年頭の挨拶で消費者側に立つと発言し、農林族との対決姿勢を表明した。

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JA(農協)

1900年産業組合法により今日のJA(農協)の前身「産業組合」が設立。以来100年以上の歴史を持つ世界でも有数の巨大な農業団体である。1992年に農協はCI活動によりJA(Japan Agricultural Co-operatives)となり、グループの結束力を強化。1972年設立の全国農業協同組合連合会(JA全農)、1943年設立の農林中央金庫、1951年設立の全国共済農業協同組合連合会がグループの中心。経営危機、農林族議員との癒着など問題点が多々浮上している。

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農畜産物不祥事件

2002年には企業による農畜産物の不祥事が次々と起きた。1月雪印食品による国産牛肉偽装事件。5月「ミスタードーナツ」の食品衛生法違反事件。3月〜8月にかけて丸紅畜産、JA全農などの企業が食品の不当表示事件を起こす。6月〜8月には協和香料化学、住友食品、マルハなどによる無許可添加物使用食品事件が発覚。6月〜9月中国野菜の残留農薬濃度が問題となる。2002年7月〜8月中国健康食品被害。8月、日本ハム国産牛肉偽装事件が起きる。食品に対する安全性と食品企業の倫理が問われている。

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狂牛病

正式名称は牛海面状脳症(BSE :bovine spongiform encephalopathy)。プリオンとよばれるタンパク質に感染した牛は、脳がスポンジ状になり、2週間から6ヶ月で死亡に至る。BSEに感染した牛の脳、脊髄、目、内臓肉を食べることにより、人間にも新変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD variant Creutzfeldt-Jakob Disease)として感染連鎖することが指摘されている。イギリスで1968年に確認され、2001年には日本でも第1号が確認。感染源は飼料である肉骨粉とみられる。国内で牛肉の消費が落ち込んだために武部も安全性を訴えた。

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食料・農業・農村基本法(新基本法)

1999年制定。1961年に制定された旧農業基本法が農業の発展と農業従事者の地位向上などを目標にしていたのに対して、食料の安定供給の確保・農村の振興などを基本理念とする。この法に基づき2000年から食料・農業・農村基本計画が実施されている。計画は5年ごとに見直され、管理運営する組織として食料・農業・農村政策審議会が設置されており、武部は農林水産大臣として参加。

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農業系文化人・著名人

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井上ひさし

1934年、山形県東置賜郡生まれ。上智大学外国語学部フランス語学科卒業。浅草フランス座文芸部員兼進行係を経て放送作家となる。NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」(1964〜69年)の脚本で有名。小説家としては「手錠心中」で第47回直木賞受賞。劇作家として劇団こまつ座を主催。コメ問題に関しても積極的に発言しており、著書として「コメの話」「どうしてもコメの話」(新潮社)、「お米を考える本」(光文社)などがある。

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永六輔

1933年、東京都浅草生まれ。早稲田大学中退。放送タレント。中学生の時、NHKラジオ「日曜娯楽版」に投書をして以来ラジオを中心に作詞、テレビ、出版の仕事を続けている。作詞の代表作に「こんにちは赤ちゃん」、「上を向いて歩こう」など。著書はベストセラーの「大往生」「二度目の大往生」「職人」(以上、岩波書店)など多数ある。TBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」「土曜ワイドラジオ 永六輔その新世界」、また「週刊金曜日」等の雑誌で日本の農業問題についても発言が多い。

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野坂昭如

1930年、神奈川県生まれ。早稲田大学文学部仏文科中退。放送作家、CMソング作詞家として活躍。処女小説は「初稿エロ事師たち」(1963)で、三島由紀夫、吉行淳之介に絶賛される。1968年、「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞を受賞。自分で農村に行き、無農薬農法で米を作るなど農業・食糧問題への関心も強い。農業問題を扱った著書として「かくて日本人は餓死する」(PHP研究所)がある。

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西丸震哉

1923年、東京生まれ。東京食生態学研究所主宰・千葉大講師。東京水産大学製造学科卒後、岩手県水産試験場勤務を経て農林省入省。初代農林水産省食料研究所官能検査研究室長をつとめる。食糧危機や文明破局論を唱え続け、1980年に自主退官、「食」を中心とした「食生態学」を確立し、自ら研究所の所長として現代社会に警鐘を鳴らし続けている。著書に、「41歳寿命説―死神が快楽社会を抱きしめ出した」(情報センター出版局)、「不健康長寿国ニッポン」(家の光協会)、「山歩き山暮し」(中央公論社)など。大叔父は島崎藤村。

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秋山豊寛

1942年東京生まれ。国際基督教大学(ICU)卒業後、TBS(東京放送)に入社。1990年に日本人初の宇宙飛行士として、旧ソ連の宇宙船「ソユーズ」、宇宙ステーション「ミール」に搭乗。1992年、熱気球でベーリング海峡を横断(世界初)。国際ニュースセンター長を経て1995年12月に退職。1996年から福島県阿武隈山地の滝根町で農業に従事する。著書に「農人日記 」(新潮社)などがある。

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山本コータロー

1948年、東京生まれ。1970年、一橋大学に在学中にフォークバンドを結成。「走れコータロー」が大ヒットし、日本レコード大賞新人賞受賞。1974年、山本コータローとウィークエンドで「岬めぐり」が大ヒット。現在、エコロジストとして環境問題に取り組むかたわら、自給自足のエコロジカル・ライフを目指し、西伊豆にて自然農法による野菜・穀物づくりもしている。白鴎大学経営学部で教授として地球環境について講義も行う。

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玉村豊男

1945年、東京都生まれ。父は画家・玉村方久斗。1971年、東京大学仏文科を卒業。在学中にパリ大学言語学研究所に2年間留学。その後、エッセイストとして活躍。旅と都市、料理、食文化、田舎暮らし、ライフスタイル論など幅広い分野で執筆を続ける。1991年より長野県に住み、ワイン用ブドウ、ハーブ、西洋野菜を栽培する農園ヴィラデストを経営。著書に「パリ旅の雑学ノート」(新潮社)などがある。

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高木美保

1962年、東京生まれ。女優。1984年、角川映画「Wの悲劇」でデビュー。「華の嵐」など数々のTVドラマやバラエティー番組に出演、マルチタレントとして活躍中。1998年に栃木県那須高原に居を移し、農業にも従事。芸能生活だけでなく、執筆業など幅広い活動をおこない、環境と人類を考える取り組みも。著書に那須での生活を描いたエッセイ集「木立のなかに引っ越しました」(幻冬舎)がある。

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C.W.ニコル

1940年生まれ、英国・南ウェールズ出身。作家。17歳でカナダに渡り、政府職員となり海洋哺乳類の調査研究、環境保護局官やエチオピア山岳国立公園創設など自然保護活動に専心。現在、長野県黒姫に居を定め、執筆の傍らナチュラリストとして活動。環境問題・動物問題に深く関与している。アファンの森財団による森林復元プロジェクトで生態系を保護する試みもしている。「C.W.ニコルのわたしの自然日記」(講談社)など著書多数。

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田中義剛

1958年、青森県生まれ。タレント。北海道酪農学園大学卒業。1986年「傷だらけのヒーロー」でデビュー。「笑っていいとも!」、「アッコにおまかせ!!」、「TVチャンピオン」、「世界まる見え!テレビ特捜部」などの番組に出演。1995年北海道中札内村へ移住、酪農生活をスタートし、《花畑牧場》を経営。これとも絡めて、1999年7月、つんく♂サウンドプロデュースのもと、半農半芸をコンセプトにした日本で初めての北海道限定インディーズアイドル〈カントリー娘。〉をデビューさせた。

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