月刊基礎知識
月刊基礎知識トップページへ バックナンバーへ
日本史のおさらい=番外編「幕末の偉人伝」
執筆者 山田淳一

日本史のおさらい=番外編「幕末の偉人伝」

陸奥陽之助

陸奥陽之助、後の陸奥宗光といえば不平等条約の改正、領事裁判権の撤廃に成功した人物として教科書に載っている名前ですが、この人は坂本龍馬のつくった海援隊に在籍していたこともありました。維新後の西南戦争では捕まり、投獄され後に大臣になるまで出世する波乱万丈の生涯を送ります。

陸奥陽之助は紀州藩士の家に生まれます。父は藩の財政部門に勤める重役でしたが藩内の権力争いに巻き込まれて左遷されてしまいます。家がお取り潰しになってしまい、継ぐ家もないということで宗光は15歳の時に江戸に出て何人かの儒学者のもとで下働きをしながら教えを受けるようになります。言ってみれば内弟子のようなものです。時代はまさに尊王攘夷運動が活発な時期であり、宗光の父や兄も藩にいても先がないと見切りをつけ脱藩し、尊王攘夷活動に身を入れます。宗光もこれに続きますが、坂本龍馬との出会いが転機をもたらします。

ページの先頭へ 戻る

坂本龍馬と陸奥陽之助

1864年、神戸に海軍伝習所が設立されると陸奥陽之助も坂本龍馬の勧めで海軍伝習生となります。海軍伝習所は翌年に閉鎖となったために、一度は行き場を失いますが今度は坂本のつくった海援隊に加わり、長崎で貿易業に勤しむことになります。このあたりの経験が陸奥に尊王攘夷から開国へと考えを変えさせる大きな原因になりました。広く海外を相手に商売をしているうちに「いつまでも攘夷を唱えていても日本は発展しない」と気付いたのでしょう。

明治維新後も外交部門で力を発揮しますが薩長の藩閥政治に嫌気がさして辞職します。大阪会議後に復帰しますが今度は1877年、西南戦争に際して政府の転覆を企んでいた土佐の立志社の者達と連絡を取り合っていたということで陸奥にも容疑がかかり投獄されてしまいます。政府要人になったり辞めたり、復帰したかと思えば捕まったりと忙しい人ですが、5年の禁固刑を受けた後に出獄すると欧米に留学し、帰国してからは駐米公使、外務大臣、枢密顧問官をつとめ、1894年には悲願であった不平等条約の改正、領地裁判権の撤廃に成功しました。

ページの先頭へ 戻る

高杉晋作

幕末に多くの尊王攘夷派の志士が現れるなか、高杉も例に漏れず、尊王攘夷思想の持ち主でした。穏健派の藩首脳陣を糾弾し、高杉らが先頭に立って藩論を尊王攘夷に導きます。しかし、高杉は清への貿易使節に同行して上海に渡航したのをきっかけに考えを変えます。清は1840年のアヘン戦争、1856年のアロー号事件(第二次アヘン戦争)の二つの戦争により英仏による植民地化が進められていました。その清を見て、西洋と衝突して戦うのか、それともこの文化を吸収して日本のものにしてから改めて西洋諸国に対抗するかを考え、後者を選択したのです。そこで高杉は持論を尊王攘夷から尊王討幕へと切り替えます。討幕への足がかりとして高杉は藩内に奇兵隊と呼ばれる庶民軍隊を創設します。身分を問わないこの軍隊には町人や農民も加わっていました。農民から武士まで一丸となって長州藩を突き動かし、長州から討幕の狼煙(のろし)をあげようというのです。攘夷で盛り上がっていた長州は1863年5月に下関でアメリカの商船を砲撃して攘夷を実行しますが同年8月には会津、薩摩の陰謀により京都から追放されてしまい、討幕どころではなくなってしまいます。

ページの先頭へ 戻る

奇兵隊と高杉晋作

京都から追放された翌1864年、挽回を狙って長州藩は京都に攻め上りますが惨敗(禁門の変)、さらに下関にアメリカを始めとする艦隊が報復にやってきます(四国艦隊砲撃事件)。ここでも惨敗した後に講和条約の締結のために話し合いが行われます。講和条約締結のための交渉役に選ばれた高杉晋作は幕府に責任転嫁し同時に長州の責任をうやむやにすることに成功します。その後、幕府が禁門の変の責任を問うために長州征討にやってきますが長州は幕府にひたすら謝罪し、お取潰しを免れます。それと同時に高杉は一時、藩の外に脱出します。討幕、佐幕のはっきりしない藩と距離を置くことで改めて作戦を立て直そうとしたのです。高杉は1865年に奇兵隊を率いて藩の権力の奪回に成功し、幕府の第二次長州征討も退け、いよいよこれからという時に肺結核で倒れ、そのまま死んでしまいます。「おもしろき こともなき世を おもしろく」との時勢の句を読んだ高杉は十分に彼の人生を楽しんで世を去りました。

ページの先頭へ 戻る

ロッシュ

ロッシュはフランス全権公使であり、幕府の軍隊の洋式化に全面的に協力した人です。彼は1864年に日本に着任しますが、幕府の顧問を自任するほど積極的に幕府の軍備面について指導します。横須賀製鉄所はフランスの援助により建設されたもので、なぜ、これほどフランスが幕府に肩入れしたのかというと当時のフランスが極東市場の開拓に力を入れていたという事情がありました。しかも絹織物の生産が盛んなフランスにとって、養蚕業が栄えている日本は絶好の原材料の輸入地です。そこでフランスは横須賀製鉄所の他にもさまざまな技術支援をする一方で生糸輸出の独占権を得ようとしていました。他国からの反対もあり、独占するまでには至りませんでしたがフランスの幕府支援にはこのような裏事情もありました。

しかし、日本もフランス側から援助を受けたのは単に申し出があったからではありません。当時のフランス陸軍の強さは世界有数でもありました。幕府はフランス式の軍隊をつくろうとし、支援を受けると共に、徳川慶喜の弟・徳川昭武をパリ万国博覧会に派遣させるなどして交流を深めていました。その狙いは昭武派遣をきっかけに親睦を深め留学生を送り、フランス軍隊についての書物を日本に数多くもって帰らせることにあったようです。しかし、幕府は大政奉還、敗北の道をたどり、結果的に敗者に味方したロッシュは、フランス本国に辞任を申し出て1868年に日本を去りました。

ページの先頭へ 戻る

パークス

パークスは1865年、イギリス全権公使として日本にやってきます。ロッシュより少し遅れてきたパークスはフランスと幕府がすでに親しくなっているのを知って慌てます。すぐに本国から海軍大佐を呼び、幕府の海軍伝習所の教官に推薦するなどの手を打ちます。この影響もあって、実は幕末の幕府の軍隊は陸軍はフランス式、海軍はイギリス式という英仏混合軍隊?とでもいえる形をとっています。しかし、幕府との関係はフランスの方に一日の長があったようでイギリスは次第に薩摩や長州に接近を図ることになります。高杉晋作や桂小五郎、西郷隆盛などとも会談し、彼らを日本でのパートナーとすることを決断したパークスはイギリス貿易商人のグラバーに武器弾薬を薩長に売り込ませます。

よく「イギリスは薩英戦争で薩摩に勝つが、薩摩の健闘に目を見張り、支援していくことに決めた」という解説がありますが半分正解で半分不正解でしょう。薩英戦争がイギリスの薩摩支援の動機のひとつになったことは確かでしょうが、その頃の幕府と薩摩の力関係を考えた場合、イギリスもできることなら幕府と組むことを選びたかったはずです。しかし、すでにフランスとの競争に敗れていたためにやむを得ず薩摩の応援に回ったといえます。

しかし、一寸先は闇、幕府が倒れ、薩長側が政権を握ります。パークスにとっては幸運だったのでしょう。ロッシュとの競争で幕府に接近することに失敗したパークスでしたが、薩摩や長州と組むことで幕末日本の勝ち組に入ったのです。その後、イギリス文化を流入させる為に尽力し、18年間日本に在住した後に清国公使となって日本を離れます。

ページの先頭へ 戻る

グラバー

日本の開国後、ロッシュパークスが自国の公使として日本にやってきたのに対してグラバーはイギリスの商社ジャーディンマセソン商会の代理店経営者として長崎に赴任します。1859年、グラバー商会を設立し、当初は日本茶、生糸を輸出の中心として扱っていましたが、長州藩が京都から追放された八月十八日の政変(1863年)を機に武器、艦船の輸入へと業務の中心をシフトしていきます。グラバーが死の商人といわれるのは幕末の日本で武器の販売を盛んに行っていたからですが、商機を見逃さない目敏い人だったといえます。イギリス本国の方針と同様にグラバー商会も薩摩や長州などの討幕派を支援していきますがグラバーは坂本龍馬の亀山社中とも武器・弾薬の取引を行っていました。また、薩摩や長州の藩士のイギリス留学にも手を貸しており、将来の政財界の中心人物との繋がりを築いていました。討幕運動の流れが加速すると、グラバー商会の業務も拡大の一途をたどりますが、思わぬ大誤算がやってきます。グラバーは日本の内戦の長期化を予想して武器艦船を大量に輸入していたのですが薩長と幕府の間では直接対決といえるようなものは鳥羽伏見の戦いのみ、その後の戊辰戦争も約1年で終結してしまいます。

ページの先頭へ 戻る

グラバー商会

武器の大量輸入をしたものの販売先がなくなってしまい、またそれまで取引をしていた諸藩からの返済も滞るようになり、1870年にグラバー商会は倒産してします。しかし、ここでものを言ったのが彼が幕末に着々と築いた人脈です。明治政府の首脳陣や財界人の中にはグラバーにお世話になった人が大勢いました。明治の政商・五代友厚、初代文部大臣・森有礼らの若い頃にイギリスへの渡航を手伝い、また1867年、岩崎弥太郎が土佐商会の主任として長崎に赴任してきたのをきっかけに交流が深まったといわれています。これが功を奏して、1881年、それまで官営であった高島炭鉱が岩崎の三菱に払い下げられた後もグラバーは実質的な経営者であり続けることができ、また三菱財閥の顧問として岩崎の相談役になります。

ちなみに、グラバー葉その後、ジャパンブルワリーの社長に就任。キリンビールを販売しました。

ページの先頭へ 戻る

西郷隆盛

西郷隆盛というとあの巨体のとおり、おおらかで大雑把な人だと思われるかもしれませんがとんでもありません。西郷は幕末維新の時期の屈指の謀略家といえるでしょう。島津斉彬は奉行所での西郷の仕事の丁寧さ、緻密さに注目し、水戸藩主、徳川斉昭の家臣、藤田東湖に弟子入りさせ、水戸と薩摩の連絡役に抜擢したといわれています。斉彬の死後は薩摩の実権を握った弟の島津久光に疎まれ一時は左遷されますが盟友・大久保利通のとりなしで藩政の中心に戻ります。西郷の役目は京都での情報収集でした。ぺリー来航以来、開国派と攘夷派に分かれ、過激尊攘派とよばれる者たちも登場する中で薩摩は態度をはっきりさせずに様子を伺っていました。その時に西郷を中心とする薩摩藩京都組が朝廷、公家を動かし、さらには京都から長州を追い出すことに成功します。長州からは大きな恨みを買った西郷ですが、その後、幕府の衰退振りを目にし、坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介で薩長同盟を締結します。重要な局面で抜群の判断力を示した西郷は薩長連合軍による討幕を成功に導きますが、その後自身が明治政府の中心となると軍と政府首脳との間の板ばさみで苦しむことになります。

ページの先頭へ 戻る
All Right Reserved, Copyright(C) ENCYCLOPEDIA OF CONTEMPORARY WORDS