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日本史のおさらい=幕末編③尊王攘夷
執筆者 山田淳一

日本史のおさらい=幕末編③尊王攘夷

後継者問題

井伊直弼が大老に就任する前に徳川家では後継者問題が浮上します。その理由は13代将軍家定に子供がいなかったためであり、御三家の一つ紀州徳川家の徳川慶福と御三卿の一つ、一橋家の一橋慶喜のが2人が候補者として名が挙がります。結果として14代将軍には紀州の徳川慶福が就任し、家茂と改名します。

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徳川慶福と一橋慶喜

慶福と慶喜、よく歴史の教科書では血筋が将軍に近いとして慶福を推すグループと才能を重視して慶喜を推すグループにわかれて争われたという説明がされますが本当にそれだけでしょうか。

後継候補として慶福の名前が挙がったとき、彼はまだ10歳を過ぎたばかりの少年です。いくら昔の子供は精神年齢が今より高いといっても子供であることに変わりありません。黒船来航により外交関係で難題を抱え、さらに国内で足元がぐらつき始めている幕府の中で本気で子供に将軍が務まると考えていたのでしょうか。答えは否です。

すでに井伊直弼については3月号で触れていますが、この時期に慶福を将軍に推すグループの本音は井伊直弼が政権中枢に就くことを期待する井伊待望論だったと考えられます。それは大老としての彼の強硬的な態度からも推察されます。そしてもう一つ、「慶喜はいいが親父の徳川斉昭は嫌いだ」といった斉昭アレルギーも原因の一つでしょう。一橋慶喜は実は水戸徳川家の徳川斉昭の息子なのです。斉昭と言えば黒船来航以来の幕府のうるさがたで攘夷論者の中心的存在です。「この期に及んで攘夷なんて無理だろ」と考えていた幕府の現実路線の方々から見れば斉昭の息子が将軍になったら一大事、日本が滅んでしまうぐらいの危機感を抱いてもおかしくはありません。後継者問題は大老に井伊直弼が着任した後、14代将軍を家茂と定め、慶喜や斉昭を政権中枢から排除することで一応の決着がつきました。

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桜田門外の変

日米修好通商条約の調印に前後して、大老井伊直弼は攘夷派の弾圧を始めます。主なターゲットは将軍後継問題で争った一橋派の面々と攘夷派の公家でした。外国嫌いで有名な孝明天皇の周りで攘夷派の公家に公然と幕府批判をさせておくわけにはいかないということです。この弾圧を安政の大獄といいます。しかしこれは逆に幕府への反発を強める結果になってしまい1860年、井伊直弼は江戸城桜田門の付近で水戸藩の浪士に殺害されてしまいます。

ところで、浪士とは仕える主君がいない侍、簡単にいえば無職の侍のことです。無職で侍ってどういうこと?と思われる方もいるかもしれませんが「士農工商」の階級にもあるとおり、侍とは職業名というより階級の名前なので職を失っても武士は武士なのです。

話を戻しましょう。井伊直弼が殺害されたのは事実ですが、公式記録では「病死」となっています。殺害されたのが明白な中で病死もないだろうと思いますが、これは官僚のトップである大老が江戸城付近で殺害されたなど言えないという幕府の面子にかかわる部分ともう一つは井伊家の相続の便宜を図るためと考えられています。

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和宮降嫁

大老井伊直弼の殺害後、さすがにこのまま強硬路線で突っ走るのは危険と考えた老中の安藤信正は朝廷を幕府の味方につけることで反発を抑えようと考えます。そこで将軍、徳川家茂の正室(奥さん)として孝明天皇の妹の和宮を迎えることを計画します。朝廷にも抵抗感はありましたが、まだ幕府と朝廷の仲はそんなに悪くはありませんでした。ですから、多少のすったもんだはあったものの2人は結婚することになります(和宮降嫁)。しかし、これを面白く思わないのが尊王攘夷派の連中です。「政治の道具として天皇の妹君を利用するとはけしからん」と怒った志士たちによって安藤も襲撃されます(坂下門外の変)。桜田門外の変のときとは違って命は助かりましたが、これをきっかけに安藤も表舞台から去ることになってしまいました。

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攘夷決行の約束

老中安藤信正の提案により将軍家茂と孝明天皇の妹、和宮は結婚することになりましたが(→和宮降嫁)、坂下門外の変に続き、幕府はまたまた頭を抱えることになります。1863年、将軍が京に上洛した際に攘夷の決行日を同年の5月10日と約束してしまいます。つい最近、条約を締結して諸外国と付き合い始めたばかりなのに今度は戦争を吹っかける約束をしたのですから、この辺りの幕府の態度は不可解に見えます。ただ、これは裏を返せばもう幕府に国内を統率するだけの力がない証拠ともいえます。「政権の担当は幕府の仕事だ。条約を締結してしまったのだから今さら攘夷はない。」と言うこともできたのです。しかし朝廷や尊攘派からの反対に押されて約束をしてしまった辺りに幕府のぐらつきが見えます。

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下関事件

1863年、約束の5月10日、尊攘運動の急先鋒である長州藩が下関海峡を通過していたアメリカ商船に大砲で攻撃を仕掛けます。

幕府にとっては寝耳に水です。朝廷から約束を迫られたからとりあえず5月10日と言ったものの本気で攘夷を行う気など幕府にはありません。何とか話を延ばし延ばしにし、そのうちうやむやにという「政策」とはいえないような作戦が幕府の本音だったと思われますが、長州のおかげでこのあと日本各地で尊王攘夷運動が起こります。尊王攘夷といってもそのほとんどが尊王運動というべきもので地方で徒党を組んだ武士が反乱を起こす小規模紛争でした。一部の気の早い武士たちはもう攘夷だ倒幕だと血が頭に上っていたようですが多くの藩は幕府が倒れる、幕府を倒そうなどとは本気で考えてはおらず、この時期の運動は成功しませんでした。

下関砲撃で乗りに乗っていた長州ですが同じくこの年の8月18日をきっかけに京都から追い出されてしまいます(→八月十八日の政変)。長州に一体何がおこったのでしょう?

 

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八月十八日の政変

長州追放の前にそれまでの長州は一体どんな立場にあったのか見てみましょう。長州藩主は代々毛利家の当主がなるものでしたが毛利といえば関ヶ原で西軍の総大将だった毛利家です。西軍の総大将だったものの合戦では動かなかったために関ヶ原後もお家取り潰しだけは免れて本州の西の端にひっそりとたたずんでいました。しかし、関ヶ原後も幕府に何かあれば一気に攻め入ってやろうという気概だけは受け継がれていたのです。その長州が250年後、黒船来航で揺れる幕府を見て「時は来た」と動き出しました。藩内で桂小五郎や高杉新作といった有望な若手が攘夷を叫び、それに押される形で藩主も攘夷の態度を示す、さらに朝廷に接触を図り、その威光で幕府に攘夷を実行させるところまでは成功したといえます。

(長州の下関砲撃は日本の一部である長州が実行したという意味では幕府の責任の下にやったといえなくもないのです。)

そして、後々は朝廷中心の政権を立ち上げその立役者として長州藩は重要な位置を占める。こんな野望を胸にしていたかどうかは分かりませんが、とにかく尊攘一筋でひたすら頑張ってきた長州に突然不幸が襲い掛かります。この年の8月18日、長州及び攘夷派の公家らが京都から追い出されてしまいます。これを「八月十八日の政変」といいますが、会津藩と薩摩藩が手を組んで宮中の警備を固めることで長州藩を朝廷に出入りできないようにしてしまったのです。会津といえば松平家が藩主といえば察しがつくかもしれませんが徳川の親戚筋です(徳川家康は徳川を名乗る前は松平姓でした)。つまり、ここにきて朝廷と幕府がもう一度手を握って仲直り?してしまったのです。孝明天皇にしてみれば外国は嫌いだけど、幕府が憎いわけではない、過激でちょっと危なそうな長州より長年、政治を任せて来た幕府を信頼しようという気持ちがあったとも取れます。そういうわけで攘夷運動の急先鋒だった長州の先行きに暗雲が垂れ込めて来ました。

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禁門の変

悪いことというのは続くものでこの先しばらく長州は不幸の連続に陥ります。まずは京都から締め出されたのと同じ年に池田屋事件が起きます。新撰組が主役の話でよく出てくる場面ですが攘夷派の志士が旅館の池田屋で倒幕のための密会をしていたところを新撰組に乗り込まれて多数の死傷者が出た事件です。ここでも有望な若手を失ってしまった長州藩は翌年、藩を挙げて京都に攻め上ります。長州にしてみれば「これまで帝のために頑張ってきた俺たちが何で京都から追い出されなけりゃいけないんだ。どれもこれも幕府と薩摩のせいだ。あいつらこそ京から追い出して帝を俺たちの手でお守りするんだ」といった気持ちで頭に血が上っていたのでしょう。朝敵(朝廷の敵)という汚名を被る危険も顧みずに京都に攻め込んでしまいます。これを禁門の変とか蛤御門の変といいます。しかし、長州藩だけでかなうはずがありません。返り討ちにあって朝敵にされてしまいます。朝敵になるというのは、朝廷の敵だから征伐することを許す、という朝廷の許可を幕府に与えることにつながり、長州藩は日本全土を敵に回すことになってしまったのです。

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長州征伐

日本全土を敵に回して、国内だけでも居場所がなくなった長州藩はさらに国外からも攻撃を受けます。前年の下関事件を受けてアメリカが報復のためにイギリス、フランス、オランダと一緒になって下関に襲撃してきたのです(四国連合艦隊下関砲撃事件)。長州は抵抗むなしくあっさりと砲台を占拠されてしまいます。そして禁門の変のお返しとばかりに今度は幕府が長州征伐に乗り出します(第一次長州征討)。海からは外国、陸からは幕府が攻め込んできて長州の命運は風前の灯です。しかし不幸の連続も藩が潰れるところまではいきませんでした。アメリカを始めとする連合国との話合いでは「もともと攘夷は幕府の命令だ。俺たちは幕府に従って砲撃しただけだ」と前年の下関事件の責任を幕府に押し付け、幕府に対しては「禁門の変の際はすいませんでした、大変反省しています」と二枚舌を駆使してピンチを切り抜けました。

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尊王攘夷運動

「天皇を尊び夷敵(外国)を撃ち攘(はら)う」これが「尊王攘夷」の意味ですが幕末の日本では「尊王攘夷」や「尊王倒幕」といったスローガンがやたらと飛び交います。混乱しないようにはっきりさせましょう。二つの言葉は違いますが同じです。すみません、もっと紛らわしくしてしまいました。

つまり、ペリーの来航をきっかけに攘夷運動が激化し、同時に「朝廷を蔑ろにする幕府はけしからん、帝をお守りしろ」という尊王運動と結びついたのが尊皇攘夷運動です。しかし、幕府と欧米諸国とのやり取りや、実際に外国の実力を見せつけられることによって「攘夷」が現実的ではないと感じた結果、「尊王攘夷」から「攘夷」の看板が下ろされます。そして、尊王倒幕とはこれより後に出てきた言葉で「尊王」はそのままにしながらも「幕府はけしからん」という気分が強く現れたスローガンといえます。

ただ、これも表向きの説明で物事はいつも様々な方向から見る必要があります。尊皇攘夷運動、略して尊攘運動といいますが、これで盛り上がった藩や武士にとって一度振り上げたこぶしは簡単には降ろせません。溜まったエネルギーの矛先を外国に向ければ自分たちがやられてしまうのは明らか。それならばいっそこのエネルギーで弱ってきた幕府を潰してしまおうと考えたのが尊王討幕運動のホントの所だという考え方もあります。

おそらくはどれか一つが真実なのではなく、こういった理由がいくつか重なって倒幕へと結びついたのでしょう。その意味では歴史はいろいろな考え方を認めることができる自由なものだといえます。さて、尊王攘夷運動が尊王討幕運動へと変わりこれまで外国を敵視していた薩摩や長州藩は今度は武器の輸入などによって外国の力を借りて幕府を倒そうとするようになります。まさに「昨日の敵は今日の友」そのものです。

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