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日本史のおさらい《幕末編》①開国まで
執筆者 山田淳一

日本史のおさらい《幕末編》①開国まで

外国船

江戸時代末期、外国船といえば黒船ペリー来航をまっさきに思い出します。しかし、ペリー(つまりアメリカ)以外にも西欧列強と呼ばれる国々が日本との交易を狙っていました。18世紀おわりから19世紀にかけてロシア、イギリスがそれぞれ日本との貿易を目的として交渉にやってきます。

1792年にやってきたのがロシア軍人のラックスマンです。女帝エカチェリーナ二世の命令で、ロシアに漂流してきた大黒屋光太夫らを連れて根室に来航します。漂流民を送り届けてくれるのは親切なお話なんですが、目的は通商(簡単にいえば貿易)の実現であって、戦争をしにきたのではありません。あくまでも交渉によって実現しようとしているはずなのですがラックスマンは軍人、しかも、わざわざ軍艦で来航です、やけに物々しいですね。これはペリーの場合でも同じですがロシアやアメリカにとって日本は正体不明の国、のこのこやってきて殺されてしまうなんて危険も十分にありえます。ほとんどお隣といってもいい国でさえ、こんなに警戒してやってきているのですからロシア使節来航までの約200年間、ペリー来航までだと約250年間、ほとんど外国との付き合いがなかったことを実感させられます。

結局、ラックスマンには通商はお断りして帰っていただきますが、今度はレザノフがロシアからやってきて通商を要求します。この頃は幕府もまだまだ元気な頃ですから「いやいやわが国は通商しないのが祖法でござる」と言ってやはり帰ってもらいます。祖法というのは先祖代々伝わる慣わしという意味で、この場合は家康以来の鎖国状態を指します。それからしばらくはロシアからのお誘いはなくなりますが今度はイギリスがやってくることになります。

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フェートン号事件

江戸時代末期、ロシアだけでなくイギリスもアメリカに先駆けて日本に対して通商を要求してきます。しかし、そこは世界に冠たる大英帝国。通商要求の前にまずは豪快な事件を引き起こします。1808年イギリスの軍艦フェートン号が長崎湾内に侵入してきます。このときの目的は通商要求ではなくオランダ船の捕獲(オランダは出島での交易が許されています)だったのですが、長崎の町民たちは、いきなり湾内にイギリス軍艦が現れたのですから何事かと思ったでしょう。いまで言えば領海の侵犯です。しかも、湾内に乱入だけにとどまらず、薪水(薪と水)および、食料を強奪して去っていったのですから(→「薪水給与令」)日本から見ればまるで押込み強盗そのものです。これが紳士の国がやることか?と思われそうですが紳士的行為も相手を対等の人間だと思えばこその話です。欧米各国にとって日本はまだまだ未開の国、「俺ら文明人に並ぼうなんておこがましいぜ。」と言ったか言わなかったかは分かりませんが、ここでも日本はアジアではともかく世界では低く見られていたことが分かります。

さて、その後、イギリスは日本に改めて通商を要求してきますが、これも祖法を盾にお断りします。祖法を盾にといっても要は「ダメと言ったらダメ」といっていることに変わりないのであまり理屈にはなっていませんね(笑)。まあ、自国の湾内にいきなり乱入してくる相手と仲良くなりたくないという幕府の気持ちも分からなくはありません。この経験から幕府は異国船打払令(無二念打払令ともいいます)を出します。これは清とオランダ以外の船は湾内にやってきたら迷うことなく打ち払えというお触れです。フェートン号事件で湾内に乱入されたのですから幕府の態度も仕方ないかもしれませんが、これはこれで、やっぱり「文明国を自負する国として正しいのか」と考えさせられるところです。

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薪水給与令

ロシア、イギリスと来て、いよいよアメリカです。しかし、アメリカといっても開国のきっかけとなった黒船の登場の前に1837年、モリソン号がやってきます。このときも漂流民を帰しにきたのと同時に通商を要求してきたのですが、異国船打払令が公布されていますから砲撃されてしまいます。しかし、1840年のアヘン戦争の結果、清がイギリスに敗れたのを知ると幕府は「おい、まずいぞ。清がかなわない相手に喧嘩を売るのは危険だ、ここは穏便に済ませよう」ということになります。これが薪水給与令です。通商要求に来た相手には燃料の薪と水を与えて穏便にお帰りいただこうというものです。そして、アヘン戦争の清の敗戦を知った幕府は情報の必要性を痛感します。それまでもオランダ風説書という海外情報を載せた文書を長崎でオランダから受け取っていたのですが、これとは別に更に別段風説書をオランダから受け取るようにします。情報はいつの時代でも重要なんですね。

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ペリー来航

オランダ国王からの開国の勧めも無視し、アメリカの東インド艦隊司令長官が来ようと首を盾に振らなかった幕府がいよいよ開国の決断を迫られるときがやってきます。1853年、黒船来航です。ここで一つ問題です。ペリーは浦賀に来航したとありますが、実際にやって来たのはいまの久里浜です。もちろん、当時も久里浜は存在していました。ペリーの記念資料館があるのも久里浜です。ではなぜ、教科書には久里浜来航ではなく浦賀来航となっているのでしょう。答えは、「当時の久里浜村は浦賀奉行の管轄だったから」です。つまり、いまでこそ久里浜も横須賀市の一部であり立派な行政区の一つなのですが、当時は久里浜村(村といっても現在の市町村でいう村ではなく田舎の小さな集落ぐらいにイメージしてください)といって、浦賀のお奉行様の管理下にあったのですね。そんなわけで、悲しいかな、ペリーは久里浜来航ではなく浦賀来航と書かれることになったのでした。

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黒船

いよいよペリーの黒船の登場です。ペリーは来航の際、アメリカ大統領の国書を携えてきますが、幕府は受け取りを拒否します。「大統領国書なんて受け取ったらまじめに通商要求について話し合わなければいけなくなる、祖法の一点張りもそろそろ限界だ。」と考えていたのでしょう。しかし、ペリーの強引な態度に幕府はやむを得ず国書を受け取り、翌年に返事をする約束をして帰ってもらいます。

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アメリカ大統領の国書

さて、よく教科書にも「ペリーの強引な態度」と出てきますが、これは、ただ「大統領の国書を受け取ってくれ、受け取ってくれるまで俺は帰らないぞ」と居座りを決めこんだわけではありません。これまでの自国やロシア、イギリスの交渉結果を踏まえてペリーは、「今までのようなぬるいやり方ではダメだ、いうことを聞かなければ武力行使もやむを得ずの態度で交渉に臨むべきだ」と考えたのです。当時、アメリカは西海岸の開発・発達に伴い、太平洋(日本近海でも)での捕鯨を盛んに行っていました。また、アヘン戦争によって、イギリスが清に進出してきたという事情もあります。これらを踏まえて、日本を寄港地にして燃料補給をしたかったのですね。少し先の話をすると19世紀末ヨーロッパ各国が清から領土の割譲を受けて東アジア進出を進める中、アメリカはモンロー宣言を発表し、清への進出を控えます。ペリー来航の時点で日本を将来のアジア進出の出先機関に、とまで考えていた可能性は十分ありますが軍事面ではあまり効果的ではなかったようです。

さて、ペリーに続けとばかりに一ヵ月後、ロシアからプチャーチンがやってきて通商要求と国境の画定を求めますが、このときも幕府は返事を先延ばしにして一度帰ってもらいます。そして、この先一年間、江戸幕府史上最大の混乱に陥ることになります。

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開国論議

黒船来航は日本の近代化と共に江戸幕府の崩壊のきっかけもつくり出しました。その理由は老中である阿部正弘のとった政策にあります。阿部はペリー来航後、朝廷への報告と同時に開国か否かについて全国の諸大名からも意見を集めます。現代ならば国内の政治について都道府県の知事が意見を言うことも珍しくありませんが、江戸時代はそうではありません。国内政治については幕府が一手に担っており、諸大名の意見を聞くことなどありません。もちろん、征夷大将軍の地位は朝廷から任命されたものであり、形式上のトップは天皇にありますが実権は幕府にあり、内政・外交とも朝廷から幕府に全面委任している状態でした。しかし1853年以後、様子が変わります。「開国は250年続く徳川幕府における重大な外交政策の変更であって幕府のみならず全国で議論すべき問題だ。」と阿部は考えたのかもしれません。しかし、意見を集めれば当然、賛成反対それぞれ多くの考えが寄せられます。なかでももっとも厄介だったのが水戸藩の前藩主、徳川斉昭です。幕府内部ではアヘン戦争での清の敗北から西欧列強の軍事力を恐れ、開国やむなしとの声も多くなっていましたが斉昭は根っからの攘夷論者でした。斉昭の強硬な反対もあって、幕府はなかなか対応を決められません。善し悪しは別として独裁というのは一人、又は一部の人間が政策について自分たちだけで決めてしまうので揉めることは少なくなります。江戸幕府は長い間、徳川家による独裁状態にあったのである意味では安定していたのですが、この開国論議により国内が右往左往の大騒ぎになったことで幕府の権力が弱体してきていることを露呈してしまいます。しかし、何とか開国の決断をした幕府は1年後、再びやってきたペリーに対し、日米和親条約の締結をします。しかしその内容は日本にとってはかなり不利なものになります。

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日米和親条約

日米和親条約の内容を見てみましょう。まず下田・函館の開港に加え、アメリカ船に対する薪水の給与、さらには片務的最恵国待遇を約束するものでした。「片務的」というのは一方的という意味であり、もしアメリカ以外の国と条約を締結したときに日本が相手国に対してアメリカに対するよりも良い条件を与えた場合にはアメリカにもそれ以上の条件を与えると言うものです。ひらたく言えば、「アメリカにはいつでも最高の条件を差し上げます」というものです。イギリス、フランス、ロシアともほぼ同じ内容の条約を結び、まずは一件落着というところですが国内では開国か否かで諸藩から突き上げられ、条約内容では片務的最恵国待遇を約束するなど幕府の弱体化が明らかになってしまいました(→「開国論議」)。

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勝海舟

さて、ここでペリー来航の影響について見てみましょう。諸藩からの広い意見の募集は先に述べたとおりですが、老中の阿部正弘は人材登用にも力を入れました。勝海舟もその一人です。勝と言えば坂本竜馬の師であることや西郷隆盛との会談による江戸無血開城で有名ですが、彼はもともとは小禄の旗本の家の出身でした。それがペリー来航の際に、海外貿易の利益から国力の充実を導くべきだとして開国すべきだとの意見を上申します。これが、幕府上層部によって高く評価されたことで長崎海軍伝習性、咸臨丸艦長、海軍奉行といった出世コースを歩むことになります。明治政府にあっても勝は海軍卿、枢密顧問官など政府の要職についたのですから、まさにペリー来航は彼にとって一大転機だったといえます。

この他にも阿部正弘が新たに登用した人材は多く、彼らは家柄に関係なく能力を見込まれて採用された人材でした。現代では国家公務員試験、古くは飛鳥時代に定められた冠位十二階の制度にもいえることですが、家柄に限らない有能な人材の登用というのはいつの時代でも重要な問題ですね。

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