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袋小路派の政治経済学*第6講[治安編](前編)
執筆者 土屋彰久

袋小路派の政治経済学*第6講[治安編](前編)

夜警国家  Night Watch State

夜警国家というのは、市民革命後の国家を、その機能面から特徴づけた呼び方で、市民革命前の絶対主義体制における警察国家(古典的)、また、社会権の確立後の福祉国家と、それぞれ対比される関係にあります。具体的には、国家・政府を市民社会に従属し、奉仕するものと位置づけ、その機能を治安維持を中心とした必要最小限の機能に限定することで、国家・政府の運営費用を最低限に抑えるスタイルの国家を意味しています。夜警なんて言葉は、今では死語になってしまいましたが、要するにガードマンのことです。夜警と呼んで、警察と呼ばないのは、それ以前の国家形態についての呼び方と重ならないように、という意味合いもありますが、むしろ、「警察=市民に対して威張る・夜警=雇い主に威張られる」という、立場の違いをわかりやすく表現したという側面の方が主です。夜警国家観は、今日においても過去の思想となったわけではなく、近年流行の新保守主義(新自由主義)には、この方向性が見られます。

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警察国家(古典的)  police state

欧米言語のpolice(例として英語)は、元々、日本語の「警察」よりも広い意味を持っているのですが、日本では「police=警察」と訳されてしまうもので、その結果できあがる「police state=警察国家」という言葉に、中身と見た目のズレを生じさせてしまいます。で、学問の世界では、「警察国家(古典的)の警察」は、「フツーの警察」とは違うというお約束でごまかすことで、この問題を片づけています。要は、中身を説明すればいいんですよね、こんなややこしい前置きは脇に置いておいて。さて、絶対王制国家における行政には、治安行政(もろ警察)を核に、救貧事業や、国土開発といった、今日の福祉国家にも通ずる福祉、土木行政も含まれており、古典的文脈では、これをひとまとめにして「警察行政」と言います。つまり、絶対王制型警察行政国家を縮めて、警察国家となるわけです。一応、簡単にその理由を説明しておきますと、絶対王制においては、行政は全体として王が国民に恩恵(もしくは責務)として与えるものと捉えられ、それに対して「police=警察」という言葉が当てられているためです。

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警察国家(現代的)  police state

わかってます、わかってます。今の世の中、「警察国家」という場合に、普通は古典的な意味では言ってませんよね。この現代的意味での警察国家ですが、これは一般に定着している一方で、必ずしも学術用語として認められているわけではないのですが、学者の間でも普通に警察国家と言えば、現代型のことですので、まあ、多数決で勝ち、と言って良いでしょう。現代的文脈での警察国家は、一言で言えば「警察による社会統制に依存した国家」です。簡単に言えば、まず、警察が威張っている。そして、特定の支配勢力が、その威張る警察を合法、非合法の両面において活用することで、その支配体制の維持を図っているということです。典型として挙げられるのは、いわゆる秘密警察が暗躍していた旧東欧諸国ですが、戦前の日本の<治安維持法−特高>体制も、身近な例として挙げることができます。警察国家の一つの特徴的は、合法的に認められた捜査や取締の権限と、非合法な拷問、虐待、暗殺などが、実際の警察活動においては切れ目なくつながり、一体として強力な社会統制機能を発揮する点にあります。「21世紀の治安維持法」と言われる共謀罪の新設に、日本の支配勢力が異常な執念を燃やしている背景には、この社会統制機能の強烈な魅力があります。憲法では禁じていても、拷問や虐待は、警察内部の慣習法では奨励されていますから、あとは法的権限さえ強化すれば、警察国家の一丁上がりです。

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福祉国家  Welfare State

戦後、現代国家の基本形態として定着するかに見えた福祉国家ですが、20世紀終盤から強まった、新保守主義の攻勢の前に、国によってはかなりの後退を余儀なくされ、あるいは過去のものとして葬り去られようとしています。福祉国家体制は、修正資本主義体制という呼び方もされます。これは、現実には不完全にしか機能しない市場のメカニズムに委ねる限り、所得・資産の格差は拡大するばかりで、政治的な自由や平等を破壊するまでに、経済的不平等が歯止めなく拡大するということを過去の経験からリアルに学んだ結果、それでも自由主義経済と市場機能はなんとか残していこうということで、それ以前の自由放任型の資本主義に大幅な修正を加えて出てきた経済体制です。具体的には、国家による経済的格差の是正、すなわち所得再分配機能を強化するために、財源として高率の累進税を採用し、国家による一般福祉サービスを充実させ、一般国民の日常生活のコストを低く抑えるというものです。これは、方向性としては個人的所有権、経済活動の自由が大幅に制限される共産・社会主義体制への移行を阻止するのが基本なのですが、「所有権、経済的自由は社会的責任を伴う」という基本的な理念においては、社会主義的な方向性も持っており、この点が、特に新保守主義勢力から攻撃されるという構造となっています。

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治安国家

現代の新保守主義勢力が志向する、ネオ・夜警国家を表現する言葉として、「治安国家」という言い方がされ始めています。まだ、その概念が固まってきているわけではありませんが、基本的なポイントを挙げると、以下のような感じになります。<1>国家機能において、治安維持を重視、もしくは最優先。<2>経済政策としては、小さい政府、民営化、規制緩和の新自由主義路線。<3>保守勢力による事実上の権力の独占状態。このような体制に移行するメカニズムというのは、詳しく説明すると長くなるので、猛烈に簡単に説明することにしましょう。まず、順序としては保守勢力による権力の独占が最初に来ます。保守政権の政策は、格差を拡大し、貧困層を増大させるために犯罪の発生率が上がりますが、行政コストを抑えるために、警察の人員はなかなか増やせません。さらに、雇用コストを下げるために外国人労働者の受け入れを進めますが、これらの人々はより荒んだ国からやってきて、最下層に組み入れられるために、当然、犯罪予備軍を増強する副次的効果を生み、貧困に起因する犯罪が増加します。この種の犯罪は、現在の経済状況に不満をもつ人々が主として起こしますが、その結果、犯罪が増えると、今度は経済状況に満足している人々も不満を持つようになります。こうして、理由は何であれ、現状に対する不満が社会の大多数に広まってしまうと、さすがに政権の維持が困難になるために、現在の経済政策には不満をそれほど持たない人々の不満に対処し、同時に貧困層による政権転覆の動きを封じ込めるために、他の予算を削っても警察力を強化して治安の回復を図ります。その結果、政府はより「小さな政府」を志向することになり、所得再分配機能が低下し、そのしわ寄せが貧困層からさらに上がって中間層まで及ぶようになります。この中間層が離反すると、これまた政権維持が困難になるので、主としてこの中間層をターゲットにして、「治安か福祉か」の二者択一の選択を迫るキャンペーンを行います。もちろん、実際には福祉を諦めて治安を選択するように、様々なチャンネルのメディアを通じて誘導するために、中間層は治安を選ぶ、つまり、福祉の削減と引き替えに治安の回復を図るという条件で現政権の支持に傾き、「国民的支持を得て」、治安国家化が進められることになります。こうした誘導が可能になるのは、保守勢力による権力独占の効果として、「所得再分配の強化により、治安も福祉も実現しうる」という、左翼勢力からの有力な主張・反論を効果的に封じ込めることができ、「情報の視野狭窄」に陥った国民を「誤った二者択一」に追い込むことができるためです。政治的選択において、二者択一というのは、そもそも問題や危険性を多く含んでいるのですが、避けられない場合というのももちろんあります。ただし、政権選択の前に、国民に二者択一を迫るのは仕方ないにしても、政権を取った後に二者択一を迫るというのは、そもそも政治手法としてインチキ臭さ爆発なんです。本当は三者択一なんですからね、「治安を取るか、福祉を取るか、あるいは政権を支持しないか」の。

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死刑存続論

「先進国クラブ」とも呼ばれ、様々な指標、数値の比較の対象にされることが多いOECD加盟国ですが、この中で死刑廃止の流れは、特にヨーロッパ諸国を中心に趨勢となっており、それに対してアメリカやその尻尾にくっつく日本や韓国などが、死刑に固執するという構図ができあがっています。死刑を巡っての廃止論対存続論の対立というのは、日本国内でも昔から続いていますが、世論調査では常に存続派が多数を占めてきているように、死刑好きな国民性の前に、存続論側の優位が揺らぐ気配はありません。ただ、死刑存続がトルコのEU加盟の障害の一つともなっているように、ヨーロッパでは、死刑を維持している国家は、「野蛮人の国」と見なされているということぐらいは知っておいた方がいいでしょう。さて、なぜここで、つまり経済の話で死刑が出てきたかというと、死刑は罰金の次に安上がりな刑罰で、実はそのコスト面での優秀性もあって、為政者に好かれてきたからなんです。懲役刑なんかは、一見、受刑者を働かせて儲けているように見えますが、実は刑務所の運営費用がかさむもので、実は事業としては赤字なんですね。だから、戦後半世紀以上、死刑の問題性と、無期懲役制度の不備が常に問題にされながらも、その間を埋める終身刑が導入されてこなかったし、無期懲役も実際に終身刑として運用されるケースは意外と少なく、いつまでも面倒を見ていられないということで、場合によっては組織ぐるみで「模範囚偽装」までやって、凶悪犯ですらさっさと仮釈放にして刑務所から追い出しているという話も、陰ではずっと囁かれてきました。さらに、死刑は他の刑罰に比べれば抑止効果が高く、金をかけずに犯罪の発生率を下げようという場合によく採用される厳罰主義と非常に親和性が高いので、行政コストを抑えつつ治安を向上させたい政府にとって、死刑は最高の友なんですね。特に、治安国家化が進む背景には、貧困層の増大と困窮化に起因する犯罪の激化と凶悪化があるわけですから、こうした状況に対して低コストで効率的に対処していくには、犯罪者はバンバン死刑にしていった方が色々と都合いいわけです。だって、人員一人あたりの運営費用は削られて、末端の捜査員の労働環境は悪化する一方、権限だけが強化されて凶悪化した警察なんて、かつてのように見込み捜査、誤認逮捕、冤罪事件を連発するに決まっているんですが、そんな冤罪被害者もさっさと死刑にしてしまえば、死人に口なしで、真実は簡単に闇に葬ってしまえます。さらに、こんな警察が相手では、目をつけられたら一巻の終わりと、善良な市民は息を潜めて暮らすようになりますから、治安の維持も楽になります。最近、凶悪事件が起こるたびに、被害者遺族を連れてきて、死刑のハードルを下げようというキャンペーンがメディア総動員でよく行われていますが、その背景には、死刑という便利な道具をもっと自由に使えるようにしたいという政権側の思惑が見え隠れしています。

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終身刑  imprisonment for life

日本でも、導入が議論されたことはありますが、タテマエ上は無期懲役の存在、ホンネ上はコストの問題が障害となって、現在までのところ導入には至っていませんし、現実問題として死刑の適用拡大を志向する動きの方が圧倒的に強く、導入の見込みもありません。そのようなわけで、日本にとっては、どこまでも海の向こうの異国の話という感じですが、一応、説明しておきましょう。終身刑にも、絶対的終身刑、相対的終身刑、超長期刑というのがあります。絶対的終身刑というのは掛け値なしの終身刑そのものズバリで、仮釈放も認められません。恩赦の対象となるかについては争いがありますが、同じ絶対的刑罰である死刑についても恩赦がありうることなどから、恩赦の対象となり得ても絶対的終身刑に分類しうるとする説の方が有力です。相対的終身刑というのは、無期の懲役・禁固刑で、仮釈放が許されている場合がこれに分類されます。ですから、日本の無期懲役も形式上はこれに当たりますが、実際の運用においては終身刑的運用がなされておらず、下手をすると、無期より軽いはずの有期の受刑者より早く出所してしまうこともあります。超長期刑は、日本では認められていませんが、有期刑の上限が高い場合や、複数の罪状で服役年数が機械的に加算されていく制度を採っている国などで、実質的な終身刑として機能しています。この制度は、特に形式を重んじた古い時代の名残で、古い制度を残していることが多いアメリカの各州によく見られ、上限が二桁で99年の刑とか、あるいは青天井で250年の刑なんて話をよく聞きます。日本でも、最近、有期刑の上限が30年に引き上げられたので、高齢者に対しては実質的に終身刑として機能する可能性が高まりました。

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厳罰主義  draconianism

最近の有期刑の上限引き上げなどに見られるように、日本の政府の政策は、はっきりと厳罰主義に傾いてきているようです。厳罰主義は、罪と罰のバランスから言って、適正を欠く程に重い罰を科すやり方で、犯罪行為のリスク・不利益を大きくすることによる抑止効果を期待する考え方です。これは、警察当局の犯罪摘発能力が低い場合にも、その「見せしめ」、あるいは「一罰百戒」による増幅効果により、実力以上の抑止効果を実現できるので、昔からよく使われてきました。ただ、これに対して統治機構の民主化や人道主義の広がり、犯罪学の進歩といった複合的な要因から、先進国から厳罰主義は見直し、緩和が進み、全体的な方向としては、公正、適切で効果的な刑罰のあり方を模索する方向に進んでいます。しかし、今の日本のように、20%台で低迷する犯罪検挙率をあざ笑うかのように急激な上昇カーブを描く犯罪発生率を目の当たりにして、手っ取り早く金をかけずに数字だけでもなんとかしようと思えば、歴史の針を逆に回したくなるのも当然というところはありますね。

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必罰主義  the principle of punishing evildoers without fail

文脈によっては、捕まえた犯罪者には、とにかく刑罰を科す、という意味でも用いられますが、厳罰主義と対比して言われる場合には、犯罪を漏れなく摘発することで犯罪を抑止する考え方を意味します。つまり、警察の犯罪摘発能力が高ければ、厳罰主義による増幅効果に頼らなくても、つまり、バランスを欠いた過酷な刑罰を科さなくとも、十分に犯罪抑止効果が期待できるというものです。実は、日本だってなんでも厳罰主義でやってきたわけではなく、必罰主義的な対応が効果を上げている犯罪もあるんですね。それは、キセルです。キセルは、見つかると基本的に三倍の料金を取られます。悪質だと、さらに警察に突き出されたりもしますが、よほどのことがなければ、そこまではやりません。なぜかというと、鉄道会社の方にとって得がないだけで、むしろ、逆恨みによる報復のリスクが高まるだけだからです。いざ攻撃をしようと思ったら、鉄道ほど無防備な攻撃対象はありません。どこにどう監視カメラをつけようと、あるいは監視員を配置しようと限界は非常に低いところにあります。だから、恨まれない、憎まれない、これが第一なんです、鉄道会社は。だから、キセルのペナルティーを正規運賃の10倍に引き上げる、といったような厳罰主義は、たしかにそれなりの抑止効果は上げるでしょうが、その代わりに恨みの種をそこら中に蒔くことになり、それが怨恨の根を張り怨念の花を咲かせ、いつか大惨事という実を結ぶことになってしまったら、元も子もありません。だからと言って、やはりキセルは悩みの種ですから、見過ごすわけにもいかない。あとは、社会的に適正な罰と認知されている三倍料金という罰に頼って、必罰主義で行くしかありません。というわけで、もちろん省力化などの要因もありますが、高度な耐キセル性を具えた電子改札システムを導入し、さらに改良を重ねて、「キセルをやればすぐにばれる」という状況を実現し、キセルの大幅な抑止を実現しました。ほら、これって今の社会の縮図でもあるんですよ。厳罰主義は恨みの種を撒き散らしますから、上げ底粉飾込みで犯罪検挙率がやっと20%台前半なんていう防衛能力の低い日本社会にとって、長期的にはマイナスの方が明らかに大きいんです。自分達の防衛の能力の低さを自覚できたなら、鉄道各社のキセル対策の発想を見習いましょうよ。鉄道各社は、正義でも人道でもなく、利益のことだけを真剣に考えて、ここに行き着いたんです。社会にとっても、利益につながるのは厳罰主義ではなく必罰主義です。

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