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名誉ある撤退、と言われたいものだ

名誉ある撤退かどうかは後世のおたのしみ(国内政治編)

赤穂四十七士

元禄時代に江戸城の松之廊下において赤穂藩主・浅野内匠頭が突然、吉良上野介を斬りつけた。原因は諸説あるが、内匠頭は「私の遺恨」と答えるのみで、喧嘩両成敗の裁きが常識の時代においても、一方的に斬りつけたこの事件は喧嘩とも見なされず、内匠頭は即日切腹を命じられ、吉良上野介は「大事に養生するように」と無罪の裁定がくだった。吉良の無罪に対し、主君は切腹で藩も断絶となった赤穂藩士は、武士として表向きは退いたかに見えた。しかしその後、1年9ヶ月の歳月をかけて大石内蔵助ら47人の藩士が汚名をそそぎ、主君の仇を討った。47人は切腹となったが、この美談が人々の心を打ち、江戸時代に「忠臣蔵物」とよばれる80余りの歌舞伎や浄瑠璃が作られ、現代に至るまで不滅の人気を誇っている。

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昼行灯

昼に灯す行灯は用をなさないことから、役に立たない、ぼんやりした人を指すが、大石内蔵助はその代表に例えられる。浅野家再興の道を断たれ、後は討ち入りに向かうのみとなった後、家族を安全に避難させた内蔵助は、やがて郭通いに明け暮れる。討ち入りの計画を知られぬよう、吉良家の目を欺き、味方まで欺いた作戦とされるが、実際のところ、内蔵助は生来女好きだったようで、妾に子どもを産ませていたり、江戸詰め時代は吉原通いも盛んだったという。結果的に、吉良の目から討ち入り計画を隠すこととなったが、討ち入りにはやる藩内の過激派を抑えつつ、計画を進める過度のストレスを発散するしかなかったともいえる。

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腰抜け大野

浅野家の次席家老、大野九郎兵衛。遊び好きの大石内蔵助とは対照的で、理財に優れ、藩政を切り盛りしたが、内蔵助とは不仲だったともいわれる。城明け渡しの前夜に息子・郡右衛門と小さな孫娘を置き去りにして逃亡し、臆病者・卑怯者と呼ばれた。実は大野と内蔵助との間には密約ができていて、討ち入り失敗の場合の吉良が上杉家を頼るであろうと想定して道中での襲撃に備えさせた、そのために大野は悪役を買って出たなど諸説あるが、真相を裏付けるものはない。

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中曽根裁定

1987年、第3次中曽根内閣の任期満了に伴う総裁選は、ニューリーダーと呼ばれる竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一の3名が有力と目されるなか、二階堂進前副総裁が出馬の意思を表明。しかし推薦人50名を得られず「名誉ある撤退」と称して断念。その会見では、「50人の署名を集める自信はあるが、政局安定のため」出馬を取り止めると、名誉ある撤退を強調した。竹下・安倍・宮沢の3者は過半数を握ることができず拮抗し、「3人の話し合いで決める」と会談がもたれたものの決着がつかず、結局総裁決定は中曽根に一任され、この中曽根裁定により、竹下内閣が発足。次期幹事長、蔵相人事まで決定する前例のないものとなった。

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小糸製作所株式買占め問題

1989年、トヨタ自動車系の部品メーカー、小糸製作所に対してアメリカのグリーンメイラーとして有名なブーン・ピケンズ氏率いるブーン社にによる敵対的買収が仕掛けられた。持ち株率20%超のブーン社より20%以下のトヨタが小糸製作所を支配するのは不当であると主張し、トヨタによる高値買取を画策した。90年に証券取引法が改正され、大量株式取得者は5営業日以内に大量保有報告書を提出しなければならない「5%ルール」などが導入され、秘密裏に買収を進めて経営権を掌握することが困難になったことや、小糸製作所とトヨタの強硬な姿勢に、91年4月にピケンズは撤退宣言を宣言。

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リクルート事件

→2006年4月号参照

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愛知おろし

1989年、宮城県知事選に自民党の愛知和男氏が出馬表明した。しかしその矢先、リクルートから献金を受けていたことが発覚。贈収賄事件ではなく政治献金であったが「リクルートの弁明をしながら、選挙はできない」と名誉ある撤退として、出馬を断念した。この選挙に敗れれば、竹下政権に与える衝撃は甚大として竹下派が中心に「愛知降ろし」に動いたとされる。愛知氏は同年6月、安全保障特別委員長に就任。その後は環境庁・防衛庁の長官を歴任し、02年政界を引退した。

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加藤の乱

小渕首相が倒れたことによって急遽発足した森内閣。小渕首相への同情もあり、高支持率でスタートしたものの、相次ぐ森首相の失言・放言によって批判が高まり、若手議員の中からも森首相の退陣を求める声が上がり始めた。そんななか2000(平成12)年11月、加藤紘一元自民党幹事長が森政権打倒を宣言。メディアは加藤政局一色となり、インターネット上の加藤支援の声はバーチャル政権の誕生を予感させ、国民の加藤への期待は大いに高まった。加藤の盟友、山崎拓元政務調査会長も加藤と結束し、両派で不信任案を可決し、森を退陣に追い込もうとした。しかし、野中広務幹事長を中心に、党執行部は不信任案に賛成した議員は除名し、総選挙で公認をしないことに決めるなど、加藤・山崎両派の議員を切り崩しにかかり、両派は同調者を集めきることができなかった。結局、勝利を確信できないまま不信任案に賛成票を投じる犠牲を同調者に払わせるのは忍びないと、「ここは名誉ある撤退をし、力を蓄えよう」と加藤が宣言。国民の期待は大きかっただけに、裏切られた失望は大きく、加藤はその力を急速に失うこととなった。

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野中広務元幹事長の政界引退発言  Announcement of Retirement by a Former General Secretary of LDP

2004年版本誌掲載。以下、

2003(平成15)年9月9日、自民党の野中広務元幹事長は、総裁選挙のさなか、「今期をもって政界を引退する。…自ら退路を断ち、最後の情熱と志を、今回の小泉政権を否定する最大の戦いに燃焼し尽くしたい」と発言。同時に、野中と同じく自民党橋本派の幹部である青木幹雄参院幹事長や村岡兼造・橋本派会長代理が、同派から出馬した藤井孝男元運輸相を支持せず、小泉首相支持を言明したことを強く非難した。今回の引退表明については、小泉首相優位の情勢のなかで、自らの進退をかけて総裁選の形勢を逆転させる捨て身の「奇襲作戦」との見方が一般的。野中は、以前から小泉政権の構造改革路線に批判的で、反小泉の派閥連合を模索したが失敗。続いて、派内での統一候補擁立を図ったが、小泉首相の国民的人気を重視し、次期参議院選挙をも念頭においた青木参院幹事長の反対で派閥を一本化することができなかった。03年9月9日、同派の会長代理である村岡兼造が橋本会長に無断で小泉首相と直接面談し、小泉支持を表明したことに失望し、引退表明になったといわれる。この事態は、旧来型の利益誘導政治が、グローバル化など新たな環境のもとで融解している現象ととらえることができるかもしれない。野中の真意が既得権益の保護にあるか否かは別として、構造改革路線がもたらす、所得格差の増大や一般国民の生活不安、ここから生じる治安の悪化、社会不安などに問題に対する政策的解答が準備されていないことだけは認識しておく必要がある。

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中曽根、宮沢元首相の引退

2005年版本誌掲載。以下、

2003(平成15)年秋の衆院総選挙の直前、小泉首相は首相経験者であり自民党長老の中曽根康弘、宮沢喜一に政界引退を求めた。宮沢は了承したが、中曽根は1996年の総選挙における候補者調整での「終身比例代表1位」の約束をもちだして抵抗した。結局、自民党の比例区名簿に中曽根の名前はなく、中曽根も引退することになった。

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