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名誉ある撤退、と言われたいものだ

名誉ある撤退かどうかは後世のおたのしみ(国際政治編)

スペイン内戦  Spanish Civil War 英 ; guerra civil 西

1987年版本誌掲載。以下、

スペイン内乱、スペイン市民戦争ともいう。1936年、人民戦線(front populaire)内閣に対して軍部右翼が反乱軍をなし、フランコ指揮下のもと39年までに勝利をおさめた。この間、すでにファシズム政権を樹立していたドイツ、イタリアが反乱軍を支持して兵器と兵士を送り、これに対して、イギリス、フランスなどは、中立の立場をとった。かわって欧米各国から義勇兵が政権擁護のためスペインにむかったが、その中には作家として名をなしていたオーウェル、ヘミングウェイ、マルローらも含まれていた。ファシズムと反ファシズム対決として、第2次大戦を予告する前哨戦ともいえる。

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国際旅団

スペイン内戦(1936〜39年)のときに各国の義勇兵が結束した反ファシズム運動。55カ国4万人が集まったといわれ、共和国側として戦った。写真家のロバート・キャパはこの内戦の写真で報道写真家をして有名になったが、恋人のゲルダは乗っていた車が撤退中の共和国軍の戦車と衝突して亡くなった。国際旅団は、同じ共和国側につき有力な支援元であったソビエト連邦のナチス・ドイツとの取り引きのために撤退を余儀なくされ、戦争終結前年の1938年解散した。それぞれが自国の言葉で「インターナショナル」を歌い、行進した国際旅団であったが、内戦は結局共和国側が破れ、1939年3月にフランコ軍の勝利で終結となった。

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クトゥーズフ将軍

大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開したロシアを懲罰するために1812年にナポレオンがフランスおよび同盟国からなる大陸軍60万人で行ったロシア遠征。だが、これはナポレオンにとって大きな誤算であった。ロシアのクトゥーズフ将軍は、撤退を重ねる巧みな退却戦術を用い、これによってロシアの奥へ奥へと侵入したナポレオンは首都モスクワに入城を果たす。ロシア皇帝もモスクワから撤退したが、厳しい冬の到来と、クトゥーズフ将軍の戦略によって補給路をたたれたことで飢えと寒さで消耗。占領したモスクワも2ヶ月で撤退を余儀なくされ、40万人の兵がロシアに置き去りとなり、そのうち10万人が捕虜となったという。ロシアはこの勝利を記念してカザン大聖堂を建立。戦争の翌年に亡くなったクトゥーズフの銅像が大聖堂前に立っている。

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アウステルリッツの戦い

ナポレオン率いるフランス軍と、ロシアとオーストリアの連合軍による1805年の一大決戦。フランスの皇帝ナポレオンとロシア皇帝アレクサンドル1世、オーストリア皇帝フランツ2世が戦ったことから三帝会戦ともよばれる。数の上では劣勢のフランス軍であったが、ナポレオンは自陣に弱点を作り、敵をそこに引きつけると、撤退と見せかけて敵陣の手薄になっていた中央を突破。芸術的ともいわれる見事な戦術で完勝し、ナポレオンはこの勝利を後世に伝えるため、凱旋門を建設させた。

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ケ号作戦

1942年6月、太平洋戦争においてアリューシャン列島のキスカ島とアッツ島をほぼ無抵抗で占領した日本軍であったが、43年アメリカ軍の攻撃によって、アッツ島が全滅。次はキスカ島も同じ運命になる前にと出されたのがこのケ号作戦。その内容は、アメリカ軍に気づかれないように全員を撤退させるというものであった。海も空もアメリカ軍に制圧されてしまったその段階において、輸送手段は水中のみ。第1期は潜水艦13隻で順次撤収を行ったが、アメリカ軍の駆逐艦が登場したことにより、2期は霧に乗じて水上艦艇で一気に撤収。約1時間で5200名ほどを収容し、1943年7月、撤退作戦は成功した。アメリカ軍は、日本軍が撤退したことに気づかず、その後日本軍陣地を猛攻撃し、同士討ちによる死傷者を出した。この戦いは「太平洋奇跡の作戦 キスカ」として映画にもなっている。1943年2月、ガダルカナルからの撤退の際にもこのケ号作戦によって1万人以上の日本兵が救出された。

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ベトナム戦争

→2002年9月号参照

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ベトナム化

1969年のベトナム戦争時にニクソン大統領が発表した、アメリカ撤退の政策。南ベトナムからアメリカ軍が自軍を撤退し、南ベトナム自身で自国を守っていくという案であるが、自国を守る能力がないということがアメリカ介入の理由であったため、この政策は撤退のこじつけといえる。そしてアメリカは自身が要請したにもかかわらず、この戦争に参加したオーストラリアやニュージーランドよりも先に撤退を開始した。他国との関係よりも、反戦運動が高まり、インフレが広がりつつある自国を治めるほうが切羽詰った重要事項であった。

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アメリカの良心/ウォルター・クロンカイト

1962〜81年までCBSの看板番組「CBSイブニングニュース」のアンカーマンを務めたアメリカでもっとも有名なジャーナリスト。冷静な判断力と的確な報道から「Old Iron Pants」のニックネームを持つ。ベトナム戦争や湾岸戦争の際も戦地に自ら出向いて報道した。個人的な見解は述べないという公正な報道姿勢を貫いた人物であったが、その例外となったのが、1968年の「私はベトナム戦争に反対である。アメリカ軍に名誉ある撤退を求める」という発言。ジョンソン大統領はこの発言を受けて「クロンカイトを失ったということはアメリカの主流を失ったも同然だ」と言ったほど彼の発言の影響力は大きく「アメリカの良心」といわれた。

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リンケージ

1974年版本誌掲載。以下、

最近アメリカで外交政策の論議に際して、しばしば用いられる言葉。意味は必ずしも明確ではないが、W・サファイアの『政治の新語』によれば、「一つの問題についての進展が、他の問題についての進展のために必要(あるいは役立つ)、とするグローバルな交渉戦略」とされている。具体的には外交交渉に際して、双方の譲歩を巧みに結び付けて交渉を成立させることを指す。冷たい打算と商量を特色とするニクソン=キャッシンジャ−外交の体質を示す言葉でもある。

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ベトナム駐留軍撤退

ポル・ポト軍によるカンボジア支配と戦うため、ベトナム戦争終結から3年半後の1978年12月、ベトナム軍12万人がカンボジアに侵攻した。虐殺政治を行ったポル・ポト政権打倒のため侵攻したベトナム軍を、農作物によって飢えをしのげたこととベトナム国旗の徽章から「緑の大地と金の星」といって、当初カンボジアの人々に歓迎された。しかしこの戦争では、ベトナムが、ベトナム戦争時のアメリカとまったく似た立場となってゲリラ戦に悩まされ、国内の経済を圧迫され、カンボジアで戦い続けるうち、カンボジアの人々の反ベトナム感情も芽生えてきた。カンボジア侵攻から11年後の89年、国内の政治問題解決を促進するため「ぎりぎりの名誉ある撤退」として、当初の目的を達成できないままカンボジアから完全撤退した。しかしポル・ポト派は結局国民の支持を失い、97年ポル・ポトの死去にともない消滅した。

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カンボジア和平

1991年本誌掲載。以下、

1970年代末から続いてきたカンボジアの紛争は、これを取り巻く国際環境が根本的に変化する兆しにある。その第一はカンボジア国政府(プノンペン政府・旧人民共和国)を軍事的に支援してきた駐留ベトナム軍が最終的に撤退したこと(1989年9月)、第二には国民政府(シアヌーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派の三派からなる旧民主連合政府)の国際的指示に変動が生じたこと。90年7月、アメリカが国連代表権問題で国民政府を指示しないと明言し、事実上の政策変更を行ったこと。ソ連・東欧の民主化を契機に国際的な冷戦体制が崩壊し、自国民大量虐殺を行ったポル・ポト派を含む実質的には亡命政府である国民政府に国連代表権を与えておくという虚構を維持する必要がなくなったためである。これにあわせて、これまでポル・ポト派の絶対的後ろ眉になってきた中国が、その姿勢を変化させたこと。天安門事件を契機にした自国の国際的孤立の回避策とされるが、それは安保理常任理事国決議への同調にしめされる。こうして、和平への道は、カンボジア問題国際会議を通じる国際間協議、ジャカルタ会議を通じた当事者間協議、というこれまでの努力が、90年9月に最高国民評議会設置合意に致達した。これは国連代表権主体の変更の国際社会による強制を意味する。しかしなお当事者間の合意形成に至っていない。これはそれぞれの国益の思惑から虚構をカンボジア国民に押しつけた関係国の責任でもある。

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イスラエル軍撤退協定

1985年版本誌掲載。以下、

レバノンに侵攻したイスラエル軍を撤去させる協定で、アメリカの調停によって1983年5月17日、レバノン、イスラエル両政府軍で調印された。内容は、両国間の戦争状態の終結、レバノン南部に安全保障地帯を設置、両国兵士による監視委員会の設置などである。外交関係樹立については明記していないが、レバノンによるイスラエルへの事実上の国家承認であり、対エジプト平和条約(79年)に次ぐ重要性を期待した。だが、レバノンに部隊を駐留させるシリアとPLOは、この協定がイスラエルに一方的に有利であるとの理由で反発したため、協定実施期間(調印後8〜12週間)中にイスラエル軍の撤退は実施しなかった。むしろレバノン国内の混乱を誘発し、結局、レバノン政府はシリアの意向を入れた形で、84年3月5日、同協定を破棄した。レーガン米政権は中東外交の大きな失態とされる。

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レバノン駐留国際監視軍

1985年版本誌掲載。以下、

レバノン内戦にさいして、1983年にベイルート地区に派遣されたアメリカ、フランス、イタリア、イギリスの軍隊。正式な名称は多国籍軍(MNF)である。わが国では、「国際監視軍」と訳されるため国連の平和維持軍と混同されやすいが、国連決議にもとづくものではなく、国連とは無関係である。多国籍軍は2次にわたって派遣された。第1次はイスラエル軍に包囲されたPLOのベイルートからの撤収を監視するため83年の8月から9月初めまで、アメリカ、フランス、イタリアの3国の軍隊2000名がベイルート地区に駐留した。第2次はその後の情勢の悪化にともない、上記3国とイギリスの軍隊5700名が新たに駐留した。第2次多国籍軍の任務は平和維持活動と称されたが、その実は、レバノン内戦に対して政府軍からテコ入れするねらいがあったから、反政府軍側から敵対視されて、攻撃の対象となった。アメリカ・フランス軍に多くの犠牲者が出ると、両国は報復のため反政府軍に砲爆撃を加えるなど「平和維持活動」との基本的な性格の相違を露呈した。第2次多国籍軍は84年3月にベイルートからの撤去を完了した。

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レバノン侵攻

1982年6月、PLO(パレスチナ解放機構)が本部を置くレバノンにイスラエルが侵攻した。アメリカは平和維持軍として、イスラエルを後押しする形でレバノンに海兵隊を派遣したが、内戦やテロ攻撃で大量の犠牲者を出し、戦争は泥沼化の様相を呈していた。アメリカ大統領選挙迫る1983年、再選をめざすレーガンは、このレバノン侵攻が「ベトナム戦争の二の舞である」と国内の批判が集中するのを避けるためにも名誉ある撤退が必要であり、海兵隊兵舎が自爆テロ攻撃を受けて241人の死者を出した3カ月後に撤退を決めた。レーガンは84年の大統領選で圧勝した。

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湾岸危機・湾岸戦争  Gulf crisis / Gulf war

1992年版本誌掲載。以下、

1990年8月2日、イラク軍がクウェートを侵攻・制圧し、8日に国家統合を宣言、28日にクウェートをイラクの19番目の州とした。イラクは歴史的正当化につとめたがペルシャ湾への出口を求めるとともに、石油価格を引き上げ、クウェートの富を自国やアラブ世界の再建強化資金にする計算もあったようだ。これに対してアメリカを中心に西側各国はイラク軍のクウェートからの撤収とクウェートの原状回復を要求、ペルシャ湾方面に派兵して圧力をかけた。大きな背景として、中東石油利権の確保をねらう欧米、さらには欧米キリスト教勢力と中東イスラム教勢力の歴史的確執も指摘される。

91年1月1七日、欧米軍を主力とする多国籍軍はイラクに対して開戦、イラク軍をクウェートから撤収させただけでなく、イラクの軍事・産業施設を広範に破壊した後、2月28日停戦に至った。中東諸国のうち、湾岸の王制産油国とシリア、エジプト、モロッコ、トルコなどが欧米軍に協力、イランはほぼ中立を守った。ヨルダン、イエメン、パレスチナ解放機構(PLO)は明確にイラクを支持した。イラクはイスラエルに直接ミサイル攻撃を加え、イラク包囲網の分断を図ったが、アメリカはイスラエルの反撃を懸命に抑え、ミサイル迎撃ミサイル「パトリオット」を急ぎイスラエルなどに配備した。アメリカは湾岸戦争を契機に、中東の新秩序や新世界秩序の構築をスローガンにかかげたものの、91年11月現在、その展望はほとんど開けず、中東世界には破壊と混乱だけが残ったかたちである。

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リンケージ論  linkage theory

1992年版本誌掲載。以下、

フセイン・イラク大統領は1990年8月12日、クウェート危機とパレスチナ問題を関連させる解決を提案した。アラブ領土からのイスラエル撤退に応じて、クウェートからイラクが撤退するというもので、ソ連、フランスは理解を示したが、イスラエルは拒否、アメリカはそれに従った。

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サッチャー/鉄の女

1975年保守党初の女性党首となり、79年にイギリス史上初の女性首相に就任し、90年までの11年間、20の世紀イギリスでもっとも長く首相を務めたマーガレット・サッチャー。「小さな政府」を掲げ、サッチャリズムとよばれる国内大改革を推し進め、フォークランド紛争で勝利を収めるなど国際舞台においても強硬な姿勢をアピールし、鉄の女とよばれた。しかし、改革により経済は成長したものの失業率は上昇。90年には人頭税の導入に対する激しい反対運動が起こり、支持率が低下した。保守党の結束を強め、保守党政権を維持するためにも名誉ある撤退を、と辞任を決意し、ジョン・メージャーに党首、首相を交代。メージャー保守党内閣が成立した。一時失業率が上昇し非難を浴びたが、サッチャー政権後期からメージャー政権にかけては、イギリスでの貧困層の割合は低下したという事実もある。

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小さな政府

1983年版本誌掲載。以下、

政府の規模を縮小して、政府の仕事を減らし減税を行い民間の活力を高めようとする政策を指す。19世紀のアメリカでは、少なくとも連邦政府に関しては、自由放任主義と安上がりの政府とが当然のこととされていた。しかし、今世紀に入るとともに、民間の自主的な努力では解決できない問題が多くなり、その結果、政府の役割は著しく大きくなった。ニューディールは、小さな政府から大きな政府への転換点であった。今日の政府はあまりに巨大になりすぎてしまったため、「小さな政府」に戻そうとする努力には理解できる面も少なくない。しかし、政府が仕事を単に民間に戻すだけで解決になるか否かは疑問が残る。特に、最近の政府規模の増大は福祉行政の充実による部分が少なくない。小さな政府は福祉へのしわ寄せを伴う

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スロボダン・ミロシェビッチ/小レーニン

元・ユーゴスラビア連邦大統領。1941年、セルビア中部ポジャレバツ生まれ。ベオグラード大法学部卒。子どものころ共産主義科目の優等生だったので「小レーニン」とよばれたという。87年セルビア共和国幹部会議長、90年同大統領、97年7月(新ユーゴ)連邦大統領。コソボ、ボイボジナの自治権を取り上げ、クロアチア、ボスニア、コソボの内戦に介入した。99年3月にハーグの国際刑事裁判所によって戦争犯罪人として告発されたが、出頭を拒否した。2000年7月憲法を改正、連邦大統領を直接選挙で選ぶ方式を導入して政権にとどまろうとしたが、第1回投票でそれまで無名の対立候補コシュトニツァに敗れた。なおも第2回投票に持ち込もうとしたが、世論に圧され退陣することに。

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ユーゴスラビア継承戦争  Wars of the Yugoslav Succession

2002年版本誌掲載。以下、

旧ユーゴスラビア連邦の継承をめぐって起こった戦争。第1段階はスロベニアの独立にともなう混乱。連邦政府軍はスロベニアを爆撃したが、1991年7月に停戦合意した(ブリオニ合意)。第2段階はクロアチアの内乱。人口の約13%を占めるセルビア系住民がセルビアからの分離に激しく抵抗して領土のほぼ3分の1を占領、ようやく92年春に停戦が成立した。セルビア人が占領したのは西のクライナ地方(「セルビア・クライナ共和国」を宣言、人口約60万人)と東のスラヴォニア地方。ちょうどこのころ、ボスニア・ヘルツェゴビナのボスニャク人(ムスリム人=イスラム教徒)指導者がクロアチア人の支持を得て独立を宣言。ここでもセルビア系住民がセルビアからの分離に反対して蜂起し、第3段階(ボスニアの内乱)に至った。戦闘はしばらくセルビア人の圧倒的優勢のうちに展開された。93年8月以降、セルビア人が領土の7割(「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国」を宣言、人口約136万)、ボスニャク人が1割、クロアチア人が2割(「ヘルツェグ・ボスナ共和国」を宣言)をそれぞれ実効支配した。クロアチア人は初めボスニャク人に味方したが、93年6月ごろからセルビア人と連携、さらに94年2月ごろから再びボスニャク人に接近した。95年夏に突然クロアチア政府が軍事行動を起こし、クライナと西スラヴォニアのセルビア人勢力を追放した。またこのころからボスニャク人の攻勢も激しくなり、セルビア人の占領地域を全体の約5割に縮小させた。継承戦争は95年11月のデイトン協定でいちおうの終結をみた。東スラヴォニア地方も97年7月にクロアチアに返還された。コソボ紛争(99年3〜6月)が第4段階、マケドニアの内乱(2001年4〜8月)が第5段階をなす。継承戦争はこれまでに死者二十数万、難民210万人を出した。

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民族浄化(エスニック・クレンジング)  ethnic cleansing / ethnic purification

1993年版本誌掲載。以下、

旧ユーゴスラビア、とくにボスニア・ヘルツェゴビナを舞台に繰り広げられている内戦は、文字どおり「血で血を洗う」感じの凄惨きわまりない死闘の様相を日増しに濃くしつつある。もともとボスニアには、セルビア人、クロアチア人、イスラム教徒の大別して3種類のエスニック(民族)グループが住んでいたが、チトー大統領が六つの共和国と一つの自治州(コソボ)をユーゴスラビアという旗の下に連邦国家としてまとめていたころは、みんな仲よく融和して暮らしていた。ところが、1980年の5月にチトー大統領が死去したころからまたもや歴史的な民族間の対立が顕在化しはじめ、80年代の末期から90年代の初頭にかけてのとうとうたる社会主義国自由化の波の中で、「バルト三国に続け!」とばかり各共和国で分離・独立の動きが激しくなってきた。そして、91年6月にスロベニアとクロアチアが遂に独立を宣言、「そうはさせじ」と焦るセルビアが軍隊を送り込んでこれを鎮圧しようとしたため“内戦”に発展した。クロアチアとセルビアの中間にあたかも緩衝地帯のようにして横たわっているのがサラエボを首都とするボスニア・ヘルツェゴビナであるが、やがて戦いの主舞台はそちらのほうに移り、最近ではセルビアばかりではなくクロアチアまでが、この地に対して領土的野心を抱くに至った。こうなると、セルビア人とクロアチア人はキリスト教系であるが、ボスニアの住民の大半はイスラム教徒であるため、どうしても“民族”としての“純血”を求める戦いの様相を深めてくる。セルビア人の父とイスラム教徒の母との間に生まれた混血の小学生が、「私の体からイスラムの血を抜き取ってほしい!」と泣き叫んだ…などという話が日常茶飯の如くに伝えられる昨今、ボスニアでは“エスニック・クレンザー”などと呼ばれる純血主義者たちが残酷きわまりない異民族狩りを繰り返し、本来的にはあり得ようはずもない“エスニック・ピューリティ”(民族的純粋さ)を求めて、ナチスも真っ青の「民族浄化」テロを敢行しているのだ。

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フジモリ政権の崩壊(ペルー)

2002年版本誌掲載。以下、

2000年7月、3期目を強引に発足させたフジモリ政権は、腹心の腐敗スキャンダルで、発足4カ月でもろくも崩壊した。強引に決選投票を行い、内外の批判を強めたことが原因。6月末、米州機構は選挙制度改革、司法の独立など29項目の民主改革案を了承させ、履行のための監視体制を整えた。7月28日の就任演説で大統領は民主主義強化を約束したが、選挙で敗れたトレド候補の指導する野党側は、再選挙を求め、全国から支持者を動員して大抗議行動を行うなど(6人が死亡)対立は深刻化。特にアメリカ政府は民主化においてモンテシノス国家情報局顧問の解任を求めた。そうしたなか、3期目発足にあたっての議会多数派工作において、顧問が野党議員を買収する場面を映すビデオが公表されたことで危機は深まり、9月16日テレビ演説で大統領は総選挙の早期実施と、その選挙に出馬しない方針を明らかにした。1990年の政権発足以来、政治基盤を欠く日系人大統領を、諜報機関や軍の支配を通じ、影で支えてきたのが顧問で、政権がテロ・麻薬対策や日本大使公邸占拠での救出に奏効したのは顧問の成果だが、3選過程を通じて政権の警察国家的性格を強めることになった。顧問と一心同体で歩いてきた大統領は、批判を鎮めるため自らの退陣をも決意した。任期を1年に短縮することで危機を収拾し、再民主化を果たした大統領として名誉ある撤退を模索したが、顧問の不正蓄財容疑解明を軸とする体制崩壊の動きは急で、11月議会で与野党の勢力が逆転。それを受けて、ブルネイでのAPEC総会の帰路立ち寄った日本で、フジモリは辞任を発表したが、辞表を送りつけられたことに反発した議会は「永続的なモラルの能力欠如」を理由に大統領を罷免するに至った。暫定大統領には、野党の支持で就任したばかりのパニアグア国会議長が就任、腐敗の追及とともに2001年の総選挙の実施と7月のトレド新政権発足までの再民主化過程を担った。

[編集部註]フジモリ元大統領は日本に亡命後。トレド新政権から、ゲリラ虐殺や公金横領などの罪で国際手配されたが、これらはペルー政府が無理矢理立件したものであるとしてペルー最高裁判所は棄却した。06年のペルー大統領選挙の再選を目指したが、ぺルーの選挙管理委員会によって出馬を認められなかった。現在はチリで勾留中である。

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香港返還

1998年版本誌掲載。以下、

1997年7月1日、香港が中国に返還された。6月30日の夜に返還式典が行われ、イギリスからはチャールズ皇太子、ブレア首相、サッチャー元首相らが、中国からは江沢民国家主席、李鵬国務院総理らが出席し、チャールズ皇太子と江沢民国家主席が演説した。各国の外相も出席した。しかし引き続き行われた香港特別行政区政府宣誓式典には、96年12月に中国側が選出した臨時立法議会に反対を表明するためイギリス代表のクック外相とアメリカのオルブライト国務長官が欠席した。宣誓式典では中国側の「推薦委員会」が96年12月に選出した董建華香港特別行政区長官や臨時立法会議員が宣誓し、李鵬国務院総理が宣誓をうけた。このあと臨時立法会は直ちに第1回会議に移り、集会、デモ行進、政治結社を規制する公安条例や社団条例を成立させた。董建華長官は、97年6月のデンバーでの主要国首脳会議が共同宣言で返還後の香港における立法議会の民主的選挙を求めたことを踏まえ、98年5月には立法会の選挙を行うことを声明している。

一方、一国両制に基づく香港の返還は、中国には台湾統一への試金石である。返還式典には台湾の海峡交流基金会の辜振甫会長が招待され、台湾側も出席を承認した。しかし台湾の李登輝総統は香港返還直後に一国両制による統一は台湾に適用できないと声明、植民地であった香港と台湾の歴史的背景の違いを強調した。また中南米諸国との外交関係を強化し、中華民国(台湾)の国家主権を各国に確認させた。さらに憲法を改正し総統の政治権力を強化した。

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一国二制度  one country, two systems

2001年版本誌掲載。以下、

一つの国家のなかに社会主義と資本主義の二つの制度が共存することを容認する国家統合モデルのこと。1980年代前半、台湾平和統一も意識してうちだされた政策で、現実には返還後の香港とマカオに適用されている。香港とマカオの資本主義体制を維持し、社会主義体制の大陸と共存するために、外交と国防を除く高度自治権、言論・出版・結社の自由などが認められた。しかし実際には経済システムに限って二つの制度が共存しているにすぎず、香港側の自粛傾向も含めて政治システムについては一元的に統合される傾向にあると考えたほうがよい。現在も中国は台湾との統一方式として一国二制度を提唱しているが、台湾側はこれを拒否している。

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パッテン  Christopher Patten

2002年版本誌掲載。以下、

欧州委員会委員、対外関係担当。1944年5月12日生まれ。ロンドン出身。74年、歴代最年少で英国保守党研究局の局長となる。92年から97年、最後の香港総督。95年中国政府の意に反して立法評議会の直接選挙を拡大化するなど民主化路線を進めた。97年7月の香港返還の際「名誉ある撤退」として中国側に謝罪せず、逆に返還によって香港の民主化が損なわれる危険性を警告、中国側に遺恨を残した。99年9月プロディ欧州委員会委員長就任の際、中国側はEU側にパッテンを通商・対外政策担当から外すように圧力をかけたという。

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