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“アメリカはたまに戦争に失敗する”の用語集
 

ベトナム戦争の用語

ベトナム近現代史

1000年を超える中国支配を経験した後、1884年フランス領インドシナ連邦に編入。1940年日本軍が進駐。

45年日本の敗戦を機にベトナム独立同盟(ベトミン)が決起し8月革命に成功、9月ベトナム民主共和国を樹立。10月フランス軍が南部に再上陸、46年第1次インドシナ戦争に。54年フランス軍が敗退し、ジュネーブ協定によりベトナムは南北に分断。

北緯17度線で南北に分断された後、中ソが支持するベトナム民主共和国(北ベトナム)とアメリカの支援を受けるベトナム共和国(南ベトナム)とが対立。60年南ベトナムに反米の南ベトナム解放民族戦線誕生、アメリカが介入。65年には北爆を開始、75年南ベトナムのサイゴンが陥落し、ベトナム戦争は共産側の勝利で終結。

76年初の南北統一選挙。国名をベトナム社会主義共和国に改称。ベトナムが統一されると、ベトナム政府は南部の華僑を追放、中国は対ベトナム援助を停止し関係悪化(78年)。ベトナムは経済相互援助会議(COMECON。91年に解散)に加盟、ソ連寄りに。78年ベトナム軍はカンボジアに侵攻、79年中国との間で中越戦争。89年にカンボジアから完全撤兵。

86年社会主義型市場経済を目指す「ドイモイ(刷新)」政策を採択、改革・開放路線に転換。91年のカンボジア和平協定調印を機に全方位外交へ。同年、中国と国交正常化。92年韓国と国交樹立、95年にはアメリカとも国交正常化。

97年から長期にわたり北部タイビン省で地方公務員の汚職に抗議する農民デモが続発、党が収拾に。

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ベトナム戦争(Viet‐Nam‐war)

一般には、1950年代末に始まり、75年4月30日、ベトナム解放勢力が南部の親米政権を打倒し、国家と民族の統一への道を開いた約15年余の戦争をいう。第2次世界大戦後の世界政治・経済、ことにアメリカの世界戦略に大きな変化を与えるものであった。根源はフランス植民地からの独立を求めるベトナムの民族独立運動を、その世界戦略からアメリカが介入(54年ジュネーブ協定以後)、南部に親米政権(ゴ・ディン・ジェム政権)を樹立したことにある。ベトナム南部でアメリカとゴ政権に対する武装闘争がはじめられたのは59年から。60年12月20日、ベトナム南部解放民族戦線結成、61年2月14日、解放民族戦線人民武装勢力(解放軍)設立。解放闘争の組織化、発展に対抗したアメリカは、61年7月、特殊戦争(「18ヵ月間で南ベトナムを平定する」ステーレー・テーラー作戦)を開始、サイゴンに軍事援助司令部を設置(62年2月)した。61年に特殊戦争を開始したころの米国軍は2万人程度であったが、63年11月1日にジェム政権が崩壊し、米国はいよいよ正面にでて戦わざるを得なくなり、65年に特殊戦争から局地戦争に移ったころには、米国軍は20万人に達していた。

そして64年8月、「トンキン湾事件」をデッチあげ、65年2月には本格的に北ベトナム爆撃(北爆)開始、それ以後、戦争は急速にエスカレート(拡大)して、69年6月の段階では、米国軍54万人、これに衛星国の軍隊約7万人、南ベトナム政府軍60万人をあわせて合計約120万人の兵力が戦闘に従事した。

米国は、解放区の拡大に対抗して、戦略村、平定計画をすすめたが、ベトナム戦争全体の中での転換点は、68年1月、解放民族戦線のテト(旧正月)攻勢であった。

テト攻勢後、ドル危機、黒人解放闘争の昂揚のなかで、68年3月31日ジョンソン大統領は、ベトナム和平を提案した。以後、戦場とは別にパリを舞台とした外交交渉が続けられ、73年1月、ベトナム和平協定が成立、アメリカの地上戦闘部隊の撤兵が開始された。75年4月、ホー・チ・ミン作戦で南部から完全解放され、独立と南北統一が実現した。しかし、その後もベトナム・カンボジア戦争、中国・ベトナム戦争のため、その戦後復興、社会主義建設は多くの困難に直面した。

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ベトナム参戦国

1968年版本誌収録。以下、

ベトナム戦争に参加している国は、米国のほかにオーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピン、韓国で、米国の衛星国といわれる国々である。このうち韓国からの派兵が最も多く、当初の2万8000人から4万5000人へ向けて増強中であり、その他に役務要員5万人を送る計画ともいわれる。オーストラリアは2個大隊3000人、ニュージーランドは戦車部隊、医師など200人、タイ、フィリピンは2000人、そのほか米国防省では、国府〈台湾〉(=心理戦争、農業部門など)、日本(医療関係そのほか)などの協力も、あげている。

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トンキン湾事件

1968年版本誌収録。以下、

1964年8月2日、米国の第7艦隊駆逐艦マドックス号が、北ベトナム魚雷艇の攻撃を受けたとしてトンキン湾(バク・ボ湾)を砲撃、つづいて同4日、米国は再び魚雷攻撃を受けたとして重ねてトンキン湾を砲撃、5日には米国の54機が5時間にわたって、ホンゲイなど北ベトナム要地を爆撃した。北ベトナム側はこれをでっち上げとして非難した。これが事実上、米国の北爆の最初となった。トンキン湾事件の発生にともない、米国議会は同8月7日“米軍総司令官である大統領が侵略阻止に必要なあらゆる措置をとることを認める”旨のトンキン湾決議を可決した。ベトナム戦争批判では、大統領がこのトンキン湾決議で認められた権限を不当に、また拙劣に行使してはいないかと、しばしば問題にされる。

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ベトコン(越共 VietCong)

1968年版本誌収録。以下、

本来はベトナム共産主義者の意味で、1954年のジュネーブ会議後、予定された56年の統一選挙を米国およびゴ・ディン・ジェム政権が意識的に拒否したことに対し、ジュネーブ協定の完全実施を要求した愛国・民主・平和の活動家たちに、ジェム政府がはりつけたレッテルである。その後、南ベトナム解放民族戦線と、その武装部隊(解放軍)が結成され、ゲリラ闘争ならびに局地戦が激化するにつれ、この解放民族戦線に属する人たちをさして、ベトコンとよぶようになった。

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北爆

1968年版本誌収録。以下、

ベトナム戦争における米国の北ベトナム爆撃。はじめ米国は北ベトナムから南ベトナムへ援助物資が送り込まれる「ホーチミン」ルート爆撃を行ったが、のちには「北から南への浸透」を粉砕するため、北ベトナムの軍事施設爆撃に乗り出した。本格的な北爆は、1965年2月7日からで、「鉄とコンクリート」だけでなく、学校、病院、寺院などへの爆撃に続いて、ハノイ、ハイフォンなどの人口密集地域への無差別爆撃が問題となっている。一方、北ベトナム側の反撃も激烈で、67年6月5日、北爆における米機撃墜は2000機に達したと発表した。南ベトナムを平定するためには、北ベトナムからの浸透と戦わねばならず、さらにそれには北ベトナムへの中国からの浸透をたたく必要がある、という見地から米国のタカ派には北ベトナムへの陸海からの進撃、そして中国との対決を強調する北進論者がいる。

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エスカレーション/デスカレーション(escalation / de-escalation)

1968年版本誌〈ベトナム問題〉収録。以下、

米国のベトナム戦争における段階的拡大と、同じく段階的縮小をさすことば。ベトナム人民、特にベトコンの激しい反撃にあって、米国は戦力を急速に増強せざるをえない立場におかれたが、食糧、武器弾薬その他補給の必要上、一挙に拡大することができず、補給や輸送の確保に応じて「段階的に拡大」するほかなかった。これがエスカレーションの軍事的意義である。同様に、このようなエスカレーションによっては、ベトナム問題の解決はありえず、「段階的に縮小」することによって和平交渉への道をひらくべきである、というのがデスカレーションである。

1969年版本誌〈軍事用語〉収録。以下、

1957年ごろから限定核戦略の可否が欧米で論争された。そのとき戦術核兵器を使用すれば、限定戦略も全面核戦争にエスカレート(拡大)するという批判からこの用語が広まった。その後小さな戦争や、ゲリラ戦などでも、早期に解決しないで長引けば、次第に激化して戦争の規模とか参戦国が、増加することをマスコミではエスカレーションというようになった。その逆の場合を米紙などでデスカレーション(de-escalation)と書いているが、この方はあまり使われていない。

戦略理論ではたとえばハーマン・カーンのように、44の「階段」と6つの「敷居」を想定して、階段を慎重に上がり、「敷居」--たとえば在来戦から核の限定使用への転換--はさらに慎重に行い、できれば「敷居」をまたがぬようにする理論が、エスカレーション論である。自動的戦争拡大とは本質的に違うが、誤解されることが多い。

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CBU(Cluster Bomb Unit ボール爆弾)

1969年版本誌収録。以下、

爆弾の中に小爆弾の多数が入っていて、爆発とともにそれが飛び出すもの。散弾爆弾も同じもの。ボール爆弾は地面に衝撃すると、中に装備した約600の小爆弾が八方に飛び、その小ボール爆弾にさらに小鉄片の多数が仕掛けてあって人員動物の体内を貫き殺傷する。パイナップル爆弾は、落下に方向性をもたせるために羽根をつけ、パイナップルに似ているのでこの俗称がある。CBUの一種。

以下、1968年版より

〜これは軍事施設の破壊よりは、もっぱら市民殺傷のためのもので、多数の児童がその犠牲になっている。その形がベトナムの「オイ」という果物に似ているところから、この爆弾のことを「クワ・オイ」とよんでいる。最も非人道的な兵器である。

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ナパーム弾(napalm)

1969年版本誌収録。以下、

100〜115ガロン入りの強力な油脂焼夷弾で、ナフサネート、亜鉛、鉛、パーム油、ガソリンなどをゼリー状油脂にしたものである。投下すれば、発火・爆発を起こし、2000〜2500平方メートルが800℃以上の火の海と化し、高熱と激しい燃焼による酸素欠乏で、まわり一帯を焼き尽くし、人員を窒息させてしまう。朝鮮やインドシナ戦争で、山中とかジャングルに隠れた敵の攻撃にたびたび使用された。

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殺傷率(kill ratio)

1972年版本誌収録。以下、

ベトナム戦争遂行にあたって、アメリカのマクナマラ前国防長官が提唱したことばで、アメリカ軍の戦死者1にたいして解放戦線兵士11ないし12人殺すことによって勝算がえられる、というもの。

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戦略村

米国は、1962年3月以来、南ベトナムで、対ゲリラ戦略として、高い竹垣、有刺鉄線のバリケード、深い堀、地雷網で囲まれた一種の強制収容所をつくって、農民をここに押し込めた。これが戦略村である。62年中に1万6322の戦略村設立を予定していたが、その半ば以上ができあがったとき、63年11月にゴ・ディン・ジェム政権が打倒され、悪名高き戦略村の大部分が破壊された。ベトコンはこれを破壊するだけでなく、その戦闘施設を活用して戦闘村と称えた。その後、ベトコンの解放区に対抗するために、農民を南ベトナム政府側に引きつけておく必要から、米国は66年以来、大がかりな平定計画をたてて事実上、戦略村構想を再現しようとしたが、68年1月のテト攻勢で完全に瓦解した。

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ソンミ事件(SonMy Massacre)

1972年版本誌収録。以下、

1968年3月16日、南ベトナムのクアンガイ省ソンミ村ミライ部落で、アメリカ軍がベトナムの老人、婦人、子どもなど、非戦闘員500名を虐殺した事件。当時、ベトナム側ではこの事実を発表していたが、アメリカでは約1年8カ月後の1969年11月に当時の目撃者によって初めて事実が暴露され、マスコミが大きく取り上げてからアメリカの良心の問題、軍の秩序と命令の問題として注目されるにいたった。

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カリー裁判(the trial of army Lieut. W.L. Calley)

1972年版本誌収録。以下、

ソンミ虐殺事件のカリー中尉に対して、フォートベニングの軍事法廷は、1971年3月31日、終身重労働、兵籍剥奪、給与手当の停止、裁判費用の負担という判決を申し渡した。この裁判そのものが戦争裁判に通ずるものか、どうか。あるいは量刑が重いか、軽いかなどについても、アメリカ国内の世論は分裂し、ウエストモーランド陸軍参謀総長は「私と第二次大戦戦犯として死刑になった山下大将の役割を比較することはできない」と弁明した。このようにカリー裁判が論議をよんでいるとき、4月1日ニクソン大統領はフォートベニングの軍刑務所からカリー中尉を釈放し、基地内の独身寮に移すとともに、カリー中尉の取扱については上訴審後に大統領みずから最終的に処置を決めることを明らかにし、内外に新しい大きな波紋をよんだ。この最終決定までには数年かかるといわれている。

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レッド・キャップ(赤い帽子)計画(red cap plan)

1973年版本誌収録。以下、

アメリカはインドシナ戦線で、人間や動物・植物を殺傷枯死させるため、ガス弾を投下しているが、これは致死性のVX神経ガスの効果をテストするための実験で、1968年アメリカ空軍は、カンボジア領内の北ベトナム軍装備修理基地に毒ガス弾2個を投下した。これを行ったことがその後のアメリカの生態学研究専門誌で報告された。

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ベトナム化(Vietnamization)

1971年版本誌収録。以下、

米国大統領が、ベトナム戦争遂行途上にうちだした政策で、ベトナム戦争の非アメリカ化(de-Americanization)と表裏をなす。ニクソンは1969年5月14日「合意が達成され次第、すべての《非南ベトナム軍隊》はその大部分の撤退を開始する」以下8項目の政策を提案した。一つには膨大な軍事費の節約、一つには国内のベトナム反戦の世論におされて「ベトナム人をしてベトナム人とたたかわせる」路線に切り換えようというのがベトナム化のねらいである。しかし、そのためには<1>南ベトナム臨時革命政府支配地域の平定あるいは縮小、<2>南ベトナム政府軍の拡充、<3>南ベトナム政情の安定が必要条件であり、アメリカ軍の部分的撤退にもかかわらず、この条件が充たされる方向に進んでいるとはいえない。北ベトナムおよび南ベトナム臨時革命政府軍側では、ベトナム化もアメリカによる政治性の合理化の戦争継続の一手段にすぎないとみている。

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ベトナム撤退

1972年版本誌収録。以下、

パリ会談とベトナム化によって、和平をめざすことを公約とする米国ニクソン大統領は、1969年6月以来、4次にわたるアメリカ軍のベトナムからの撤退を実施した。第1次は2万5000人(1969年6月8日発表)、第2次は3万5000人(1969年9月16日発表)、第3次は5万人(1969年12月15日発表)、第4次は15万人(1970年4月20日発表)。この4次にわたる撤兵で最高時54万4000人(1969年6月)に達したベトナム駐留アメリカ軍は1971年春までに28万4000人になると発表された。実際には1971年3月1日現在、ベトナム駐留アメリカ軍は32万2000人であったが、、4月7日ニクソン大統領は第5次撤退計画として、71年5月1日から12月1日までの7カ月間に10万人をベトナムから引き揚げると発表した。1カ月あたり1万4300人である。72年の大統領選にそなえて、ベトナム撤退の公約はある程度実施されねばならないが、これはインドシナ側の即時無条件全面撤退とは大きな距離があり、かつ、インドシナの軍事・政治情勢がどこまで「ベトナム化」に伴う撤退の促進を可能にするか。ニクソンの政策が問われるのは、むしろこれからである。

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全軍志願兵制

1974年版本誌収録。以下、

1973年1月27日、レアード国防長官は、これまでの陸軍の選抜徴兵制を廃止し、陸海空軍及び海兵隊の全軍を志願兵だけにすると発表した。アメリカの徴兵制は40年に施行され、47、48両年には志願兵制に復帰したが、その後ふたたび徴兵制がとられていた。ベトナム戦争の激化とともに徴兵制に対する批判も強まっていた。なお志願兵制への転換とともに、米軍兵力も68年当時の350万から220万程度に縮小される予定。

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