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袋小路派の政治経済学*第3講「格差」(前編)
執筆者 土屋 彰久

袋小路派の政治経済学*第3講「格差」(前編)

格差の「保守」

たしかに、「格差を見えにくくする」という大衆統治の技法は、戦後の日本政治を規定してきた保守政治の一つの特徴でもありました。なぜかと言うと、保守政治の根本的な動機は、現存する格差の「保守」にあるためなんです。現存する格差から利益を得ている人々は、逆に損をしている人々からの格差是正の要求に対抗しなければ、自分たちだけの豊かな生活や有利な立場を維持できません。かつては、身分制がそれを支える大きな拠り所でしたが、民主化によって一人一票の時代になってくると、さらに様々な努力が必要となってきます。格差によって損をしている人々にそのことを認識させないようにする工夫というのも、民主政治が大衆化した時代ならではのそうした努力の一環でして、日本の一般大衆がこれまで格差に対して鈍感であったのも、保守勢力のたゆまざる努力の成果と言えます。長年の貧乏暮らしと金持ちに対するヒガミから、性格が大きくねじ曲がってしまった私は、そーゆー努力を台無しにするのが大好きなので、今回は格差の問題を取り上げた次第です。

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格差

一言に「格差」と言っても、もちろん一般的な日本語としての意味合いには幅があります。ただし、社会的文脈における「格差」、すなわち、今の日本で問題となってきているような「格差」を言う場合は、経済的地位の格差が半ば固定化ないし定常化することにより、社会の階層化が進行している状況を意味しています。ちなみに、経済的地位の格差の中心となるのが所得格差ですが、その前後に入る労働条件格差と資産格差とを合わせて、基本的な経済地位の格差が算定されます。資産格差は、毎年の所得格差の積み重ねとして生じる性質のものであるだけにわかりやすいのですが、前面に出てくる所得問題に隠れて見えにくくなりがちな労働条件問題も、格差を考える上で見落としてはならないポイントです。いわゆる「3K(危険、汚い、きつい)」系の仕事は、見かけの給料はよかったりしますが、それくらい出さないと人が集まらない(=並みの給料では割が合わない)ということの表れでもあります。また、仕事の好不調や運不運などにより、所得は短期間に大きく上下することもありますが、このような形で一時的に発生する差は、このような文脈における格差には相当しません。所得格差を見る場合には、安定収入や平均収入、あるいはその職種の一般的所得水準といった、平準化された数値をベースにする必要があります。

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上方硬直性

格差には、それが「格差」であるか否かを見極める上での、もう一つの重要なポイントとして、上方硬直性があります。これは、元々の水準以下の生活スタイルには容易に移行できるが、上を目指そうとするとかなりの困難が伴うということです。これ自体は、皆さん、日々の生活の中でも、じっと手を見たりしながら実感しているでしょうから、言われるまでもないと思われるでしょう。しかし、現代のように生活スタイルが多様化してきたり、物質面での絶対的不足が解消されてくると、意外と表面上の生活スタイルに差が表れなくなり、数値の上では歴然たる格差が生じているにもかかわらず、格差が実感されにくいという現象が広がってきます。要するに、見た目は貧乏くさい生活をしているようでも、金に困っているというよりは、好きでやっているようなものもあれば、逆に、生活を犠牲にしてでも見栄を張っているようなものもあり、そこに存在する「選択の自由」が、その背後にある格差を見えにくくしているということです。しかし、その「選択の自由」は、とても絶対的なものとは言えず、実際には様々な制約があります。そして、格差はそうした制約の形をとって表面化する性質を持っているために、「制約の範囲内での自由」を謳歌している限り、格差がリアルに実感されることもないということです。

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格差の生成

格差の生成には、細かく分けていけば様々な要因が作用していますが、基本的には自然的要因と社会的要因が存在します。自然的要因というのは、生産による原始所得が発生する段階で作用する、技能や環境、運、などの不可避的な要因です。たとえば農業を例にとれば、各人の耕作技術や地味、天候などによって収穫高に差が出ることは避けられません。そして、このようにして発生した一時的な所得・資産の差を利用して、誰かが地味良好な耕作地を独占してしまえば、格差は固定化され、村落内での階層分化が進むことになります。ちなみに共同体型の農村では、このようなメカニズムによる共同体の崩壊を防ぐために、耕作地の輪番制や、共同作業制、互助制度の整備などの対策を採ってきました。もう一つの社会的要因ですが、これは原始所得を分配して個人所得として確定させる段階から作用し、さらにそうして確定した個人所得に対しても作用することによって、格差に対して±両方向の影響を及ぼします。ここでは、格差にプラスの方向に働く作用を取り上げますが、まず、原始所得に対して働く要因としては、賃料の存在があります。これは、地代など生産手段の借り賃のことで、これまた農村を例にとれば、貧乏な小作人は金持ちの地主に地代を払うことによって、両者の格差はどんどん拡大していく性質を持っています。次に、辛うじて小作人の手元に残った個人所得に対して、さらに税制、経済システムが追い討ちをかけます。行政サービスやエネルギー供給など、日常生活や経済生活に欠かせないものの供給を一部の事業者が独占し、その取引を通じて個人から所得を吸い上げるシステムは、その一例です。また、国家が介在しない市場においても、独占・寡占状態が形成されれば、その商品の取引を通じて所得移転が進みます。分業と交換の経済システムが高度化した現代社会においては、このような様々な取引関係を通じて発生する所得移転が、格差生成の主要因となっています。

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所得移転

所得移転というのは、ある人の稼ぎが他の人の稼ぎに付け替えられることを言います。なんだ、そりゃドロボーじゃないかと言われるかもしれません。もちろん、ドロボーも所得移転の一形態です。ただ、所得移転には様々ありまして、全てが悪いとは言い切れません。たとえば、現代国家は福祉国家として所得再分配の機能を果たしていますが、これは国家が介在した上層から下層への所得移転としての側面を持っています。ただ、その現代国家が、同時に行政国家として様々な行政利権を権力に近い(=上層の)人々に提供していたりもするわけで、これは逆に下層から上層への所得移転であって、実際にはこちらの割合の方が大きいために、貧富の差が開いていくということも言えます。実際のところ、労働によって原始所得を得る能力というのは、個人の間でそれほどの差はありません。しかし、実際の個人所得に100倍とか10万倍といった無茶苦茶な差が生じているのは、個人所得が発生する段階で、すでに経済システムの働きにより膨大な規模の所得移転が起こっているからなんです。だから、小泉−竹中流の「努力をした人」というのは、この経済システムをうまく利用して、他人の稼ぎを大量にちょろまかした人であるという見方も成り立ちます。そして、実は格差というのも、この所得移転の制度化の表れという側面を持っています。

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「金は寂しがりでなぁ」

「金は寂しがりでなぁ」。・・・・このあとは「仲間の多いところに集まってくるんじゃ、ヒッヒッヒ」と続きます。これは、「労働ではなく所有が利益を生む」という資本主義システムの下では、真理です。「何を言ってるんだ。労働が富を生むのは、アダム・スミス以来の常識だろ」と言われるかもしれません。いや、それでいいんです。労働は富を生み、その富から所有が利益を生む、というのが資本主義システムですから。これは、資本主義システムにおいては、私的所有権が労働よりも神聖なものとして絶対視されるため(共産主義だと逆)、資本の所有者が、金利、地代といった賃料を、それを借りた生産者が労働により生み出した富からいただくことが奨励されるためです。だから、債券や貸家など適切な形で所有していれば、資本は所有しているだけで利益を生んでくれます。もちろん、その利益の源はそれを借りている人々の労働なわけですが、サラリーマンのみなさん、あるいは商店主だって、中小企業の経営者だって同じなんですが、給料や収入が減ったからと言って、借金の金利や家賃は下がったりしませんよね。ほら、所有権の方が労働より偉いから、労働の稼ぎが赤字になろうとも、賃料は持って行かれるのが、資本主義システムの基本なんですよ。だから、巨大な資本はそれが存在するだけで、適切に管理しさえすれば、労せずして人々の労働の賜を吸い上げることができると。このようなわけで、金は金のあるところに集まってくるというわけです。

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格差の固定化

格差は、基本的には下層から上層への所得移転によって維持されます。これによって得をしている上層は、当然ながらその状態をせめて維持、あわよくば拡大しようと努力するわけで、このような努力によって格差の固定化が進みます。この種の努力は、今に始まったものではなく、昔から様々な形でなされてきました。この努力にも、長期的なもの、短期的なもの、個人的なもの、組織的なもの、様々ありますが、貧乏人がちょっとやそっと努力してもなかなか生活が上向かない、あるいは昨今のように、努力をしていても生活が苦しくなっていったりするのは、基本的には、このような格差の固定化の努力の方が上回っているためです。つまり、地道に働いて普通に努力している貧乏人が貧乏なのは、本人の努力が足りないのではなく、貧乏人をさらに貧乏にしようという金持ちの努力の方が勝っているためで、本人の責任ではないということです。

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階級の再生産

昔から社会の上層に位置する人々によって繰り返されてきた、格差の固定化の努力ですが、その王道はなんと言っても「階級の再生産」です。国家権力によって強制されていた、かつてのリアル階級社会の身分制などは、その最たるものと言えますが、身分制を否定している現代国家の政治的には平等であるはずの国民の間でも、経済的には階層分化が進んでいます。上層の人々の豊かさを支える所得移転の原資は、下層の人々の労働によって生まれる富ですから、下層の人々はそれなりの規模を保ってくれなければ困ります。そうした支配階級の本音を一言で表したのが、おなじみの徳川家康の言葉、「百姓は生かさず殺さず」ですね。つまり、年貢に文句を言うほど元気になるのは困るが、年貢が払えないほどボロボロになっても困るということで、とにかく安定して年貢を出させろということです。今の世の中、いくら貧乏を「自己責任」にしてみたところで、そこまで非人間的な扱いもできないので、就業システムを硬直的な方向に調整したり、学校教育やメディアによる宣伝などを駆使して、親と同じような生き方で満足するように子ども達を誘導するわけです。おいおい、今は親と同じ生き方すら大変だぞ、とツッコミが入るかもしれません。はい、そうです。実は今の日本は、「百姓は生かさず」をやりすぎて、既存の経済構造が不具合を起こしてしまった状態にあるのですが、そこから「百姓を殺さず」政策に転換する代わりに、「ボロ雑巾をもっと絞る」という、小泉−竹中流のスパルタ資本主義政策が採られているんです。この政策の下では、ごく一部の富裕層をもっと金持ちにするために、国民の大部分がもっと貧乏にならなければいけないので、親の生き方を引き継ぐことすら困難になっています。もちろん、私もその一人です。この過渡期を終えて日本中が大量の貧乏人であふれかえるようになったあたりで、その人達のために、再び、階級の再生産の新プログラムが発動されることでしょう。

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スパルタ資本主義

「スパルタ資本主義」という用語、「ギャンブル資本主義」の後に来るものとして、私が作りました、勝手に。これは、現在のところ、日本特有の現象ではないかと私は見ています。要は、「構造改革」のかけ声に乗せて、この国にアメリカ流のギャンブル資本主義を持ち込んではみたものの、日本人の国民性である手堅さ、慎重さ、臆病さ(などなど)が邪魔をして、目の前に「アメの当たるくじ」をぶら下げた程度では、どうも調子よく引っかかってはくれないので、今度は鞭で尻をひっぱたいてでもこき使おうという政策に切り替えたということです。労働者派遣の原則自由化など、労働者保護法制の撤廃・緩和による労働条件の大幅な悪化は、このスパルタ資本主義政策によってもたらされています。

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