月刊基礎知識
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中心と周縁、絶対と相対などなどについてあらためて考える用語集
 

都心・副都心と遷都論議

都心・副都心

本誌1966年版収録

りんごの実に核があるように、都市の核を都心と呼んでいる。都市という語が、都と市で成り立っているように、都心の本質的機能も、この統御するという意味の「みやこ性」と「市民性」の中に集約的に示される。それで都心を大別するとビジネス・センターといわれる管理都心と、サービス・センターといわれる市民のための消費都心(盛り場中心)に分けられる。前者は中枢管理機能が集まった所で行政中心と経済中心に分けられる。後者は買物中心、娯楽中心、社交中心で構成されている。数百万の巨大都市になると都心のまわりに主に消費中心として副中心街が生まれて衛星的にとりまくようになる。これを副都心といい、郊外と都心との交通が交通網の関係で中断されるような所に発達する。単数の郊外電車の場合は、ターミナル盛り場というが、これが複数になると東京の新宿、渋谷、池袋のように都心盛り場におとらぬにぎわいをみせる。これを副都心という。

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新都心と副都心  new center and subcenter

本誌1997年版収録

日本で都心・副都心のあり方がいちばん問題なのはなんといっても巨大都市・首都東京である。江戸時代の都心は城から日本橋へかけての地区にあったが、明治以後、中心商店街は銀座に、官庁街は霞が関に、オフィス街は丸の内・大手町となり、多少の地域的変動があったが、それでも大枠としては城の東側にあった。ところが、1991(平成3)年春の東京都庁新宿移転に象徴される新宿副都心の新都心への「格上げ」は、都心・副都心構造の基本的パターンをくずすことになりそうだ。臨海副都心、横浜の「みなとみらい21」、千葉の「幕張副都心」など、ウオーターフロントの興隆によって、従来からの都心は、東京圏の都心として、今後も維持されるだろうが、東京都だけで見てみると、多摩地域の興隆ともからんで、西へ重心が移動するのは、避けられないようである。

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江東副都心構想

本誌1972年版収録

東京の下町江東地域に副都心を作り、東京の東の拠点にしようとする構想。元来、この地域は公害や地盤沈下に悩まされ、東京の副都心である新宿・池袋などに比べ再開発の立遅れが目立っていた。そこで、総武線沿線の錦糸町や亀戸駅を中心に劇場、ビジネスホテル、娯楽センター、マンションなどを造成、副都心としての機能をもたせようとするもの。東京都の委託調査をした地域開発研究所の構想だが、東京都の災害対策としての防災拠点(高層建築物に囲まれた大規模な避難場所)にとどまらず、商業振興策をあわせ考えたものである。他に墨東地区市街地再開発協会による、副都心計画もある。

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臨海副都心(レインボータウン)  Rainbow Town

本誌2001年版収録

副都心という名称は、中枢業務機能が集積した地区に名づけられるはずであるが、臨海副都心は、業務よりも娯楽機能に特化した街になりつつある。大型船をイメージしたとされるデックス東京ビーチ、東京ジョイポリス、お台場海浜公園、パレットタウン内の高さ115メートルの大観覧車や、トヨタの巨大なショールーム、ワンザ有明ベイモールなど目白押しで、東京国際展示場(東京ビックサイト)すら埋没しそうな勢いである。1999(平成11)年8月には日本初テーマパーク型SCである「ヴィーナスフォート」もオープン。2000年4月には「アクアシティお台場」がオープン。最新の映像や音響技術を駆使した「メディアージュ」もその中にある。非接触型ICカードで映画館入場料や飲食代を支払う方式が採用されており、近未来型生活を体験できる。ところで臨海副都心へは、新交通ゆりかもめか臨海副都心線の利用となる。時間集中型の施設が多いため輸送力に不安を抱える。流行を追うゆえの悲劇ではあるが、臨海副都心には仮設性やはかなさが漂う。東京の中でも独特のタウン・イメージを形成しつつあるといってよい。

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さいたま新都心(1996)

本誌1996年版収録

浦和・大宮・与野3市にまたがる旧国鉄大宮操車場跡地を中心に、埼玉県南部最大の都市再開発が進行中である。これら3市は政府指定都市構想ももっており、神奈川・千葉両県に大幅におくれをとった新都市づくりに力を入れている。計画地域は47.4ヘクタールで、「にぎわい」「ふれあい」「ときめき」の三本軸の交わりを基本コンセプトとする。中心となる広場には日米共同グループによる「空の森」が選ばれた。みなとみらい21と幕張副都心、それに東京の臨海副都心が湾岸指向なのに対して、関東平野の中心を強く意識している。これにより東京圏の地域構造がバランスよくなるとの見方が強い。当然ながら、道路・鉄道計画もあるが、その完成はまだ先になりそうである。

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さいたま新都心  Saitama New Urban Center

本誌2002年版収録

国の行政機関の10省庁地方支分部局18機関の集団的移転であり、東京一極集中問題の是正をはかるのが目的。2000(平成12)年5月には街びらきが行われた。浦和・大宮・与野の3市が合併してできた「さいたま市」(人口は103万人)の中にあって、さいたま新都心は、埼玉中枢都市圏の核と位置づけられている。就業人口5万7000人の新しい街の中核的施設はコンベンション機能をもつ「さいたまスーパーアリーナ」で、00年9月に開業。オープンして6カ月間の施設稼働実績が31%と、目標の半分の水準にとどまった。このため、管理運営主体のさいたまアリーナは、01年2月、中小イベント重視へと営業戦略を転換し、集客強化にのりだした。行政機関の移転はともかく、オフィス需要の低迷を受け、商業・業務・文化ゾーンなどの開発区域で事業の遅れが心配される。

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幕張新都心(1994)

本誌1994年版収録

千葉県西部の幕張地区に千葉県が中心となって建設している大規模都市開発。1972(昭和47)年度に建設がスタートし、オフィスなどの用地を延べ116.8ヘクタール用意する。93年夏に約40%の分譲が終わった。なかでも有名なのがすでに完成している幕張メッセで、各種見本市やイベントが開かれている。プロ野球ロッテのマリン・スタジアム、ホテル、オフィスビル、大学(放送大学・神田外語大学)などがある。現在進行中の東京湾岸開発大規模プロジェクトのうち最も完成度が高いが、商業機能の面では計画が大幅に遅れている。

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幕張新都心(2000)

本誌2000年版収録

1989年に幕張メッセが開業し本格的な「業務核都市」整備が始まった幕張新都心も10年が経過した。最近では世界第2位のスーパー、カルフール(フランス)が店舗面積1万7000平方メートルの施設出店を計画中であり、三井不動産は、有名ブランド店60店舗以上からなるアウトレットモールを計画している。いずれも2000年末に開業予定。反面、レゴ(デンマーク)が進出予定のテーマパーク「レゴランド幕張」の開業が遅れるなど不安材料もあり、景気動向が敏感に反映された状況になっている。

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東京遷都論・改造論(1966)

本誌1966年版収録

近年東京問題は各方面の関心の的となり、政府、民間からも数多くの救済案が出されている、これらを大別すると「首都移転論(遷都論)」と「東京改造論」の2つに分かれる。遷都論では東京はもはや救いがたい重症の都市だから、このさい思い切って都を富士山麓なり、東海道新幹線の中央浜名湖あたりに移転させたらどうかというのである。改造論の方は東京はせっかくこのような集積の効果を示す大都市になっているのだからこのばくだいな社会資本を生かすためにもなんとかしてこの場所で再改造すべきだというのである。これには東京湾を活用して解決したらという丹下案、産業計画会議案、房総半島を東京湾の所に引っ張りよせよという清水案などがある。

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遷都論(1974)

本誌1974年版収録

東京から日本の首都をどこかへ移そうとする議論、つまり首都の引越し論議である。これはかなり古くからあり、古くて新しい問題である。大災害や過密問題が深刻になるにつれて出てきて、また忘れさられてきた。遷都の是非を説く論点も、首都の場所選定も、人と時代によってさまざまに変ってきた。天皇の御所を移すだけの論や、政治中心を移すもの、その場所も西の方へ向う浜名湖遷都、富士山麓案もあるが、最近ではひかりが北へ発展するから仙台案や盛岡の近くの北上遷都案などが有名になった。遷都論に対して東京をこのままの位置で再開発しようとする改造論者もある。また両者を折衷したものに東京湾を埋立てて東京湾上に首都を移す案や、房総半島方面に遷都する案などさまざま

である。ともあれ、東京は遷都論も改造論も同時に進めなければならない段階にきているといわれている。

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遷都論(1992)

本誌1992年版収録

一極中心にともない東京の巨大化がますます進む。東京の都市問題の解決と地方の振興を考慮して、最近、遷都論が盛んになった。古代においては何度も遷都したが、近代日本では、明治初期のみであり、以後、120年もたったので、東京以外のところに首都を置こうという考え。完全な遷都(たとえば仙台)のほかに、分都(一部の首都機能のみの移転)、展都(東京圏内のつくば、立川などに一部を分散)、重都(東京と重複して代替機能をもつ第二首都。たとえば京都)など、さまざまな考えがある。しかし、東京(圏)への一極集中が是認されている今日、遷都論はいま一つ意気が上がらない。

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多核分散型都市

本誌1971年版収録

過密になやむ大都市対策のため、建設省が固めた「大都市対策の課題と方針」の基本構想の中で示した新しい考えの都市。これによると、従来ある都市の都心が一点に集中的に存在する求心型の都市形成から、<1>10〜30キロ間隔で二次的中心地、都心群を多核的に配置する、<2>これらの核から出る放射状の交通路をつなぐ交通施設のネットワークをつくり、核間の近接性を高める、など「多核分散型」の都市形成を今後の方向として示している。従来の都市対策では、都心は一つで、中心から動かせないものとし、住宅や工場、学校など、いわば都市のわき役的機能の分散ばかり考えていた。これに対して、この構想は都市の本質的機能の拠点である都心を計画的にいくつかに分散し、交通発生源を散開し、周辺からの圧力を緩和平均化しようとする画期的なものである。この都心群を結びつける交通ネットワーク計画と実践が成否のかぎを握るものである。

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一極集中と多極分散(1988)

本誌1988年版収録

これからの日本の都市問題に大きくかかわると思われる四全総(第四次全国総合開発計画)が、昭和62(1987)年5月、国土庁ら発表された。この中で最も議論を呼んだのは、一極集中か多極分散かということであった。61年12月の四全総中間報告では、東京圏の圧倒的地位を認知した。これは、従来は大阪、名古屋とともに、日本の三極の一つとしての東京を、大阪、名古屋とは別格で、日本の最重要拠点として認め、さらにそれを発展させようとしたものであった。従来の多極分散型国土計画から一極集中の国土計画へ転換とさせるという、これまでにない総合計画案であった。これは、大阪、名古屋だけでなく、全国の地方からも大きな反発を受けた。ただでさえ東京集中が続き、地域格差の抜本的解消が実現しないうちに、国家として東京集中を助成することになるという反対であった。都市と農村の間における生活面での格差は大幅に是正され、都市より農村の方が生活の実態がよいのではないかという見方が一般的になっていた最近の情勢のなかで、再び都市の活性化を重視しなければならないという世論も強い。農業重視ではなく、国際化に対応して、都市中心の国としての日本のあり方も問題となっている。そのような社会一般の傾向を強く反映して、都市、それも東京重視の国土計画が初めて打ち出されようとした。東京を核とした東京圏(東京大都市圏)は、約3000万人もの巨大な人口をもち、阪神圏の1600万人、名古屋圏の800万人とは、格段に違う。大阪や名古屋からの大企業本社の東京移転も続いている。さらに、国際金融、情報機能の集積が急増中の世界都市でもある東京は、今後、国内事情からだけではなく、国際環境の下での金融、情報、人の集中も避けられないと予想されている。関東平野という、日本では格別の広さをもった平野の存在や東京湾全域を巨大な港湾にしうるという有利な地理的条件もある。こうして、東京圏への集積を認知しようとしたのであった。大阪、名古屋だけでなく、広く全国的な反発があり、国土庁はその最終案を、一極集中でなく多極分散という形でまとめた。「地方の発展は、東京とともに国の発展を支える大きな原動力であり、地方が停滞、疲弊すれば日本は片肺飛行を強いられ、墜落することになりかねない」との立場から、地方振興を国指した多極分散型国土の形成を提唱している。ここでいう地方とは、東京(圏)以外のすべての地域を指し、大阪のような大都市も、中小都市、農村部も合まれる。分散させるべき機能として、<1>情報発信、国際金融、国際交流、<2>人材、教育、学術研究、<3>民間企業の本社、<4>ハイテク型産業、<5>第三次産業、<6>政府関係施設、国立劇場のような全国的施設が考えられている。このような政策にもかかわらず、21世紀へ向けて東京圏の圧倒的地位はさらに高まるという見方が強く、また、東京都としては、東京を活性化する機能の集中を促進させるというのが基本的態度である。

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一極集中と多極分散(1997)

本誌1997年版収録

1986(昭和61)年12月の四全総中間報告では、東京圏の圧倒的地位を認知した。従来の多極分散型国土計画から一極集中の国土計画へ転換させるという、これまでにない総合計画案であったが、これは全国から大きな反発を受けた。しかし、国土庁はその最終案を、一極集中でなく、多極分散型国土形成促進法(88年 多極分散法)とした。これにより、東京圏内での多極分散を業務核都市(八王子・立川、横浜・川崎、千葉、土浦・筑波研究学園都市、浦和・大宮の五地区)とするほか、全国的に振興拠点地域を設定しようとしている。

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首都機能分散

本誌1991年版収録

人口、産業、諸機能が東京に一極集中していることが狂乱地価、環境問題、交通問題といったさまざまな大都市問題を引き起こしているとして、政府は東京への諸機能の集中を抑制するとともに、これらの機能を地方に分散、地域格差の是正、地方振興、また地価抑制を果たそうとしている。こうした多極分散型国土を推進していくため1988(昭和63)年5月に第112国会で多極分散型国土形成促進法を成立させている。

その一環として国の行政機関および特殊法人の東京区部からの移転、行政機関等の東京区部への新規立地を抑制する措置がとられ、移転対象機関79機関と自衛隊の1一部隊の都内からの移転が同年7月の閣議で決定された。

このほか、衆参両院の超党派議員で構成する新首都問題懇談会は90(平成2)年7月に、11月の議会開設100周年をめどに、国会の地方移転を求める決議をしようと関係各方面に呼び掛け、話題をよんだ。

わが国の国土政策の基本政略は52年の全国総合開発計画以来、東京への一極集中是正を最大の柱にしてきたが、結果的には効果を挙げないできている。最近は世界的に情報化社会への歩みが急ピッチで進み、その中心に東京がニューヨークと並んでなりつるとき、理念としてはわかるが、首都機能分散は現実には難しいと指摘する声も強い。

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クラスター  cluster

本誌2000年版収録

英語では「複数の集合体」「群生」の意。都市計画でニュータウン計画に際して、いくつかの集合住宅地などから都市を構成する場合に用いられてきた。最近では、首都機能移転問題で登場している。新首都のイメージのひとつとして、数万ヘクタールの区域の中に都市を点在させるクラスター方式の提案がそれである。

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オフィス立地の都心回帰現象

本誌1999年版収録

各種規制緩和のなかで、容積率の緩和は、都心部の土地の高度利用を促進させる。土地のコストが建物の価格や家賃に占める比率が低下するため、集合住宅の分譲価格が下がり、取得しやすくなる。通勤地獄に悩まされる多くの遠距離通勤者には都心居住指向が強まるだろう。事務所ビルの賃料も同時に低下しており、都心部への業務集中現象の復活を危惧する声すら聞かれる。東京などではビルの新規供給がしばらく続くため、企業など、ビルの借り手側の選択権が強まる。

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車社会がもたらした中心市街地の空洞化

本誌2000年版収録

都市中心部の賑わいが、かつての勢いを失いつつある。いわゆる空洞化現象である。商店街の衰退がさけばれ、中心部夜間人口の減少によるコミュニティの崩壊となれば、社会問題である。もともと中心部に暮らしていた人々はどこへ行ったのか。都市の郊外の住宅地に移り住み、郊外のショッピングセンターに買物にでかけるのである。都市全体としては人口はけっして減っていない。人口が中心部から郊外に移動したのである。それは、基本は郊外部のほうが便利で暮らしやすい、要するに、中心部より郊外が総じて魅力があったためではないか。もっとも、市庁舎や病院、大学などが次々と郊外に分散立地したこともあろうから、行政が郊外への人口流出を加速させた面もあるにはある。車社会にあっては、中心部のように駐車場も満足に提供できないところは、市民がしだいに利用しなくなる。中心部に暮らしてもよいと思える魅力とは何かを真剣に考えるべきときである。単に商店街をリニューアルすれば賑わいが戻ると考えるのは間違っているといっておこう。

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中心市街地活性化法の成立

本誌1999年版収録

大型店の郊外進出等による地方都市中心部の疲弊に対処するための法律で、活性化法と略称。車依存の社会の見直し、土地浪費型開発からの脱却を目指す。TMO(タウン・マネジメント機関)なる「まちづくり会社」の設置や市民参加などにより、商店街の意欲的な商店主の動きを結集できる可能性もある。同法では、中心街居住の促進、駐車場整備の助成、中心商店街の強化、歩道・小公園の整備などメニューから市町村が選ぶ方式をとっている。法律の主旨はともかく、地方都市の中心部がとくに若い人たちにとって魅力がなくなっている事実と、車社会のもつ高度な利便性をある程度犠牲にしてまで、中心部に人を戻せるような魅力を醸成できるかどうかは予断を許さない。

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中心市街地活性化法  the act concerning im-provement and vitalization in urban centers

本誌2002年版収録

大型店の郊外進出等による地方都市中心部の疲弊に対処するための法律で、活性化法と略称する。1998(平成10)年7月に施行された。車依存の社会の見直し、土地浪費型開発からの脱却をめざしている。TMO(タウンマネジメント機関)になるまちづくり会社の設置や市民参加などにより、商店街の意欲的な商店主の動きを結集できる可能性もないわけではない。活性化法では、中心街居住の促進、駐車場整備の助成、中心商店街の強化、歩道・小公園の整備などのメニューから市町村が選ぶ方式をとっている。都市規模に対して平面的に広がりすぎた中心市街地をそのまま取り込むのではなく、候補地区を絞り込むことができるかどうかを問題としたい。

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首都移転構想(韓国)

本誌1978年版収録

朴大統領は、1977年2月10日、ソウル南方の自動車で約一時間の距離の地に、行政首都を新らたに建設する構想を打ち出した。これは、公には現在の首都ソウルの人口抑制策であることを主要理由としているが、同時に、在韓米軍撤退の具体化にからんで、休戦ラインから至近距離にあるソウルの防衛のむずかしさを考えたうえでの軍事的配慮にもとずくものと観測されている。

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ベルリン遷都

本誌1999年版収録

ドイツが東西に分裂した際、西の首都はボン、東の首都はベルリンとなった。西ドイツは統一の暁にはベルリンを首都とすることを決め、ボンは仮の首都として議事堂も官庁の建物も仮住まいの時代が長期間続いた。再統一に当たって1990年8月に結ばれた両独統一条約ではベルリンを首都とすることが決められたが、「首都機能」つまり議会と政府の所在地は、統一後に新連邦議会によって決めることになっていた。

その連邦議会は91年6月20日に開かれ、12時間にわたって100人を超す議員が発言し、採決の結果、337票対320票の僅差でベルリンに首都機能を移すことを決めた。ただし国防省など一部の政府機関はボンに残したままになる。旧帝国議会の建物を一部改造して連邦議会(下院)が使い、連邦参議院はその向かい側に新築することになっており、そのデザインも一般参加によるコンペティションですでに決まっている。外務省が移れば各国大使館も移さねばならず、移転費は莫大な額にのぼる。ベルリンの中心街だったポツダマー・プラッツには、東西の壁を取り除いた跡地に、ドイツを代表する企業ダイムラー・ベンツと並んで、日本のソニーがビルを建てることになっている。

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大坂遷都計画

本誌1990年版収録

豊臣秀吉が皇居を京都から大阪に移そうとしていたのは単なる噂ではなく、かなり現実性をもった具体的なものであったことが判明した。秀吉の大坂遷都計画はルイス・フロイスのローマ法王庁への報告のなかに言及されているが、秀吉一流のホラか、せいぜい構想程度のものと思われていた。最近の研究で、大坂城から淀川を挟んだ北側に広大な空間地が放置されていることの意味が考究され、この地が遷都の候補地であった可能性が強いと判明したもの。

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