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色とイメージの用語集
 

red がイメージさせるものは、幸福、愛、勇気、情熱、怒り、戦争、共産主義、革命、インディアン…。フランス語 rouge は、スタンダール『赤と黒』にあるように軍服の色。しかし、かなり前にその意味はなくなった。赤い軍服では目立ってしまって最初に撃たれてしまう。ロシア語の赤(クラースヌィ)は、ソ連時代にはもちろん最も大事な色で、革命・共産主義・唯物論・愛国心等々を意味していたが、そうでなくてもこの民族には好ましい色だ(クラースヌィには「すばらしい」「美しい」という意味がある)。

1991-92あたりまであった「赤い帝国」「赤の脅威」などという類の表現は、共産主義の陣営をさしていたが、“赤くなくなったり”、あるいは“赤いままだが弱ってしまったので”使われなくなった。北朝鮮は後者にあたるが、現在「アカ」という表現は好まれず、単なる「テロ支援国家」「悪の枢軸」だ。

赤旗〈1948〉

本誌1948年版収録。以下、

1789年、第1次フランス革命の結果成立したフランス議会は、暴動が起こったときは戒厳令をしき、その印として赤旗を掲げるとの規定をしたが、1791年の暴動で赤旗が掲げられ、このとき政府軍が人民に対して発砲し数万人を殺傷したので、これに憤激した人民は、逆にこれに対する反抗、革命の印として赤旗を掲げた。これ以来、赤旗が革命を意味するに至り、人民革命の旗として各国の共産党が用いている。

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赤旗〈1973〉

本誌1973年版収録。以下、

日本共産党中央機関紙。政党の新聞としてはもっとも歴史が古く、1928年の創刊。戦前、天皇制ファシズムの弾圧によって何度も停刊をよぎなくされ35年2月に最終的に停刊。45年日本の敗北とともに党が再建され同年10月20日再刊。46年1月「アカハタ」と改題。占領下の50年6月朝鮮戦争の開始とともに停刊の弾圧をうけたが52年5月復刊。66年2月「赤旗」の紙名に復帰。59年3月から日曜版も発行している。全党を指導し党と大衆とを結合するうえで大きな役割を果たしている。資本主義国の共産党機関紙としては最大の発行部数をもつ(本紙40万、日曜版150万)。同党中央の紙誌としては他に「学生新聞」「前衛」「文化評論」「月刊学習」「議会と自治体」「理論政策」「世界政治資料」「平和と社会主義の諸問題」「赤旗縮刷版」などがあり、広報・理論活動では他の諸政党を圧倒している。

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赤軍

本誌1968年版収録。以下、

Red Army 10月革命後生まれたソ連邦における労農赤軍のこと。1918年1月の人民委員会会議の決定により、労働者と農民からなる志願兵制度による労農赤軍が組織された。18年の春、列国の武力干渉が開始されるとともに、これは徴兵制度に切りかえられた。また隊内には帝政ロシア軍の多数の将校、下士官が採用されていたため、軍事委員制度を設け、党による指揮官のチェックを行なった。指揮官の下す命令には必ず軍事委員のサインが必要とされた。内戦と干渉戦の終結の後、赤軍正規兵の数は著しく減少し、指揮官が労働者、農民出身者により占められるにしたがい軍事委員の数も減少した。

こうして第1次5カ年計画時には赤軍の機械化も進み、29年に出された赤軍野外教令はその任務を祖国防衛と革命支援であると規定した。しかしその後国際環境の悪化によりその任務は祖国防衛のみに限定された。46年、赤軍の名称はソビエト軍と改められた。

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赤軍派

1969年本誌より。

代表的な反代々木系セクトの一つである共産同(学生組織は社学同)から、昭和44(1969)年7月に分裂した最過激派。同志社大、桃山学院大など関西勢を中心に3、400人の活動家がおり、関西派とも呼ばれる。機関紙は「赤軍」、9月に「大阪戦争」を起こして警察などを襲撃、10、11月には「東京で武装蜂起」と主張した。45年3月、日航機乗取りで注目をあびた。

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日本赤軍

1998年版本誌収録。以下、

創設直後の1969(昭和44)年11月、山梨県大菩薩峠での大量検挙によって潰滅状態に陥った赤軍派の重信房子と奥平剛士が71年2月、偽装結婚してパレスチナ入りし、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の庇護、支援の下で海外赤軍派をつくった。当初、アラブ赤軍、赤軍派アラブ委員会といっていたが、74年以降日本赤軍を名乗った。72年5月、岡本公三ら3人によるイスラエル・テルアビブ空港襲撃事件以来、日航ジャンボ機ハイジャック(73年7月)、シンガポール・シェル石油襲撃(74年1月)、クウェート日本大使館占拠事件(同2月)、ハーグ・フランス大使館占拠事件(同9月)、クアラルンプール・アメリカ大使館占拠事件(75年8月)、日航機ハイジャック・ダッカ事件(77年9月)などの事件を起こし、逮捕中の元赤軍派メンバーや東アジア反日武装戦線のメンバー、殺人犯など計12人を奪還。また、ダッカ事件では身代金600万ドルも日本政府から奪った。81年のイスラエルのレバノン侵攻により、84年まで一時、レバノン北部のベカー高原の本拠からシリア、南レバノンなどに避難していたりして、ダッカ事件後の実力行動はなく、日本国内向けに連帯呼び掛けの文書宣伝活動をつづけた。85年5月、テルアビブ空港事件でイスラエルに抑留中の岡本が、イスラエル側とパレスチナ・ゲリラとの捕虜交換で釈放されて復帰した。86年2月、メンバーの山田義昭が警視庁に出頭して逮捕され、87年1月、ひそかに帰国中だった丸岡修が東京都内で逮捕、丸岡には93年12月、東京地裁で無期懲役の判決。フィリピン・マニラに83年以来住んでいた泉水博も88年6月、逮捕された。日本赤軍の活動メンバーは3、40人程度とみられ、警察庁は、重信ら15人を国際手配している。95年3月、メンバーの浴田由紀子が偽造旅券を使ってルーマニアに入国しようとして身柄を拘束され、日本側に引き渡された。96年5月、浴田由紀子の19歳の長男を連れていた吉村和江がペルーで逮捕されて日本に引渡され、同年9月、城崎勉がカトマンズでネパール当局に偽造旅券容疑で逮捕され、86年のインドネシア・ジャカルタでの米大使館砲撃容疑で国際手配していたアメリカに引き渡され、ワシントン連邦地裁で公判中。97年2月15日、ベイルート市内で岡本公三、戸平和夫、足立正生、松田久、山本萬里子の5人がレバノン当局に身柄を拘束され、旅券や入国ビザ偽造などの罪で起訴されて6月9日、ベイルート地裁で初公判が開かれた。

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よど号赤軍〈1985〉

本誌1985年版収録。以下、

昭和45(1970)年3月31日、羽田発福岡行の日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)ヘ“亡命”した旧赤軍派の田宮高麿ら9人は、その後北朝鮮で学習や翻訳などの仕事を行いながら“客分”的生活を続けているが、56年末機関誌「日本を考える」を季刊で発行、59年6月までに10号を日本国内などに送り、自分たちの考え方や、日本の状況についての感想を伝えて来ている。北朝鮮訪問の日本人とも幾度か会見しているが、過去のハイジャック闘争については反省、労働者大衆を主体とする「反米自主」の闘争を呼びかけている。金日成主義に立って、革命闘争を続ける意志を捨ててはおらず、10号でも日本へ帰りたいとの希望を述べているが、帰国すれば逮捕されることになるので、その可能性はいまのところ考えられない。一方で、58年7月はじめ平壌で開かれた「世界ジャーナリスト大会」で田宮が演説したり、同年8月リビアで聞かれた「全アフリカ青年フェスティバル」に小西隆裕ら2人が参加するなど、対外活動に公然と乗出したことが、注目されている。

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よど号赤軍〈1998〉

本誌1998年版収録。以下、

1970(昭和45)年3月31日、赤軍派の田宮高麿ら9人が羽田発福岡行の日本航空ボーイング727機「よど号」(乗客122人、乗員7人)をハイジャックして、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に“亡命”した。日本で初めてのこのハイジャック事件は、潰滅状態の赤軍派が「フェニックス作戦」と名づけ、国際根拠地づくりをねらって敢行したもので、福岡―ソウル金浦空港―北朝鮮ピョンヤンと、3日間にわたったハイジャック飛行ののち北朝鮮入りした。その後9人は亡命者として北朝鮮側の保護の下、金日成主席のチュチェ(主体)思想を学び、翻訳や日本語教授の仕事などをして生活し、81年から日本へ向け季刊の機関紙「日本を考える」を発行、日本国内へ送った。85年には政府側の意向を打診するため、当時の中曽根首相、藤波官房長官あてに手紙も出した。85年9月、メンバーの吉田金太郎が肝臓病のため死亡。88年5月10日には、事件当時17歳の高校生だった1人が、その3年前から、ひそかに帰国していたことが分かって逮捕され、公判で帰国作戦の準備のためと主張した。92年12月、東京高裁は懲役5年の一審判決についての控訴を棄却、93年11月、最高裁も上告を棄却、刑が確定した。

94年11月30日、リーダーの田宮高麿が心臓マヒで死亡して遺骨が帰国。96年3月25日には偽米ドル事件に絡みタイ当局から追及されていた田中義三が、カンボジア国境で北朝鮮の外交官と一緒にいたところを逮捕されてタイ側に身柄を引き渡され、偽米ドル容疑で公判中。96年に入って、ピョンヤンのよど号赤軍メンバーのうち考え方の相違から別個に生活していた岡本武は、妻の福留喜美子とともに88年に土砂崩れの事故に会って2人の子どもを残して死亡していることが判明。現在ピョンヤンにいるメンバーは4人となったが、死亡した田宮高麿を含め吉田金太郎(死亡)を除く他の8人全員が日本女性と結婚して、総計18人の子どもがいることが分かり、97年6月までにうち13人については北朝鮮当局が出生証明を発行、それぞれの日本の本籍地などに提出して日本国籍取得の手続きを進め、これまでに3人の子どもが国籍を取得している。これらよど号メンバーのほかに赤木志郎の妹とその夫もメンバーに加わり、2人の子どももいる。メンバーの妻のうち5人については、旅券法違反容疑で指名手配されている。

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釜山赤旗論

本誌1972年版収録。以下、

南北に分断された朝鮮の統一が実現されれば、日本に「共産主義の侵略がせまる」という思想。朝鮮戦争前後から宣伝され、現在では日米安保体制維持と対韓援助強化のために利用されている。

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連合赤軍

本誌1998年版収録。以下、

連合赤軍は1971(昭和46)年7月、潰滅状態になった赤軍派の残党と、基地や交番攻撃、銃砲店からの猟銃強奪などを行っていた京浜安保共闘の計約30人が合体、銃火、軍事組織による蜂起の新党として結成したもの。南アルプスの山岳ベースで軍事訓練などを行ったが、京浜安保共闘時代2人を脱走したとして“処刑”、連合赤軍キャンプ時代メンバーの約半数の12人を「反共産主義化」に対する「総括」などの名目で集団リンチを加え“粛清”、計14人の仲間殺しを行っていたことが判明した。さらに、72年2月、最高指導者の森恒夫と永田が逮捕され、逃走した坂口、植垣ら5人が長野県軽井沢町のレークタウンにある河合楽器の保養所「浅間山荘」に猟銃をもって押し入り、管理人の夫人を人質にして籠城、警官隊と10日間にわたる銃撃戦を展開した。警官隊側は催涙ガスと放水作戦で人質を救出、全員を逮捕したが、この間警官2人が犯人側の銃弾で死亡、23人が負傷した。これによって連合赤軍は、16人が逮捕され潰滅したが、73年元旦、森は収容中の東京拘置所で首吊り自殺。82年6月、東京地裁は永田、坂口に死刑、植垣康博に懲役20年の判決を言い渡し、86年9月、東京高裁も控訴を棄却、93年2月、最高裁も上告を棄却、3人の刑が確定した。永田らとともに公判中だった坂東国男は75年8月、日本赤軍に“奪還”されたままである。

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赤い旅団(BR)

本誌1989年版収録。以下、

ブリガーテ・ロッソ。大学闘争後の1969年、北イタリアのトレント大学生レナート・クルチオとマルゲリータ・カゴルの2人が、マルクス、毛沢東、チェ・ゲバラの思想を信奉する左翼急進学生組織として、ミラノ市内で結成。「共産主義社会の樹立」を目ざし、「経営者、ファシストおよびこれを保護する国家に対する闘い」をかかげた。100以上あるイタリアのテロ・ゲリラ組織中最大、最強のもの。メンバー400〜500人だが、一時数万から10万人のシンパがいるといわれた。ミラノ、トリノなどイタリア北部工業都市を中心に、実業家や裁判官などへのテロ、誘拐、工場、事務所の爆破から、殺人、強盗などのテロを続発。その年3月、モロ首相を誘拐殺害するなど約2500件の事件を起こした78年がピーク。74年9月、逮捕されたクルチオが、その翌年妻カゴルら仲間の刑務所襲撃によって脱走、その後、カゴルは警察との銃撃戦で死亡、クルチオも再逮捕された。その後、潰滅状態が伝えられたが、87年7月、デシタ首相の片腕といわれたロベルト・ルフィリ上院護員を4人のメンバーが自宅で射殺、5月には、国営主要武器メーカー「オト・メララ」社の駐車場で時限爆弾を爆発させるなど活動を復活させた。パレスチナ・ゲリラ組織と連携しているという。

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西独赤軍(EAF)

本誌1989年版収録。以下、

2人の指導者の名前をとってつけたバーダー・マインホフ・グループが中心となり、ホルガー・マインスコマンド、ハーグ・マイヤーグループ、6月2日運動などの地下テロ・グループが糾合して、1970年7月ごろ結成。結成後2年間、爆破、放火、強盗などの都市ゲリラ活動を展開したが、72年6月の一斉検挙、75年9月のストックホルムのドイツ大使館襲撃失敗によって、バーダー、マインホフ(女性)、ラスベラなど主要幹部のほとんどが逮捕、投獄され、76年5月、マインホフが獄中で自殺した。これに対し、西ドイツ赤軍は77年9月、シュライヤー西ドイツ経営者連盟会長の誘拐殺害事件、同10月ルフトハンザ機乗っ取りなどの報復テロを行ったが、いずれも失敗。同月、獄中のバーダー、エンスリン、ラスベの3幹部が自殺した。しかし、その残党が各都市での一斉爆破など活動をつづけ、85年2月、軍需産業の社長銃撃、フランスのアクション・ディレクトと共闘してのNATO軍需関連産業施設爆破、86年2月、反核・平和運動で知られたスウェーデンのオロフ・パルメ首相のストックホルム市内での暗殺、87年2月のローマで約1億5000万円強奪の現金輸送車襲撃、同3月のイタリア空軍のSDI(米国戦略防衛構想)担当将軍射殺、同11月の388人の重軽傷者を出した米軍施設爆破などの事件を起こした。88年6月現在、440人が服役、拘置中という。

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赤ヘル軍団

本誌1976年版収録。以下、

昭和50(1975)年10月15日広島東洋カープは球団創立26年目にして、初めてのセントラル・リーグの優勝を決めた。例年開幕当初から5月ごろまでは“鯉の滝のぼり”のように勝ち進むが、しだいに負数が多くなり、シーズン終了ころには最下位となるのが恒例だったが、今年はフルシーズンにカを発揮して、広島東洋カープのチームカラーの赤いヘルメットがいつも塁上をににぎわしていた。それが日本赤軍の赤ヘルメットのイメージとダブって、赤へル軍団の異名となった。シーズン途中でルーツ監督の退団というアクシデントがあったが、ルーツ監督の指導方針である4C---Confidence(自信)、Consistency(一貫性)、Concentration(集中力)、Courage(勇気)---を後任の古葉監督以下選手全員が守った結果であろう。そしてこの4Cは赤ヘル軍団のみならず、一般社会のわれわれもあらゆる場合に適用することができる法則であろう。

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赤いサッチャリズム

本誌1986年版収録。以下、

1981年に成立したフランスのミッテラン社会主義政権は、主要産業の大規模な国有化を行った。しかし、85年にいたり国有化政策の見直しから逆に民営化の方向を求め始めた。フランスばかりでなくスペインのゴンザレス政権、スウェーデンのパルメ政権、ポルトガルのソアレス政権、イタリアのクラクシ政権も社会主義経済政策の修正、民営化による経済効率化へと転換の姿勢を示した。イギリスのサッチャー政権の国有化産業民営化と軌を一にするもので「赤いサッチャリズム」とされた。

欧州を中心とする「赤いサッチャリズム」は、西ヨーロッバとは別の形で中国、ハンガリー、さらにタンザニア、モザンビークなどのアフリカ社会主義の経済自由化政策にもつながる世界的現象の一環といってよい。

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紅/専

本誌1991年版より。以下、

「紅」(ホン)は共産党の主義思想と政治、「専」(チョワン)は専門的な知識と技術。このどちらを優先し重視するかについては、1958年以来論争があった。

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紅衛兵(ホンウェイピン)/紅小兵(ホンシャオピン)

本誌1991年版より。以下、

文化大革命が高まりをむかえた1966年5月に、清華大学、ついで北京大学につくられたのをきっかけに、全国的に組織された。はじめは、紅五類(労働者、貧下中農、革命犠牲者、幹部および共産党員の子弟)をもって組織されたが、のちにはこの制限はなくなった。腕に赤字の布に「紅衛兵」と書いた腕章をつけ、赤い表紙のポケット版『毛主席語録』をうちふった。初級中学以下は、紅小兵と名のった。

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紅包(ホンバァオ)

本誌1994年版収録。以下、

中国で、取材に来た新聞記者・放送記者に企業や機関が贈る謝礼。「紅」には「利益を分ける」という意味がある。中国は市場経済導入により新しいプロジェクトや新製品を発表する記者会見が多くなり、その多くが食事付きで、謝礼の品や現金の土産がつくことも少なくない。企業にとっては、数十万元(1元は約20円)を費やして会見しても、ニュースとして報道されれば数億元の広告費に匹敵するという計算がある。国務院新聞出版署はこの悪風を止めさせるため、記者会見を開くときは地元の新聞出版部門の事前の許可を必要とするように改める方針と伝えられる。

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レッド・パワー

本誌1972年版収録。以下、

red power アメリ力合衆国内のインディアンの造反運動を、黒人のブラック・パワーになぞらえてレッド・パワーと呼ぶ。1969年11月ごろから、サンフランシスコ湾のアルカトラス島に200人ほどのインディアンが住みついて、インディアン対策の改善などを要求して立ちのき警告を無視し、これに公民権運動グループやヒッピーが援助を与えていたが、71年6月全員が退去させられた。今後の問題として、どのようにインディアンの要求に対して答えてゆくかがニクソン政権に残されている。

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レッドネック

redneck アメリカ合衆国南部の貧しい白人農民層。農作業で首が赤く焼けていることから。

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赤報隊

本誌1998年版より。

その正体は不明のまま、新右翼的グループとの見方が強いが、1987(昭和62)年以来の一連の朝日新聞襲撃事件で犯行声明を出している組織。同年5月3日、阪神支局に押し入った男が散弾銃2発を発射、その場にいた記者1人が死亡、1人が重傷を負った。同9月には名古屋本社新出来寮に散弾銃を発射、けが人はなかったが、両事件の犯行声明から同年1月、東京・築地の朝日新聞東京本社の外壁から散弾銃を撃ち込んだ跡も発見された。翌88年3月には、静岡支局駐車場で時限発火装置つきピース缶爆発物入りの紙袋がみつかった。東京の共同通信、時事通信などに「日本民族独立義勇軍別動赤報隊」名の犯行声明が送られ、その中で朝日新聞を「反日」「日本民族を批判する者」などと批判していた。88年8月の江副リクルート前会長宅銃撃事件(93年8月時効)の際にも、90年5月、名古屋市内の韓国人会館への放火事件でも赤報隊名の声明が出され、その実態がさらに不明化している。87年1月の朝日新聞東京本社外壁への銃撃事件については92年1月、名古屋本社・新出来寮銃撃事件は同9月に、いずれも5年の時効が成立した。94年5月、阪神支局襲撃事件から満7年を経たが、犯人の目星はついておらず、阪神支局事件は2002年に、静岡支局事件は2003年に時効となる。

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赤い心/赤心

まごころの意。

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赤い羽根

共同募金のシンボル。共同募金は、社会福祉法(旧社会福祉事業法)に基づく募金で、1947年から行われ、都道府県ごとに集められたお金は、地域内の社会福祉施設や社会福祉団体、ボランティア団体等々の活動にわりふられる。10月1日から12月31日まで。

黒い羽根緑の羽根黄色い羽根 2黄色い羽根 1青い羽根

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赤いダイヤ

小豆の異称、尊称。小豆は、夏場の天候によってその年の収量・品質に大きく差が出る作物で、これを目当てにかつては過剰なまでの投機の対象となった。相場師達にとっては文字通りダイヤの価値をもったわけだ。

黒いダイヤ青いダイヤ白いダイヤ黄色いダイヤ

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赤線区域

本誌1959年版収録。以下、

東京なら吉原、新宿、玉の井、洲崎、武蔵新田等にある特殊飲食店街のこと。風俗営業取締法、労基法、売春取締条例、旅館業法、衛生法などの取締りをうけながら黙認されていたが、売春防止法で姿を消した売春街。

黒線区域青線区域

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