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日本人の能力低下
学習指導要領のせいなのか?学習指導要領で救えるのか?
 

各世代がうけた教育政策・教育事情

国民精神総動員/国家総動員法

1938年。日中戦争が勃発して間もなく、国内の戦時体制化を求めて、政府は「国民精神総動員要綱」を定めた。そのスローガンは「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」。学校教育も、その路線に従わざるをえなかった。

★1920年代-生まれ。→◆太陽族◆一億総白痴化

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国民学校

1941-1946年。この年4月1日から小学校は「国民学校」と改称され、初等科6年、高等科2年の義務教育8年制になった。教科も「国民科」「理数科」「体錬科」「芸能科」の4科目に統合。高等科には「実業科」が加えられた。

“皇国民の錬成”が第一目標となったため、児童は少国民と呼ばれ、学校生活のすべてを錬成の名のもとに管理された。

★1929-39年生まれ。→◆太陽族◆一億総白痴化

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スミぬり教科書

1945年。連合軍最高司令部が日本の教育改革に手をつけた最初は、9月20日の指令で、軍国主義教育を追放するために教科書の改定を政府に命じた。このため、すでに生徒たちが使っている教科書の軍国主義的な内容のところはスミをぬって抹殺することになった。生徒たちは、教育内容が180度転換する様子を、目の当たりにした。

★1933-38年生まれ。→◆太陽族◆一億総白痴化

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駅弁大学

1949年。6・3制の実施によって、この年以降、旧制の高等学校、専門学枚、大学が新制大学として誕生、その数230、急行のとまるところ駅弁あり、駅弁あるところ新制大学ありということになった。手軽さつまり実力・素質の低下の意味を含めて、これを皮肉った新語造りの名人大宅壮一の造語である。

★1931年-生まれ。→◆一億総白痴化

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新教育

1945-1950年代中盤。

第2次大戦後の、アメリカによる占領下で行われた教育改革の潮流。子どもの興味や自主性を尊重する児童中心主義的・生活経験主義的なもの。学力低下などの問題を招き、また60年代の経済高度成長期の社会要請になじまず、この論調は衰退するが、いまだ一定の支持層をもつ。

★1940年代前半-生まれ。→◆五月病◆しらけ◆あさま山荘事件

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新制博士

1958年。旧制度での博士号は、博士論文を提出して審査にパスしたものに与えられたが、新しい制度では、大学院に入って、修士コース2年、博士コース3年で50単位をとり、論文にパスしたものに授与されることになった。ただし医学、歯科医学は修士コースがなく、4年の博士コース修了者となった。3月末、はじめて国公立大学で「新制博士」が誕生した。新旧のレベル云々については駅弁大学 (→別項) 同様である。

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高校全入制

本誌1970年版収録。以下、 「中学校卒業者で高校入学を志望する者全員を入学させること。これをさらに進めて学習不能の異常児以外にすべて高校に入学させ、奨学資金によって就学を保障すべきだとする主張もある。いずれも高校教育準義務化の原則にたっている。これを推進する民間有志の組織として全入協 (高校全員入学全国協議会、昭和37年結成) があり、一方、高校全入にすれば高校の学力水準が低下するという懸念や、義務教育修了後は、高校進学一本とせず、進路・特性に応じて、多様な教育訓練のコースを設けるべきだという説など、総じて、高校全入は悪平等だとする反対意見も強い。」

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小さな親切

1963年。この年3月、茅誠司東大総長が卒業生へのメッセージで「小さな親切にも心を配ろう」と提唱したのがはじまり。その後、各新聞ともこれに賛同し「米空軍三沢基地のヘンドリック中佐らが“光のプレゼント作戦”と名づけ、盲人の人たちのために角膜などを贈る資金集めに、トイレの掃除などのアルバイトをやっている」というニュースをはじめとして、この種のエピソードをどんどん報道、国民の関心を高めた。63年東大卒のお父さんたちは「親切な大人」になったか?

★1940-41年生まれ。

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期待される人間像

1965年。この年、中央教育審議会 (中教審) は「期待される人間像」 (中間草案) を発表したが、かつての教育勅語のように、国民の価値観に立ち入るこのようなものを、政府機関が作成することの是非、「祖国敬愛、天皇敬愛」が強調されていることの是非をめぐって論議をまきおこしたが、その基本的な内容は、臨教審答申にひきつがれた。次代を担う青少年のあるべき姿として、「正しく日本を愛する人」「たくましい日本人」などを挙げた。1950年代以降生まれのひとは「期待に違わぬひと」になれたか?

★1950年代中盤以降生まれ。→◆五月病◆三無主義◆新人五月病◆家庭内暴力

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マスプロ教育

1965年。この年、大学生が100万人突破。

★1947年-生まれ。→◆五月病◆しらけ◆あさま山荘事件

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戦無派

1967年-。戦後に生まれ、多感な少年、少女期はすでに戦後の安定期にはいっていた、いわば戦争をまったく知らない、戦争体験のない世代をいう。1967年の大学最上級生は、昭和21〜22年生まれ。この辺以降からが純粋な戦無派。

★1946年-以降生まれ。→◆五月病◆しらけ◆あさま山荘事件

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学校群制度

本誌1967年版〜収録。以下は1978年版収録の解説、 「公立高校入学者選抜の一方式。一般に学校ごとに選抜するのを単独選抜、複数の学校をまとめて総合して選抜するのを総合選抜というが、学校群制度とは、公立高校をいくつかの群に編成し、一つの群内の高校について総合選抜を行うもの。東京都や名古屋市等で行われてきた。 学校間格差を緩和する等の利点もあるいっぽう、希望する学校に入学できなかったり、地理的に不便な学校に機械的にふりわけられたりする不満もある。そのために、学校の個性が弱くなり、生徒の愛校心が欠如するなどの問題点が指摘されるなどしている。東京都が昭和42年度より全国に先がけて実施したものであるが、右のような欠陥があって、ついに57年度から骨抜きのものになる。」

★1952年-生まれ。→◆五月病◆三無主義◆新人五月病◆家庭内暴力

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東大入試中止

1969年。前年の医学部登録医制度反対の無期限ストに端を発する東大紛争の影響からこの年の入学試験は中止。

★1949-51年生まれ。→◆五月病◆ムーミン型新入社員◆パンダ型新入社員

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共通一次試験

1979 (昭和54) 年から国公立大学入試にさいし共通一次試験が導入された。その後、受験科目数減などの改定をへて、今日、共通テストとなり、私立大学入試にも任意で導入されている。

★1960年-生まれ。→◆家庭内暴力◆五無主義◆三語族◆校内暴力◆頭がウニになる◆話がピー◆「わたしたちはバカじゃない」◆コピー食品型新入社員◆「イッキ!イッキ!」◆新人類◆アーパー◆オウム世代

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主任制

1975年-。この年12月、文部省は、小・中・高の校務分掌を整備するためとして、主任制度を決定。これにより、これまでの保健主事、進路指導主事に加えて、教務主任や学年主任、生徒指導主任、学科主任などが省令で規定、設置されることになった。

日教組はこれを校務運営についての職制強化と教師集団に分断をもたらすものとしてうけとめ、強い批判と反対運動を展開した。その後、生徒は“うまく教育・指導される”ようになったか?

★1960年-生まれ。→◆家庭内暴力◆五無主義◆三語族◆校内暴力◆頭がウニになる◆話がピー◆「わたしたちはバカじゃない」◆コピー食品型新入社員◆「イッキ!イッキ!」◆新人類◆アーパー◆オウム世代

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偏差値

1976年-。

学力検査などの結果の分布が統計上、正規分布になるものと想定し、個々の成績が平均得点に対してどれだけ偏ったところにあるかを、標準偏差 (SDstandard deviation) をもとにして示したもので、これにより、50より上にいくにつれて優秀、下にいくにつれて劣るという判定が出てくる。基礎の偏差値を50とし上限75、下限25。統計的方法としては、実際の得点分布、問題の難易にかかわらず、検査結果を比較する方法としては便利である。しかし、この偏差値を、大規模な模擬試験などを行う受験産業業者が教育界、受験界に持ち込み、1970年代末から全国的に広まり、それをとくに子どもの高校進学志望決定の際の評価基準として、絶対化する風潮が生み出されるようになった。本人の偏差値で志望校への合格予想が行われる。おおく教育荒廃の元凶とされるこの数字ではあるが…。

★1958年-生まれ。→◆家庭内暴力◆五無主義◆三語族◆校内暴力◆指示待ち族◆頭がウニになる◆話がピー◆「わたしたちはバカじゃない」◆コピー食品型新入社員◆「イッキ!イッキ!」◆新人類◆アーパー◆オウム世代

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ゆとりのある教育

1976年。詰め込み教育への傾斜が強いという批判を受け、文部大臣 (現・文部科学大臣) の諮問機関・教育課程審議会が、学習指導要領について行った答申中のことば。2002年学習指導要領改訂のベースとなっている。

★1985年-生まれ。

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三年B組金八先生

1979年-。TBS系学園ドラマ。小山内美恵子脚本、武田鉄矢主演。ヒューマニズムをテーマとしたこの作品は、登校拒否や女子生徒の妊娠など重いテーマをとりあげ話題になった。生徒は教師に「こんな先生であってほしい」と思い、教師もテレビをみては何かしらの影響を受ける、また影響を受けた若者が教師を目指す。今日的に見ればこれはもはや一つの教育運動であろう。

★1964-生まれ。→◆テレホンカード型新入社員◆プーする/プータローする◆オウム世代

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教育臨調

本誌1984年版収録。以下、 「中曽根首相は、昭和58年3月29日の民放テレビ対談番組録画撮りの際、校内暴力の多発など“荒れた学校”の問題などの状況を下敷きにして、“学力偏重”の現行教育制度を抜本的に改革し、小学校では“思いやり”、中学校では“協調性”、高校では“個性”の涵養に力点をおき、大学は全員入学にするようにしたい、と述べ、さらに録画のあとの記者会見で、その教育態勢を、国民世論盛り上げのための「教育臨調」の構想で考えてゆく旨を示唆した。つまり、現在の教育の基本を、一文相の諮問機関である中教審の審議にまつのではなく、「臨調」のように内閣全体に属し、かつ超立法府・超行政官庁的にことを運んでゆくような強力な権威をもつ審議会によって、教育改革の方向づけを行おうとするものである。野党の一部には、この構想にただちに同調する動きをみせるむきもあるが、しかし、行政改革のように、バサリバサリと超立法府的に大ナタをふるう臨調のような行きかたが、果たして教育という、人間の心のヒダにまでかかわる問題に適切であるかどうか疑問といえよう。それはともあれ、その教育臨調構想の第一歩として、政府は、58年5月、天城勲 (前文部次官) 、石川忠雄慶應義塾塾長、井深大ソニー名誉会長、鈴木健二 (NHKアナウンサー) 、曾野綾子 (作家) 、田中美知太郎 (京大名誉教授) 、山本七平 (書店主) の7人による「文化と教育に関する懇談会」を、首相の私的諮問機関として発足させた。」

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過大規模学校

本誌1984年版収録。以下、 「学校の規模が過大ないわゆるマンモス校。人口の都市集中にともない近年では、大都市圏の、とくに中・高校の学級数が増加し、教育的な管理の行き届かないマンモス校がふえてきている。戦前の中等学校では、まれに各学年50名定員の5、6学級のものがあったが、ふつうは、都市でせいぜい3、4学級、5学年で全生徒数は1000名足らずといったところであった。しかし今日では、3学年で生徒数が1000名という中・高校は珍しくない。大規模校での生徒指導の欠陥は、かねて指摘されてきたことだが、昭和58年の横浜市における中学生 (その中学は43学級) の浮浪者殺傷事件などを機に文部省もようやく、過大学級規模を62年度までに解消するため、いかなる施設その他の手当てが必要かの調査を開始するようになった。」

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ニューアカ

1984-87年。大学大学に根を持ちながらも,旧来のアカデミズムからはみ出してそれに反逆を企てる新しいタイプのアカデミズム。『構造と力』 (浅田彰著、勁草書房1984) が火付け役。同書は、構造主義およびポスト構造主義の流れをまとめた難しい本だが、10万部以上売れた。浅田の『逃走論』 (筑摩書房) 、中沢新一の『チベットのモーツァルト』 (せりか書房) も同様。この種の本が10万部売れたというのは、つまりは“ニュー・アカ”ブーム、知のファッション化であった。

★1962-70年生まれ。→◆五無主義◆三語族◆頭がウニになる◆話がピー◆新人類◆オウム世代

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カイワレ族

1988年。カイワレのように画一化されて、勉強に追われる中学生たちをさす。偏差値というプラスチックケースとウレタンの苗床に植えられたカイワレの中・高生たちは、画一化された管理社会の中にしか生きることが許されない。何かおかしいと思っても手をさしのべられない親と教師の実態がある。管理教育が進行した時代であった。

★1970年代生まれ。→◆コギャル◆援助交際

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学校5日制と塾通い

1993年。世間一般の労働週休2日制の普及に伴う教員の労働条件改善と、「ゆとり教育」という2つの課題の利害がうまい具合に一致して、92年以来すすめられている公立学校の休日制度。95年月2回、2003年より小中高完全実施となる。上記の論理によって始められた制度であるだけに、「受け皿」としての塾通い増加などの現象もともない、肝心の生徒にとってのメリット・デメリットは、じっさいに始まってみないとなんともいえまい。

★1983年-生まれ。

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『知の技法』

1994年。本誌95年版収録。以下、 東大教養学部の文科系1年生の必修科目である「基礎演習」のサブテクストとして発行された書物のタイトル。ベトナム難民の漂着についてのニュースの読み方、マドンナの写真の分析といった具体的な例による「知の技法」の習得の方法、さらに図書館の利用の仕方から、都内にある大きな書店の所在地も教えてくれる。

どのように学ぶかということが、ひとつの教科になっているということ自体が、現代の大学教育の危機の現れであると考えられるが、その教科のためのガイダンスがまた必要になっている状況に注意すべきである。知の「内容」よりも、その「技法」を先に教えておかなくてはならないのが、今日の大学教育の状況である。それがまたベストセラーになったという事実は、普通の人たちが、東大の1年生と「知」を共有したいという意識もしくは無意識の現れであろう。

★1976-77年生まれ。

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高校の総合学科

本誌1994年版収録。以下、

「1993 (平成5) 年「高等学校設置基準」改定で、従来の普通教育を主とする学科 (普通課程) 、専門教育を主とする学科 (職業課程、芸術課程など) とならび、この2つの学科の中間的性格をもつ第三の学科として、高校に設置されるようになった学科。生徒が将来の進路、興味、関心等に基づき、幅広く用意された既存の両学科の科目を自由に選択履修し、最低限の必修科目とあわせて80単位以上修得すれば、卒業可能となる。単位制、無学年制であり、生徒一人一人が個別のカリキュラムを組み、他の高校、専修学校での履修科目も単位認定される。

戦後、現在の高校制度が誕生したとき、その理念的姿は、一つの高校で、生徒に基礎的教科目を共通履修させるとともに、普通・専門科目を生徒に選択履修させることにより生徒の進路に応じる学習、教育上の傾斜をもたせる総合制高校にあった。しかし、この制度は十分に定着発展せず、かつまた高度経済成長期に文部省が、いわゆる高校多様化政策を推進し、各種の専門・職業課程の設立を勧奨する過程で、ほとんど消滅してしまった。この措置は、普通高校と職業・専門高校とのつながりを絶ち、普通高校を進学基準教育に画一化させ、職業高校に対する社会的評価を低下させ、多数のドロップ・アウトを生み出すなどの結果をまねいた。

七〇年代末から、地方の段階では、たとえば埼玉県立伊奈学園高校 (八四年創立) のように、普通・専門両課程間のギャップとその間に生じる諸問題の解決を目指すなかで、かつての総合制高校の理念型を追うような実験的高校が生まれてきていたが、文部省も、単位制高校の設置などとともに、総合学科の導入を考えるようになったわけである。」

★1969年-生まれ。→◆コギャル◆援助交際

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新学力観

本誌1994年版より収録。以下、

「 1989 (平成1) 年に幼稚園教育要領、小学校・中学校・高校の学習指導要領が改訂され、90年以降、順次実施されて、94年度から高校の学習指導要領も実施段階となった。この新学習指導要領に示される学力観は、戦後の指導要領によって推進されてきた学力観の転換を求めており、入試のあり方や学校制度の改革にも大きな影響を及ぼしはじめている。

「新学力観」と呼びならわされるようになったこの新しい学力観は、日本の教育政策の新たな方向を象徴するものとして教育現場に浸透しつつあるが、教師や父母・生徒にとまどいや不安を与え、大きな論議となっている。

「新学力観」は89年の新学習指導要領の「総則」「第一 教育課程編成の一般方針」の冒頭の次のような文章によって説明されている。「学校の教育活動を進めるにあたっては、自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成を図るとともに基礎的・基本的な内容の指導を徹底し、個性を生かす教育の充実に努めなければならない」。この文章は、58 (昭和33) 年以来基本的に踏襲されてきた従来の学習指導要領にはなかったもので、今回新たに加えられた。しかもこの新指導要領が出された当時には「新しい学力観」という言い方もされていなかった。ところが91年3月に出された小・中学校の指導要録の改善に関する調査研究協力者会議の「審議のまとめ」とそれを受けた文部省の指導要録改訂の通知・通達のなかで「新学習指導要領が目指す学力観」という表現が使われ、以後学校改革を推進する中心的な理念としてあらゆる機会に「新学力観」が強調され、学校現場に急速に浸透しつつある。

「新学力観」の考え方は、従来のように知識や技能を子どもたちに共通に身につけさせることを主眼におくのではなく、「子どもが自ら考え主体的に判断し、表現したり行動できる資質や能力の育成を重視」する点に特徴があり、個性と多様性重視の学力観といえる。教師の学習指導は指導から支援へと転換され、学力の評価も「知識・理解」から「関心・意欲・態度」に重点が移されることになった。具体的には通知表の改革のなかで観点別評価が導入され、教師の観察による「関心・意欲・態度」の評価が重要視されるようになったため、とくに高校入試の調査書の作成に対して疑問や不安が出されている。

「新学力観」導入の背景には偏差値・輪切り体制による苛酷な受験戦争の緩和のねらいがあるとされる。偏差値一辺倒の一元的な競争ではなく多元的な評価にたつ入試への改革と結びついて「新学力観」が提唱されているが、現実には従来の学力競争から人格評価をからめた競争にいっそう拡大し、競争が深刻化するのではないかとの危惧もある。」

★1979年-生まれ。

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教育2002年問題=新学習指導要領

1998 (平成10) 年7月の教育課程審議会「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について」答申に基づき、2002年から完全実施される学校5日制に合わせて授業時間数が大幅に削減される。幼稚園は2000年度から、小・中学校は2002年度から、高校では2003年度から実施されるが、2000年度から移行措置がとられる。

今回の改訂は、 (1) 授業時間を年間70単位時間 (約1割) 削減する、 (2) 教育内容を約3割削減して、教育内容の厳選をはかる、 (3) 小学校3年以上のすべての学年に「総合的な学習の時間」を設け、問題解決的、探求的な学習を推進する、 (4) 小学校高学年から選択学習を導入し、また習熟度別の学級編成やチーム・ティーチングなど指導方法の弾力的運用をはかる、などの提言を具体化したものである。現場で「総合学習」の取り組みが始まっているが、高校・大学における学力低下という新たな課題も生じており、入試や学習評価をめぐる論議が活発化している。

★1986年-生まれ。

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総合学習

教科の枠をこえ特定の主題にそって総合的に学習を組織する教育課程・方法。具体的な課題や体験に即して調査や討論などの探求的な活動を発展させ、暗記中心の知育とは異なる生徒の生活や興味に根ざした学習を行うことができる。大正期自由教育のもとで合科教育・合科学習として展開された。戦後初期にも新教育の理念のもとでコア・カリキュラムが導入された。しかし、生活経験重視の学習は学力を低下させるとして、1950年代末には系統学習が強調されるようになった。87 (昭和62) 年の教育課程審議会答申で小学校低学年に生活科が導入され、96 (平成8) 年の中教審答申では「生きる力」の育成の重視、自ら主体的に学ぶ「総合的な学習」の推進が提言され、98年の教育課程審議会答申で小・中・高校に「総合的な学習の時間」を導入することが提言され、学習指導要領の改訂がなされた。問題解決的で地域の教材を活用した学習活動が奨励されている。

小・中学校では国際理解、情報、環境、福祉、健康などの課題を総合的に探求し、体験学習や地域の特色を取り入れた学習が奨励されている。時間数は小学校で3年生以上に週3時間程度、中学校で各学年週2時間程度、高校で105から210単位時間をあてることとし、すでに2000年度から移行措置による実施が始まっている。文部科学省 (文部省) は実践事例集を刊行して奨励しているが、学習の展開方法や地域との協力関係等をめぐって教師のとまどいもあり、推進態勢や方法について時間をかけた準備が必要とされている。

★1979年-生まれ。

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1968年〜学習指導要領改訂

本誌1972年版収録。「授業時数が増加する」などは、経済成長期という背景があるにせよ、今日の目からみれば隔世の感といえる。以下、

「小学校については、昭和43年7月に告示され、46年度から実施された。主な特徴として、 (1) 従来の各教科、道徳、特別教育活動、学校行事等の後二者を、特別活動とし3領域とした。 (2) 授業時数を最低時数から標準時数とした。 (3) 教育課程研究のため、に特例を設ける、等である。また社会科において神話教育の復活等で論議をよんだ。中学校については、文部省が昭和44年4月に告示し、47年度から実施される。その骨子は、 (1) 授業時数を増加したこと (1、2年時で年間70時間、3年時で35時間) 、 (2) 教育のなかに能力別指導をとりいれたこと、 (3) 法と秩序、国の安全を重視したこと、とくに、 (4) 特別活動のなかで生徒指導のあり方を細かく規定したこと、などである。」

★1957年-生まれ。

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1977年〜学習指導要領改訂

本誌1978年版収録。以下、

「◆ゆとりある教育 昭和52、53年度における学習指導要領改訂のねらいの一つ。いままでの教育が、知育偏重にかたより、つめこみ教育におちいっているとし、教育課程審議会は、51年12月の答申で「ゆとりある、しかも充実した学校生活」を具体化することを目標に、教育課程の改革を行うことを提案した。この提案は、52年以後の小・中・高校の新学習指導要領にいかされ、「ゆとりある教育」を保障するため、 (1) 知育偏重を改め人間教育や身体形成の教育を尊重する、具体的には、教材を精選し、学習の時間を減少し、ういた時間を身体形成の教育や特別活動にあてる、 (2) 学習指導要領に盛り込み、教育課程の国家基準として規定することを少なくし、教育実践に対する学校側や教師の自主性と主体性を尊重する、などの点が強調されている。しかし、学校のあり方、とくに、受験体制と国家基準としての学習指導要領をそのままにして「ゆとりある教育」を追求しても成果は期待できないのではないかという批判がある。」

★1962年-生まれ→◆アッシーくん◆おニャン子クラブ◆アーパーギャル◆プーする/プータローする

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1989年学習指導要領改訂

本誌1991年版収録。以下、

「1989 (平成1) 年3月15日文部省は、小・中・高それぞれの学校の新しい学習指導要領、および幼稚園教育要領を同時に告示した。

これら新しい学習指導要領の内容は、臨教審答申に合わせて、87年11月に教育課程審議会が示した改訂基準に全面的にそったものである。それは21世紀にむかって国際的感覚と日本人としての自覚とをもった国民の育成のために必要な、基礎学力の充実、教育の個性化、自発的主体的な態度の育成が重要であるとし、 (1) 道徳教育の一層の強化、 (2) 情報化の進展に対応できる資質の養成、 (3) 国際感覚を深めるための外国語教育の充実、 (4) 日本人としての自覚を高めるために、「日の丸」の旗を国旗として、「君が代」を国歌として指導することの徹底、 (5) 小学校低学年 (1、2年) の社会科・理科を廃止統合して生活科を新設する、 (6) 中学校における教科選択の幅を広げ、時に応じた指導方法を工夫し、習熟度別指導をすすめる、 (7) 高校の社会科を解体して、地歴科と公民科とを設置する、というものであった。幼稚園教育要領は90年4月から、小・中学校の新指導要領は、それぞれ92年、93年の4月から全面実施され、高校では94年入学者から実施されるが、いずれも90年から、いわゆる移行措置として一部が実施された。一部といっても、「道徳」と「特別活動」の時間については、新指導要領の全部 (小学校) 、ほとんど全部 (中学校) の実施が求められ、とくに、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するように指導するものとする」ことが、これに反する教職員は処分の対象とするという威圧的なコメントを添えて要求されたが、このことは、わが国の学校教育の根幹にかかわる問題をはらむものであり、教育現場からの多くの不満を噴き出させた。」

★1979年-生まれ。

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