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日本史のおさらい=「幕末のライバル対決」
執筆者 山田淳一

日本史のおさらい=「幕末のライバル対決」

島津久光

黒幕といえるためには権力を握っている必要がありますが、自分が前に出て活躍するようではいけません。その点、自分は一度も藩主にはなっていませんが薩摩藩主の父という立場を利用して藩内で絶大な権力を握っていた島津久光は黒幕役にぴったりといえます。久光は実権を握った当初、幕政改革を目指していました。14代将軍、徳川家茂のもと一橋慶喜や松平春獄を幕府の重要な役職に推薦し、徳川幕府を中心とした雄藩連合の政権を作り出そうと考えていたのです。これを文久の改革といいます。

薩摩の黒幕

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薩摩の黒幕

文久の改革は形式的にはあくまで朝廷が幕府に命令して行わせたものであって島津久光は朝廷に「このような改革をした方がいいのではないでしょうか」と提案したにすぎないのです。いくら有力外様大名の薩摩藩といえども幕府に従わなければならない立場であり、改革の提案を幕府に直接するわけには行きません。ですから先に朝廷に提案し、朝廷から幕府に命令するという形をとったのです。このとき朝廷からは大原重徳という使者が江戸に向かい、久光は警護役という名目で同行します。虎の威を借る狐ともいえるこの策戦は見事に成功し、幕政改革は一時、久光の思惑通りに進みます。しかし、将軍後見職に就いた一橋慶喜がリーダーシップを発揮できず、幕府の態度は攘夷と開国の間で右往左往します。薩摩藩でも、慶喜を後見職に推した久光に対する批判が強まり、久光は小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通といった藩の幹部に実権を渡して自らは事実上、隠居します。この後、小松や西郷、大久保らによって薩摩藩は討幕へと突き進むことになるのですが、そこに久光の陰はなく、彼が黒幕として活躍したのは文久の改革までといえます。

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土佐の容堂

黒幕対決のもう一方の雄、山内容堂の登場です。彼は安政の大獄で処罰されるまでは藩主として表舞台で頑張っていましたが、将軍継嗣問題で一橋慶喜を推していたこともあって大老井伊直弼から睨まれ、謹慎させられてしまいます。このとき隠居して藩主の地位を退きますが中央政界に対する意欲は全く衰えていませんでした。ただ、容堂の場合、徳川家に取って代わろうという野心はありませんでした。むしろ、徳川家を支えることに熱心な立場にあったために、武市半平太が率いる攘夷派の土佐勤王党を弾圧するなど、親幕府的な行動を積極的にとっていきます。そして彼が徳川家を助けるために最も活躍したのが坂本龍馬の船中八策に書かれていた大政奉還の計画を幕府に伝えたときです。容同は討幕運動がいよいよ抜き差しならなくなってきたときでも何とか徳川家が生き残る道はないかと考えていまた。そこへ、坂本龍馬が後藤象二郎を通じて大政奉還の作戦を提案してきたのです。

大政奉還の黒幕

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大政奉還の黒幕

「将軍職を朝廷へ返すことで一時的に徳川家の立場は弱くなるが、改めて朝廷のもと雄藩が力を合わせて政権を作るのであれば経験のある徳川家が他藩をまとめることになり、形は変わっても徳川が有利なことには変わりはない。」このように考えた容堂は早速幕府に大政奉還の策を伝え、それを受けた将軍慶喜が将軍職を朝廷に返上するように動いていきます。提案したのは坂本龍馬ですが、容堂の存在があってこそこの策が慶喜に伝わるのですから、山内容堂も大政奉還の黒幕の一人に数え上げられるでしょう。ただ、起死回生の一打になるはずだったこの作戦も、翌年には「王政復古の大号令」という朝廷、薩長からの反撃にあって成功しませんでした。文久の改革を成功させて幕府組織の立て直しを図った島津久光と大政奉還による徳川家存続を狙った山内容堂、さあ、どちらが幕末の黒幕役に相応しいといえるでしょうか。

土佐の容堂

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坂本龍馬のモテぶり

坂本龍馬と高杉晋作、どちらも大変モテる男でした。坂本龍馬の妻は、「お龍さん」こと楢崎龍であり、高杉晋作の妻は雅といい、防長(周防の国と長戸の国)一の美人といわれるほどきれいな人だったようです。龍馬と晋作、現代ではどちらもイイ男として有名な二人の恋愛遍歴を追ってみましょう。

まずは、坂本龍馬から。龍馬伝でも各章でヒロインが登場して物語を盛り上げていますが竜馬の初恋の人とされているのが広末涼子さんが演じた平井加尾です。彼女は土佐藩士平井収二郎の妹で龍馬から脱藩の手伝いをして欲しいと頼まれた時、山内容堂の妹の侍女として京都にいましたが、龍馬のために必要な品の準備をしていました。ただ、兄から「龍馬とは関わるな」と止められ、脱藩浪人と結婚するわけにもいかず、別れてしまいます。しかし、加尾はその後、土佐藩士の西山志澄と結婚し西山は大隈内閣で警視総監になりました。

坂本龍馬の妻

 

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坂本龍馬の妻

坂本龍馬が江戸での剣術修行中に知り合ったのがTVで貫地谷しほりさんが演じた千葉定吉の娘、佐那です。脱藩前のことですから加尾との中が深まる前のことです。この時期に、剣術の腕も見事な佐那と龍馬は婚約までしていたといわれます。龍馬も姉にあてた手紙の中で加尾よりも美人だというほどで、よほど好きだったのでしょう。しかし、剣術修行を終えて土佐に戻ると疎遠になってしまい、二人が結婚することはありませんでした。ただ、佐那の方は私こそが坂本龍馬の妻であると言いたかったのでしょう。彼女の墓には坂本龍馬室と刻まれています。

坂本龍馬が結婚した相手、それが真木よう子さんが演じた楢崎龍です。薩長同盟を締結させた後、近江屋で幕府から狙われた龍馬に危険を知らせ、二人で薩摩藩邸に匿われ、そこで祝言、そして薩摩まで逃避行ならぬ新婚旅行に出かけています。その他にも蒼井優さんが演じる長崎の芸妓、お元など数人の女性との関係が噂されています。

坂本龍馬のモテぶり

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高杉晋作のモテぶり

坂本龍馬と高杉晋作、どちらも多くの女性から愛された維新志士ですが、さあ、どちらがモテる男だったといえるでしょうか。

高杉晋作もイイ男としてよく名前があがります。意外に硬派で20歳の頃、本人は30歳になるまでは結婚しないと言っていました。しかし、父親の勧めもあり防長で一番美人だといわれた雅と結婚します。硬派で美人の奥さんを貰って、さぞ幸せな家庭生活を送ったんだろうと思いそうなところですがとんでもありません。幕末の命がけの駆け引きが続く状況で、憂さ晴らしとばかりに高杉は遊興にも金を使います。それも、藩から金を出させて遊ぶのです。その中で出会った女性がおうのでした。おっとりとした性格だったと言われていますが、緊張感のある生活の中でほっとできる相手が欲しかったのかもしれません。その「おうの」を相手に詠んだどどいつが有名な「三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい」です。三千世界とは仏教で世界中を意味し、うるさく鳴いている世界中の鴉を殺してしまって、遅くまで君とゆっくり寝ていたいと唄ったのです。妻のある身で不謹慎なと思われるかもしれませんが、これだけでは終わりませんでした。→高杉晋作の妻と愛人

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高杉晋作の妻と愛人

あるとき、おうのと生活している高杉晋作の家に妻の雅が息子を連れてやってきます。普通の男ならここで右往左往してしまうところですが、高杉は「妻君まさにわが閑居に到らんとす 妾女の胸門患余りあり これより両花艶美を争う 主人手を拱いて意如何」と唄い、両手に花で困ったものだと余裕を見せています。遊べる男だけあってちょっとやそっとのことでは動じません。やはり大人物は違いますね。しかも、高杉さん、自分が肺結核で死ぬとわかり、妻には家を守って息子を一人前にするように言い残し、愛人には自分の墓の世話をして欲しいと伝えます。おうのは高杉の死後、梅処尼と名乗ってこの言いつけを守り、正妻の雅も高杉の遺言を守ると同時におうのとも親しく付き合います。高杉が生きていたときからおうのは雅のことを姉のように慕っており、雅も夫の愛人というよりも妹に接するような態度でいたようです。雅がよほどできた奥さんだったのでしょう。→坂本龍馬のモテぶり

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大久保利通と伊藤博文

大久保利通と伊藤博文、大久保は日本最高権力機関の内務省のボスである内務卿になった人物であり、伊藤はご存じ、日本の初代内閣総理大臣です。権力の座に上り詰めた二人ですからただ優秀であるだけでなく、出世上手な面ももっています。この二人の出世への意欲、手腕を比べてみることにしましょう。

まずは大久保利通です。威厳のある、あの髭の長い写真からは想像しづらいかもしれませんが彼は機を見るに敏なタイプでした。つまり、自分がついて行くべき人間をその時の状況にあわせて乗り換えることができる人でした。

薩摩藩に仕えていた大久保は父親と共に島津斉彬の側についていましたが、斉彬の死後は迷うことなく弟の島津久光につきます。これは斉彬への忠誠から久光に対する不満を公然と唱えていた西郷とは大きな違いです。久光に気に入られるために久光が好んでいた囲碁を習い始めたとまでいわれていますが、そこまで忠義を尽くしていたかに見える久光に対しても用済みと見れば迷わず切り捨てます。明治維新期には藩や、藩主の地位を廃止するように働きかけて(廃藩置県)、自分が薩摩藩、つまり久光の顔色を窺うことなく活動できるようにしたのです。

伊藤博文と大久保利通

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伊藤博文と大久保利通

「乗り換え」という点では伊藤博文も負けてはいません。長州藩士時代にまずは高杉晋作について奇兵隊に参加します。しかし、兄貴分の高杉が病気で死亡すると今度は藩の大黒柱ともいえる桂小五郎(木戸孝允)について行きます。しかし、明治政府内において木戸と大久保の関係がこじれてくると伊藤の立ち位置も微妙になってきます。藩閥という意味であれば同じ藩の大先輩である木戸についていくところかもしれませんが、伊藤はは二人の力関係を読み取り、木戸から離れて大久保につきました。どちらも勝負どころでこれまでの恩やしがらみといったものを切り捨ててボスを乗り換えてきたといえます。それと関係があるのかないのか、残念ながら二人ともいい死に方をしたとはいえませんが。大久保と伊藤、さあ、どちらがより出世上手だったといえるでしょうか。

大久保利通と伊藤博文

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岡田以蔵と沖田総司

沖田総司と岡田以蔵、どちらも幕末において有名な剣士です。沖田は新選組の一番隊隊長として、岡田は土佐勤王党の暗殺専門として活躍していました。新選組は京都の治安維持が目的ですが、薩長を初めとする反幕府派の藩士を捕縛、場合によっては斬り殺しても構わないとされていましたから、人斬りという点では二人は同じだったといえます。ここでは、どちらが最強の殺し屋だったのか比べてみることにしましょう。

岡田は武市半平太に腕を見込まれ、江戸の三大道場の一つ、桃井道場で剣術を学び、沖田は試衛館で天然理心流を学びました。活動期間という点では沖田が1863年から1867年、以蔵が1862年から1863年と沖田のほうが長く、また仕留めた人数でも圧倒的に沖田のほうが勝っていました。

沖田総司と岡田以蔵

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沖田総司と岡田以蔵

沖田の場合は幕府公認のもとで京都の治安維持を目的に取締りを行っているのですから、ある意味公然と人が斬れますが、岡田の場合はそうはいきません。彼の仕事は土佐勤王党の活動の障害になるもの、開国賛成派の暗殺でした。したがって、対象を確実に殺す必要があるのと同時に人目につかないように行わなければなりませんでした。また、殺し方も沖田が鮮やかに剣を振るうのに対して、岡田は剣を振るうとは限りませんでした。岡田が相手の首を後ろから布で締め上げているうちに仲間が前からズブリと刺すというように仕事も泥臭いものでした。沖田の剣が自分が死地に飛び込むことを恐れない決死の剣であったならば、岡田は相手を確実に殺すという点で必殺の心構えであったといえるでしょう。「決死」対「必殺」、さあ、どちらが幕末最強の殺し屋だったといえるでしょうか。

岡田以蔵と沖田総司

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