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ビール誕生/幕末から泡沫へ
執筆者 山田淳一

ビール誕生/幕末から泡沫へ

ビールの登場

日本にビールが入ってきたのは今から約400年前、1613年に長崎県の平戸市に持ち込まれたのが初めだとされています。その後1724年、八代将軍、徳川吉宗の治世にオランダの使節団が江戸にやってきた際に将軍に献上されます。当時も今と同様に好んで飲まれていたのかというとそうではありませんでした。学者達の間では西洋の文化に触れるため、いわば研究の一環として飲まれておりその評判は「まずい、味わいがなくて苦いだけ」というものでした。日本で鎖国政策がとられる一歩手前に入ってきたビールですが江戸時代、町民が「今日も暑いねぇ」などといってグビッと飲むという光景は残念ながらなかったようです。しかし、江戸初期には流行らなかったものの、ビールは幕末になって再びその姿を現します。

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ビールの醸造

1812年、日本で始めてビールが造られます。長崎の出島でオランダ商館長のヘンドリクスがビールの醸造を始めました。動機は祖国の飲み物を日本でも気軽に飲みたい、といったところでしょうか。ペリー来航の際にも将軍にビールが献上され徐々にではありましたがビールはその存在感を増していくことになります。江戸時代の学者達に「まずい、苦い」と酷評されたビールも福沢諭吉によって名誉を回復します。福沢は自身の著書の中で「苦いのだが人々が打ち解けて話すきっかけになるものであり、この苦味を好む人もいる」と紹介したのです。醸造技術の進歩もあったのでしょうが、ビールという飲み物だけがやってきた江戸時代に比べ、開国し、西洋文化が大量に国内にあふれるようになった明治時代のほうがビールも受け入れられやすくなったということでしょう。また、食文化の変化もビールが流行るきっかけになりました。牛肉や豚肉が一般的に食べられるようになるとビールもこれに合わせて好んで飲まれるようになったのです。

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ジャパンブルワリー

キリンビールといえば今でもビール業界で1、2を争う大手ビール会社ですがその始まりは明治時代にさかのぼります。明治3年(1870年)、横浜にアメリカ人のウィリアム・コープランドが「スプリング・バレー・ブルワリー」を設立します。これが大衆的に販売することを目的とした日本初のビール会社でした。日本国内の外国人のみを対象とするのではなく日本人も販売対象としたこのビールは質の良さが評判となって販路を拡大します。しかし会社の成長と共に経営陣の対立が激しくなったことが原因で巨額の赤字を負ってしまいます。倒産の危機を迎えていたスプリングバレーブルワリーは1885年、三菱財閥の岩崎弥之助らの出資により新会社「ジャパンブルワリー」として出発します。当時、三菱の顧問になっていたグラバーが岩崎に助言したのが原因だといわれています。グラバー自身は幕末維新期の内戦の長期化を見込んで武器・弾薬の大量購入、販売を改革しましたが、予想よりも早く戦争が終結したために改革は頓挫、資金の回収もできずに自らの会社をたたまなければなりませんでした。スプリングバレーブルワリーは経営陣の対立に問題はあったものの会社としては見込みのあるものだったので、これを潰すには惜しいと思ったのでしょう。

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麒麟ビール

ジャパンブルワリーとして、岩崎弥之助らの出資により再出発したこのビール会社は1888年「麒麟ビール」を発売します。これが商品としてのキリンビールの始まりで、おなじみの「キリンのラベル」は翌年、1889年から使用されるようになりました。そして1907年、ジャパンブルワリーは「キリンビール」に組織、経営が引き継がれることになります。

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札幌麦酒製造所

サッポロビールは元々、官営のビール工場でした。明治になりビールが日本国内で流行りだすと殖産興業の一環として政府が日本人の手でビールをつくりたいと考えるようになりました。明治初期、岩倉使節団は訪欧の際にビールの製造過程を見学し何とか日本でも同じような設備を整えてビールの製造、販売ができないだろうかと考えました。そこでつくられたのが北海道開拓史札幌麦酒製造所でした。ずらっと漢字が並んで見づらいですが要は北海道の開発機関であった開拓史にビール工場をつくらせたということです。官営のビール工場は他にもいくつかありましたが販売までこぎつけることができたのは札幌の工場だけでした。その理由は北海道の気候にあります。醸造過程で温度を摂氏10度以下に保ち続けなければなりませんでしたが冷却技術がまだ未熟な当時、北海道の気候を利用して冬の間に大量の氷を川や湖から切り出し、保管することで暑い夏にも対処していたのでした。

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札幌麦酒会社

莫大な施設投資によってできた北海道開拓史の札幌麦酒製造所でしたが残念ながら軌道に乗らず、十分な成果を得ることがないまま1886年、官有物払い下げによって民間の大倉組の手に渡ります。そして1888年、札幌麦酒会社が設立されますが、これが今のサッポロビールの始まりでした。

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酒税

ビールの話をする時に切っても切れないのが税金の話です。ビールに対する酒税は現代に至るまでビールの味そのものに非常に強い影響を与えているのです。

ビールそのものは明治初期から盛んに製造されていましたが、課税されるようになったのは1901年のことでした。中国国内の排外運動である義和団事変が起きた際に、鎮圧のため列強と共に日本も出兵しますが軍備の増強の必要性を感じた政府は新たな財源としてビールに対する課税を考えます。日清戦争、義和団事変を経て、軍事予算の拡大が続くなか、新たな財源を求めたわけですがもちろん抵抗がなかったわけではありません。地租の増税に比べて抵抗が小さかったとも言われていますが、当然、ビール業界からの反発はありました。そこで政府はそれまで稲作農家の間で自由につくられていたどぶろく(米を原料とする濁酒)の製造を禁止することで醸造業者の理解を得ようとしました。つまり、それまで庶民の酒の代表格であり、しかも無税であった「どぶろく」を製造禁止にすることでビールなどの他の酒類の売上げを増やし、そのかわりに増税に協力してもらおうという業界保護をセットにした増税策をとったのです。

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どぶろくとビール

20世紀はじめの日本、ビールも立派に課税対象の仲間入りを果たすようになるのですが、それなら「どぶろく」を課税対象にすればよかったのではないか、もしくは清酒の税率をもっと上げればよかったのではないかなどさまざまな疑問が起こります。どぶろくでは製造の実態を捉えて税金を徴収するのが難しい、清酒の税率だけ突出して高くなると業界からの強い反発がありうるなどさまざまな理由が考えられますが、この時期どうしても「ビール」に課税する必要があったのです。消費量を考えてみてください、自分が家で酒を飲むときに日本酒とビールならどちらが量を多く飲めるでしょうか。風呂上りに一杯、飯の前に一杯、テレビを見ながらつまみと一緒に一杯、日本酒に比べてアルコール度数の低いビールの方が圧倒的に多く飲めます。そこが政府がビールに課税した理由であり、ビールへの課税は酒税の中心として現在まで続くことになります。

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大日本麦酒

キリン、サッポロの前身を紹介したのですから、アサヒやサントリーについても触れないわけにはいきません。アサヒは1889年に大阪麦酒株式会社としてスタートし、サントリーは1928年、日英醸造という醸造会社を買収して一時的にビール業界に参入します。しかし、サントリーは1934年には工場を売却して撤退します。また酒税法による規模の制限もあり中小系ビールメーカーは姿を消して業界の寡占化は進みます。当時の日本麦酒会社(エビスビールを販売)もそのひとつで、大手メーカーに押され、経営的に苦しくなったところを政府へ根回しによって、大阪麦酒(現アサヒ)、札幌麦酒(現サッポロ)、日本麦酒による三社統合を勧告させることにより、大日本麦酒株式会社の設立に成功しました。戦前の日本のビール業界はキリンと大日本麦酒の二社によって支配されますが、戦後の財閥解体によって大日本麦酒は現在のアサヒビールとサッポロビールに分割されます。後にサントリーが再び参入することで4大メーカーががもう一度出揃うことになるのですが戦後、「日本のビール」は世界のビールとは異なる独自路線を進むことになります。

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ビール業界の寡占

ビール業界は大手ビールメーカーにより寡占状態にありましたが、それには規模制限という理由がありました。酒税法では1994年まで年間製造量が2000キロリットル以上でなければならない定め(沖縄は特区として例外)があり、中小メーカーではとても参入することができませんでした。つまり、ビールへの課税の代わりに規模に制限を設けることでメーカーとして保護を受けていました。

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余剰米とビール

日本のビール業界は、余剰米の受け入れ先としてもあてにされていたのです。戦後しばらくして大量の米が余るようになった日本では余剰米の消化先の一つとしてビール業界が注目されます。しかし、ビールの本場であるドイツではビールと名乗るには水と麦芽とホッブのみを原料としなければなりません。つまり、ドイツ流で言えば米を原料としてしまうとビールを名乗れなくなってしまうのです。それならば無理にビールを名乗らなくても別の商品名で売ればいいではないかということになりますが、やはりそれまでに培ったビールのイメージを捨てるわけには行かず、酒税法でビールの定義を定めることにより、米を原料とした場合でもビールを名乗れるようにしたのです。しかし、技術力というか発想の転換というか、それならばということでビール業界では米を原料としたビールの開発に力を要れ、特にキリンのラガービールは「味わい深い、旨みがある」という評判を得るようになります。この場合の味わい、旨みとはビール本来の特性というよりも、米に含まれるたんぱく質がアミノ酸に分解されたことによるものが大きいと考えられますが、ともかく日本のビールは「グローバルスタンダード」とは異なる新しいビールとしての道を歩むことになります。

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バブル期のビール

ビールの泡とバブル期をかけてみましたが、まさにバブル期にビール業界は多様性を迎えることになります。70年代から80年代半ばまでキリンが一党支配体制(シェア60%を越し、70%に迫る勢い)を続けていましたが、そこにアサヒが「待った」をかけます。それまでのビールといえばキリンビールが定番でしたがアサヒがスーパードライを生産したことで急速に売上げを伸ばします。スーパードライはキレ、爽快感を売りにしましたが、味だけでなく、あのメタリックな缶(ザ・アルミともいえる)が強烈な印象を与えました。CMでもスポーツのシーンにビールが出てくるくらいで、まるでスポーツ飲料かと思われるぐらいに爽やかさを強調します。これが当たってそれまでのキリン一党支配からキリン、アサヒの二強時代へと突入します。

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地ビール解禁

1994年には酒税法の改正により製造規模の制限が大幅に緩和されました。これにより中小メーカーが大量に参入し、地ビールブームが沸き起こります。しかし、すでに大手メーカーに独占されていた市場では思うように定着しませんでした。ところが、この酒税法改正による「地ビール解禁」が大手メーカーを刺激することになります。これまでビールに対する高い税率を受け入れてきたのは、規模の制限を設けることで業界を寡占状態にしてきたとの引き換えだったわけで、保護状態を事実上なくすというのであればメーカーとしても無理に高い税を受け入れる理由はなくなるのです(本当に支払わされているのは国民なのですが)。そこで登場したのが発泡酒でした。

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発泡酒

安くて、似たような味であれば誰でも安い方を選びます。もちろんビールと発泡酒とでは味に違いはありますが、企業努力により各社、ビールに近い味の発泡酒の製造に力を入れます。こうなると政府も発泡酒への課税の強化を始めますが今度は第三のビールを製造することになり、イタチごっこになります。また、本家ビールでもアサヒのスーパードライに続き、サントリーが天然水仕込を売りにしたダイナミックを発売し、キリンでも一番絞りを売り出すことで逆襲に転じ、各社さまざまな企業努力を重ねて業界は活性化を帯びます。しかし、第三のビールの売上げは不況と共に伸び、ある意味皮肉な状況を生んでいます。それは以前は「豆をつまみにビールを飲む」上京だったのが「麦をつまみにビールを飲む」状況になってしまっていることです。

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第三のビール

第三のビールは原料にえんどう豆や大豆が使われます。ビールとして課税されることを避けるためですが本来であれば栄養価の高い豆はビールのつまみとして食べる方が体に良く、また満足感も得られるものなのですがこれらがビールの原料になるのはつまみが飲み物になってしまったともいえるでしょう。本家ビールへの課税率が高く、毎日一本のビールが気楽に飲めなくなってしまった日本ではお笑い芸人の「塩をつまみに」第三のビールを飲むというのがネタでなく常態化しつつあるともいえます。江戸時代に日本に登場し、幕末維新を経て国民酒となったビールですが、余剰米や課税などさまざまな政治的事情を抱えて現代に至った別の意味でもほろ苦い飲み物なのです。

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