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「龍馬伝」のために知っておきたい用語集
執筆者 山田淳一

「龍馬伝」のために知っておきたい用語集

武市半平太

1829年に生まれ、土佐の郷士であった武市は剣術に優れ20歳の時に高知城下で道場を開きます。道場主であるだけでなく藩内各地でも指導に当たるほどの腕で28歳の時には江戸の三大道場の一つ桃井春蔵の道場の塾頭までつとめます。剣だけでも十分やっていけたのですが、ときは幕末まさに開国か攘夷かで世論が真っ二つに割れているころです。武市もこの黒船フィーバーにあてられ門下生の岡田以蔵らを連れて武者修行をかねて中国、九州と各地をまわって状況を視察します。その後再び江戸に上って長州の桂小五郎や久坂玄瑞らと熱心に議論を交わし尊皇攘夷を掲げるようになります。藩内で土佐勤王党を結成するとそれまで自分たちを下士として蔑んできた藩の幹部(上士)たちを一掃して権力を握ります。武市の思想は「一藩勤王」であり土佐藩が一つにまとまって攘夷運動をすることを目指していました。その為に自分たちの邪魔をするなら藩の団結を妨害するものとして抹殺していきます。藩の実力者(山内容堂は藩主でしたが隠居後も実権を握っていました)、山内容堂の側近の吉田東洋も開国派はけしからんとして土佐勤王党に暗殺されます。しかし絶好調を極めた土佐勤王党も尊皇攘夷の旗頭、1863年に長州藩から追放されるとそれまでの要人暗殺が咎められ始めてついには武市まで捕まってしまいます。すぐに処刑されたのかと思いきや約二年も投獄生活を送らされた上に切腹を申し付けられたのでした。

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土佐勤王党

武市半平太が攘夷を実現するために土佐で結成した集団です。一時は200名近くまで党員数が増大し、1862年藩政を握っていた吉田東洋を暗殺することにより藩の実権を握ります。翌1863年には藩主に従い、武市をはじめとする勤王党のメンバーが京都に上り、三条実美らが江戸に勅旨として尊皇攘夷を促しに言った時もこれについていきます。下士が多くを占め、他には地下浪人や農民で構成されていた勤王党は天皇の使いとして江戸に乗り込むことは大変名誉なことでした。長州の尊王攘夷運動に負けじと結成された勤王党ですがこの時点での活躍は長州に勝るとも劣らない活躍ぶりでした。しかし、自分たちに反対するものは有無を言わさず始末するという過激な一面も持っていました。結成初期には攘夷に賛同して参加していた坂本龍馬もこれが理由で勤王党と距離を置くようになります。絶好調だったのも束の間、1863年に長州藩が京都から追放されると土佐勤王党も勢いを失います。幹部が次々と逮捕され山内容堂から解散を言い渡されてしまいます。リーダーである武市が捕まった時点で勤王党は事実上の解散状態になったといえますが後に勤王党員であった坂本龍馬や中岡慎太郎が大政奉還を実現させることで土佐勤王党の精神も実現されたといえるでしょう。

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岡田以蔵(おかだ・いぞう)

人斬り以蔵で有名な岡田以蔵です。彼も土佐の下士であり武市や坂本よりもずっと下、岩崎弥太郎と同じような境遇だったともいわれています。下級武士となると衣食住すべてに困るありさまで極貧状態でした。なかでも最も階級が低い武士などは着るものは紙衣(かみこ)の衣服だったといいます。厚紙を柿の渋で浸してなめしたものを何枚も重ねて縫い合わせた服です。紙そのものよりは強度はありますが下級武士の生活の苦しさが伺えます。以蔵はこのような極貧状態から脱出するべく必死であがいたのです。彼は武市半平太に剣の才能を見込まれて弟子になります。武市は土佐勤王党を結成して一藩勤王を唱えていました。土佐の下級武士たちが集まって熱っぽく尊王攘夷を語る様子は以蔵にも影響を与えたのは間違いないでしょう。自分に期待してくれている武市に応えたい気持ちとこの貧しい状態から脱出したいという切実な願望が以蔵を尊王攘夷へと突き動かしていきます。以蔵は武市につき従って九州、中国地方や江戸へ行きました。武市が桂や高杉、勝に出会って自分も行動を起こしたいと願うようになると同時に以蔵も武市のために役に立ちたいと考えます。

安政の大獄で土佐の藩主が交代したことにより武市の率いる土佐勤王党は藩の実権を握り、藩主の護衛の名目で京都へ上ります。もちろん以蔵も同行します。しかし、武市が以蔵に与えたのは勤王党の裏の部分、攘夷に反対する者たちの暗殺でした。以蔵は武市の為、そして極貧状態から脱出するためならと必死で仕事をこなします。正面から戦う剣道と暗殺ではやり方が違いますが、もともと剣術に優れていた以蔵でしたから上達が早く、土佐藩をはじめ薩摩や長州、さらに他の藩からも暗殺の依頼がやってきます。これを以蔵は常にチームでこなしていましたが、その活躍も一年で終焉を迎えます。土佐の前藩主、山内容堂が藩政に復帰すると勤王党は解散させられ以蔵も捕われます。そして2年以上にわたる拷問を受けた後に斬首されてしまうのです。

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山内容堂

とにかく酒好き女好きで有名な藩主です。それならきっとダメなやつだろうと思うのが普通ですが、この人、かなりの名君でもありました。もともとは山内家といっても分家の生まれで本家を家督相続をするような立場にはありませんでした。ところが13代、14代と藩主が相次いで急死したために藩主の座が巡ってきます。それまではどうせ、俺なんかたいしたことないんだから酒でも飲んで詩でも詠んでテキトーに遊んで暮らそう日々自堕落な生活を送っていたようですが、いざ藩主となるとそうは行きません。必死で勉強して1853年、ペリー来航の年には開国反対の意見書を提出します。しかし、もともと幕府を支持していましたから幕府が開国を決定すればそれに従い、藩内でも吉田東洋など開国派の人間を重用します。安政の大獄により蟄居を命じられますが大老井伊直弼が暗殺されると謹慎も解かれ、1862年には幕政改革に関わります。討幕運動が盛んになっても最後まで幕府に味方し、坂本龍馬の提案で大政奉還を将軍慶喜に勧めますが、薩摩長州の強硬派によって武力討幕が実現されてしまいます。王政復古の大号令が発せられた時は酔っていたのか「薩摩や長州は天皇が幼いことを利用して好き放題するつもりか」と公家や薩長の幹部が集まっていた小御所会議で発言します。これが天皇の対する不敬な発言だとして咎められてしまい、以後はやむなく武力討幕を黙認するようになります。維新後も内国事務総裁など新政府の役職を歴任しますが、飲みすぎがたたったのか45歳で亡くなってしまいます。

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新選組

池田屋事件で活躍するまでは京都の人々にとって新選組は怪しい浪士の集団でした。1863年、清河八郎が幕府に提案したことから将軍の警護と京都の治安維持を目的として浪士組が結成されます。250人近くいましたが農民や町人も多く、ゴザをしょっている者たちまでいて侍というよりも食い詰めた浮浪の集団といった有り様でした。しかし、これだけの人数を集めて京都に来たにもかかわらず発起人の清河が「我々の真の狙いは尊皇攘夷の急先鋒になることだ」といって朝廷に願い出て攘夷の命令を出してもらいます。幕府にとっては寝耳に水の話で慌てて清河を江戸に呼び戻します。ここで、芹沢や近藤たちは「我々は将軍警護のために来たのだから何の役目も果たさずここを離れるわけには行かない」と言って清河の浪士組と分かれたのが新選組誕生の瞬間です。当初は十数人の部隊で彼らは寺や民家を仮の住まいにして将軍警備の任務につこうとします。浪士組に参加してから一月あまりで会津藩預かりの身分になります。しかし、最初のころは隊の中にも治安維持どころか無差別に暗殺したがるような者もいて、放っておけば自分たちがお尋ね者になりかねない危うさがありました。

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池田屋事件

1864年4月22日、京都の松原通りで火事が起こります。新選組が火事場にいた不審な浪士を捕えて尋問すると、「八月十八日の政変」で京都を追われた長州の人間が250人程京都に潜伏していることが判明しました。不穏な空気を感じた局長の近藤勇は隊士を使い聞き込みを開始します。すると商人を装った近江藩士、古高俊太郎の屋敷から武器や火薬が大量に発見されました。これはなんだと古高を拷問にかけて自白させてみると6月20日前後の風の強い日に御所の風上から日を放ち、混乱に乗じて松平容保以下の大名を殺害して公武合体派の公家を捕えるという恐ろしい計画が発覚します。近藤はすぐにこれを京都守護職の松平容保に知らせ容保は兵3000人を動員して京都市中を包囲することを決めます。しかし、予想以上に時間がかかり、近藤は隊士30人余りを連れて先に計画の現場に乗り込むことを決めます。

当時、まだ新選組は無名で幕府からも臨時雇いの扱いしかされていませんでした。ここで命を張って京都を守れば新選組の知名度も上がり、幕府、朝廷に自分達の実力を思い知らせることができます。これはチャンスだと思った近藤は少人数ではありましたが新選組の手で事件を解決しようと決意しました。町の茶屋や商家を一軒ずつ調べていき、浪士たちが集まっている場所を発見します。近藤は副長の土方と隊を別にして行動していたので自分を含めわずか4人で20数名が集まっている池田屋の二階の座敷に切り込みます。激しい斬りあいになりますが、土方隊も遅れて到着し浪士たちを壊滅状態に追い込みます。その間、容保が動員した3000人の兵は池田屋を遠巻きに見守るばかりで逃げた浪士の市中掃討は行ったものの新選組の活躍ばかりが目立つ事件になりました。

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お龍

父親は京都の開業医であり、それなりの資産も持っている家だったのですが勤皇道楽であり、安政の大獄で捕まって獄死してしまいます。母親と子供5人(二男三女)の生活は非常に苦しく、持っていた着物を売って生活の足しにしていました。しかし、非常に度胸のある女性であるときなど騙されて遊郭に売られてしまった妹二人を助けるために懐に短剣を忍ばせて決死の覚悟で妹達を助けに行ったこともありました。坂本龍馬とであったのはどうやらこの時期のようです。彼女と親しくなった龍馬はお龍を寺田屋に預け、お龍の妹と弟を神戸の海軍操練所に、母親を尼寺に預けることでお龍の家族が安心して暮らせるように取り計らいます。預けられた先の寺田屋でお龍は女将のお登勢の養女となって名前をお春と改めます。そして龍馬付きの女中となった彼女は自分や家族の恩人である龍馬のために尽くそうと決心します。薩長同盟の締結に成功した龍馬は寺田屋に戻ってくつろいだ後に床につきます。しかし寺田屋は百名以上の幕吏に取り囲まれてしまいます。一階の湯船に使っていたお龍はこれに気づき、裸のまますっ飛んで二階の龍馬のところへと知らせに行きます。そのお陰で龍馬は手に怪我をしながらもその場の脱出に成功します。このあと薩摩藩に保護され、西郷を媒酌人として龍馬とお龍は結婚します。そのまま二人で京都を出発して船で九州に行ったことから日本初の新婚旅行ともいわれています。

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薩長同盟

四国連合艦隊下関砲撃事件でこてんぱんにされた長州は攘夷が無理だと実感します。そしてそれより少し前、薩摩藩でも江戸から帰る藩の行列をイギリス人が横切ったということで藩士が彼らを殺傷する事件が起きます(生麦事件)。これがきっかけで薩摩もイギリスと戦争になり、市街地が一部焼け野原になるなどの被害を被ります。薩摩もイギリス軍艦に相当のダメージを与えるなど善戦しましたが、この戦争でやはり攘夷は難しいと感じたのでした。

注意してみると薩英戦争は1863年の7月に起きていて、長州が京都から追い出された「八月十八日の政変」は1863年の8月に起きているのです。つまり、長州よりも先に外国と戦争をしてその脅威を実感した薩摩が攘夷路線を変更して幕府と手を組んで長州を出し抜いたと見ることもできます。しかし、長州も薩摩や幕府、外国にやられたままでは終われません。幕府による長州征討が長州の恭順で一段落すると、幕府軍が引き返すのを待って藩内の攘夷派が再び息を吹き返します。高杉晋作や桂小五郎、そして後の初代総理大臣である伊藤博文がそのメンバーですが彼らは藩の主導権を握ると今度は攘夷から倒幕へと方向転換させます。冒頭でも述べたように攘夷は現実的ではないと考えたのです。そして犬猿の中とも言われる薩摩と同盟を結びます。これから幕府に対して正面切って戦いを仕掛けるのに背後を強敵に狙われたままではまずい、後顧の憂いを絶つということです。もちろん、憎んでも憎み足りない薩摩と仲良くなんかできるかといった意見も長州藩内では少なくなかったのですが坂本龍馬や中岡慎太郎ら土佐脱藩浪士の仲立ちによって同盟が成立します。しかし、まだ幕府と全面対決というわけにはいかないのでこの同盟は公然としたものではなくいわゆる秘密同盟でした。

犬猿の仲の二藩を坂本が結びつけた秘策は武器の密輸入です。薩摩がイギリスから密輸入した武器を坂本の海援隊(貿易会社)で長州に届ける。これで長州は武器の不足を解消できる、といった機転の利いた作戦で幕府に対抗する勢力ができつつあったのです。

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第二次長州征討

薩摩と長州の間で密かに同盟が結ばれたなどまったく知らない幕府は第二次長州征討を計画します。前回は詫びてきたから長州を許したものの、その後、性懲りも無く長州藩では攘夷派が息を吹き返しつつあるというので、今度こそ潰してしまおうと意気込んでいました。本来なら御三家や譜代の家臣に総督を任せるところ、将軍である家茂自ら大阪までやってくるという気合のいれようでした。ところがなんと幕府軍は長州軍に連戦連敗と散々な目にあいます。幕府軍の敗北の理由として第一に挙げられるのが兵器の差です。当時、薩摩を通してイギリスから最新兵器を輸入していた長州に比べ、幕府の装備は旧式のものでした。さらに、薩摩藩が長州征討に参戦しなかったことが長州が負けなかった理由です。表向きはまだ幕府に対決姿勢を表していなかった薩摩ですが、長州征討には同意せず結果として長州を助ける形になりました。もちろん、薩長同盟があったためですがそれなら堂々と長州の味方をすればいいじゃないかとも思えます。しかし、そこが薩摩のずるい、もしくは賢いところなのです。初めは攘夷運動で長州と共に盛り上がるが必要とあれば長州を切って(八月十八日の政変)幕府と手を結ぶ。そして幕府の衰退が明らかだと判断すれば再び長州と手を結び(薩長同盟)、しかし確実に勝てると判断できるまでは表立って長州の援護はしない(第二次長州征討)。一見すると薩摩は何がしたいんだ?と言いたくなりそうですが、要は「尊皇攘夷だろうが幕府中心だろうが俺が目立たなきゃ嫌だ」という俺様タイプの連中だと考えれば納得もできます。結局、第二次長州征討は家茂が病死したこともあり幕府側の敗北のまま失敗に終わります。たった一つの藩さえねじ伏せることができなかった事実は幕府の権威失墜につながります。加えて、開国以来の物価高、物資の不足などに対して全国から不満の声が上がり百姓一揆打や打ちこわしが相次ぎ、武家や公家以外にも幕末の雰囲気が浸透していきます。

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勝麟太郎

1823年、旗本の勝家に生まれた勝海舟は幼名は麟太郎といい、蘭学を熱心に学びます。本名は安芳(やすよし)で海舟は号です。本人は安芳は「あほう」とも読めるなどと冗談で言ってます。麟太郎に転機が訪れたのはペリー来航の1853年です。太平の世なら、麟太郎もそのまま幕府の下級役人として一生を終えたのかもしれませんが黒船来航で世の中が大騒ぎになります。強固に開国を要求するペリーに対し、幕府は一年後の返答を約束します。しかし幕府だけで考えても名案が浮かびません。そこで老中の阿部が町民から大名、朝廷まで広く意見を募集した時に「これはチャンス」と麟太郎も意見書を提出します。今はおとなしく開国し、外国の文化を吸収して力を蓄えるべきというのが意見書の趣旨ですが、これが阿部の目にとまり、その後麟太郎も海軍出世コースを歩むことになります。

幕府の海防計画の立案に加わり自分も1860年、海軍伝習生として長崎の海軍操練所で学びます。しかもこのときはオランダ語が話せると言うのでオランダ人教官の通訳の役も引き受け、傍目には教官兼務の学生でした。この年、海軍伝習所の練習船である咸臨丸でアメリカまで渡り、麟太郎もそのことを自慢気に語っていますが実際には、酔うわ吐くわの惨憺たる有様だったみたいです。しかし、自ら海軍伝習生として学び、これからの日本に海軍は不可欠だと感じた麟太郎は自分でも開閉要請のための塾を開き世界と渡り合える海軍をつくろうとするようになります。

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海軍操練所

1864年、軍艦奉行の勝麟太郎が将軍に進言して設立されたのが神戸海軍操練所です。それ以前にも幕府は長崎で海軍操練所を開いており、ここで学んだ勝が今度は責任者となって海兵を教育しようというわけです。長崎の操練所が基本的に幕臣を中心としていたのに対して神戸の操練所は諸藩から幅広く人材を募集していたのが特徴です。したがって土佐勤王党のような過激な尊皇攘夷派と呼ばれる者たちや薩摩や長州など西国出身者も多くいました。その中で坂本龍馬が塾頭となっていましたが軍艦の操縦や航海法を学んでいましたが1865年、あっけなく閉鎖されてしまいます。理由は神戸の操練所は過激な尊皇攘夷派の連中の巣窟となっているというものでした。身分や出身を問わない神戸の操練所の中では尊攘派と言われる者達もだいぶ考えを変えてきており、これは勝を嫌う幕府幹部の言いがかりだったのですが、この疑いが原因で運転資金を止められ閉鎖となります。しかし、勝が行く当てのなくなった坂本を一時、薩摩に預けることによって海軍操練所は形を変えて生きつづけます。

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亀山社中

勝麟太郎の設立した海軍操練所が形を変えたのが「亀山社中」です。亀山社中とは坂本龍馬が設立した会社で蒸気船を使って貿易、運輸業などの海運業を行う会社でした。日本の海防を目的とした海軍操練所とは趣を異にしますが船を操縦する必要があるのは変わりません。坂本をはじめとした海軍操練所の学生達が主なメンバーとなって会社を運営します。この中には後に不平等条約の改正に成功した陸奥宗光(当時は陽之助)も会社のナンバー2として居ました。

亀山社中は薩摩藩や越前藩、他に長崎の豪商から資金を調達して作られた組織で日本初のカンパニー(会社)でした。しかし、商社としての活動を続ける傍らで薩摩名義で仕入れた武器を長州に運ぶなど討幕のための活動も怠ってはいませんでした。1866年には長州征討が始まると長州側の軍艦の操縦に協力するほか、会社の船であるユニオン号で参戦します。1867年、坂本龍馬が脱藩の罪を許されて土佐藩士の地位を回復すると今度は土佐藩の援助も受け、「海から援(たす)ける」と言う意味で海援隊と名前を変えます。土佐藩の組織でありながらも超藩的性格は維持したままの組織であり航海の為に必要な学問を学びつつ、海運業を続けるというのは亀山社中の性格をそのまま引き継いでいました。

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近藤長次郎

1838年、土佐藩に生まれた長次郎は初め、名字がなく饅頭屋の息子であったことから饅頭屋長次郎と名乗ります。彼は学問に熱心で、その才が認められて山内容堂から名字帯刀を許され近藤長次郎と名乗ります。坂本龍馬と同郷で坂本が脱藩してから後、亀山社中を設立するまで坂本を支えます。長次郎はもとは饅頭屋の息子ですから商人としての知恵を駆使して亀山社中でも大活躍しました。特に1865年には京都から追放され幕府にも睨まれて弱っている長州藩に4000丁以上のピストルと蒸気船ユニオン号を長次郎の指揮で輸送します。これには長州も大喜びし、長次郎も長州藩主に拝謁するという名誉に預かったのですが、これが原因で切腹することになってしまいます。長次郎はこの時長州藩から受け取った代金を着服していた疑いがかけられました。勉強熱心だった彼はイギリス商人のグラバーにこの代金の一部を渡して商船に乗り込み、留学を計画していたようです。「こういう時は武士なら潔く切腹するものだが、お前は商人だからそんなことも出来ないだろう」と馬鹿にされた長次郎は憤慨して、同士が部屋を去った後に勢いで腹を切ってしまいました。介錯人もいなかったために、その顔は苦痛と無念で歪んでいたそうです。

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江戸時代と明治時代

いつの時代も同じなのですが、平安時代から鎌倉時代、鎌倉時代から室町時代に変わったからと言っていきなりすべてが変わるわけではありません。歴史を勉強していると〜時代といった区別をするので〜時代というとすぐにその時代のイメージが頭に思い浮かびます。でもちょっと注意してください。平安時代というと「貴族、陰陽師、源氏物語」がぱっとイメージされ鎌倉時代というと「武士、幕府」などをイメージするといってもいきなり鎌倉時代に武士が現れたわけでもなければ貴族は平安時代にしかいなかったわけでもありません。武士は平安時代に既にいましたし、貴族は鎌倉時代にも存在していました。ただ、どちらがより大きな力を持つようになったかという問題なのです。「歴史は移り変わる」とはよく言いますが、まさに徐々に変化していくものであって時代の名前は変わっても中身がいきなりガラッと変わるわけではないのです。前置きが長くなってしまいました。

本題に入りましょう。江戸時代から明治時代にかけての時代の変化にも同じことが言えます。家茂が病死した後、一橋慶喜が第15代将軍となり幕府の立て直しを図ります。この時すでに幕府は軍隊を陸軍、海軍に分けさらに国内の行政機関についても外国事務、国内事務を設けていたのです。これまでも外国奉行などの役職はありましたが老中がまず基本方針を決め、下の役職がその決定に従って細かいところを決めていくといったものでした。国内事務や外国事務はそれまでよりも役割分担を進め、それぞれの機関が決定権をもった所に違いが見られます。これは明治以降の日本の政治システムである内閣制の大元になっているとも言われています。今なら、外務省、財務省、厚生労働省などいろいろ挙げられますが当時はまだそこまで細分化されていなかったということです。さて、政策面で改革を行い、軍事面でもフランスの協力を得て軍隊の強化を図る幕府でしたが、幕府びいきの孝明天皇の死により倒幕派は勢いを増していきます。

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孝明天皇の死

孝明天皇の存命中は少なくとも政治については幕府に委任する方針がとられていました。実際のところは、天皇の外国嫌いが影響して兵庫の開港を延期するなど外交上の問題は一部ありましたが、それでも天皇としてはこれまで通り幕府中心の政治体制を容認していました。それは既に婚約していた妹の和宮をその婚約を反故にさせてまで将軍家茂に嫁がせて公武合体路線に協力したことにも表されています。ところがその孝明天皇が急死してしまいます。当時の公式の発表では痘瘡(天然痘)による死亡とされましたが、毒殺説もまことしやかに囁かれました。毒殺説の内容を紹介しましょう。

第二次長州征討で失敗した幕府はいまや権威が失墜しつつある。ここでもう一押しが必要だ。これまでは朝廷が幕府と協調路線をとってきたがその朝廷が幕府と手を切れば倒幕はいよいよ現実的なものとなる。しかし、ここで問題になるのが孝明天皇の存在だ。不満はありながらも結局は公武合体路線に同意した天皇が今になって急に幕府を見捨てるはずがない。しかし、ここは倒幕へ弾みをつける好機。ならば・・・」と考えた人物がいたのではないかというのです。

その人物とは朝廷内でも討幕派の中心的存在であった岩倉具視や薩摩の大久保利通ではないかと言われています。倒幕のための最大の障害ともいえる天皇を彼らが葬った。天皇暗殺、朝廷内の人間がそんな恐れ多いことをするのかという疑問があるのはもっともですが飛鳥時代の昔から貴族間の争いの中で暗殺が行われたことはもちろん、皇族でさえ暗殺された歴史があります。しかも時期が時期、幕府が倒されるのか存続するかの重大局面です。流れを一気に自分たちの方にと考えた討幕派の面々が天皇暗殺を計画、実行しても不思議ではありません。もちろんこの場合は井伊直弼の「病死発表」とは違い、白昼堂々行われたわけでもなく、証拠もありませんので今となっては真偽の程はわかりませんが。ともかくその後、明治天皇が14歳にして即位し、岩倉が朝廷内の意見をコントロールすることによって朝廷と幕府の間の協調路線が途絶えることになります。

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薩土盟約

薩長同盟が秘密裏に結ばれ、第二次長州征討が失敗し、孝明天皇が死亡し、いよいよ倒幕への流れが強まる中、薩摩と土佐の間で軍事同盟が成立します。これまで前藩主の山内容堂が心情的幕府派であったこともあり討幕派の薩長とは一線を画してきた土佐藩でしたが藩の首脳、後藤象二郎らの間でも「もう幕府はこれ以上もたない」という認識があり、このままでは新政権発足の際に薩長に遅れをとってしまうとの危機感がありました。そこへ土佐脱藩浪士である中岡慎太郎が自分の藩も倒幕運動に参加させて薩長に遅れを取らせまいとの思いから、薩摩と土佐の間を取り持ちます。こうして薩土盟約が成立するかに見えたのですが、ここで問題が生じます。

土佐の前藩主山内容堂がこの同盟にうんと首を盾に振らないのです。土佐は容堂が依然として実権を握っており、その容堂が「幕府あっての土佐藩なのにその土佐が幕府に刃を向けるとはあってはならない」と薩摩との軍事同盟に強硬に反対します。しかし、既に薩摩藩家老の小松帯刀や西郷吉之助(後の隆盛)と会談し、同盟を約束してしまった手前、今さら反故にはできません。そこで手を打ったのが坂本龍馬でした。薩長同盟を成立させ幕府に対する対抗勢力を作り上げた坂本の次の狙いは、徳川家に政権を返上させ有志によって議会を構成し、その議会によって政治を行っていくという議会制政治でした。坂本は船の中で語ったので船中八策と呼ばれるこの案を土佐藩士の後藤象二郎に授けることにより土佐と薩摩の同盟を成立させようとします。

どういうことかというと、船中八策の内容は前述のように徳川家に政権を返上させ議会制政治を作ることですが、この「徳川家に政権を返上させる」部分を土佐にやらせようというのです。「長州一国さえ制圧できず、朝廷からも見放された幕府にはすでに統治能力がないとも言える。このままでは討幕派の薩長と幕府の間で戦争が勃発し戦火はやがて日本中に広がるだろう。そうなれば徳川家はもちろん日本そのものがぼろぼろになってしまう。その前に土佐から徳川家に対し政権を朝廷に返上するように勧める。これこそが幕府に対する筋の通し方だ」と坂本は後藤を通じて容堂に提案します。政権返上を進めることが戦火を避けられ、しかも徳川家のためと言われれば容堂も嫌とはいえません。結局は薩土同盟の締結を認めます。薩摩側にしてみれば、当初、幕府を叩くための軍事同盟を予定していたので納得できない部分もありましたが、幕府が政権返上しないときは軍事行動に出ると言う条件で渋々ながら妥協しました。

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大政奉還

坂本龍馬→後藤象二郎→山内容堂と伝言ゲームのように伝えられた船中八策が容堂から慶喜に意見書として出されます。幕府内でも反対賛成に意見が二分され激論が交わされますが、1867年10月14日、将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上します。これを大政奉還と言います。徳川家康が将軍となり江戸に幕府を開いてから約260年間徳川家が日本の政権を担当してきましたが、15代目の慶喜にしてついに幕府が閉じられることになったのです。慶喜が大政奉還に踏み切った理由はいくつか考えられます。まず、ペリー来航以来、揺れ動き続けた幕府にはもはや日本全土をまとめるだけの権威も実力もないと考えたのではないかと思われます。「それならば、いっそのこと表向きは朝廷中心の政治体制に改め、天皇の権威の下、徳川家が主導権を握ればこれまでどおり徳川幕府は名を変えて存続できる、薩長にしても朝廷にしてもこれまで政権を担当したことなどないのだから、そんな能力もなければ覚悟もないだろう。朝廷中心だろうが雄藩連合だろうが結局は徳川中心に変わらない。」これが慶喜の真の狙いだったとも言われていますがもうひとつ、薩長に加えて土佐までが倒幕を目的とする同盟に加わわり、政権返上を拒否すれば戦火が日本全土に広まりかねないとの危機感もあったことは確かでしょう。日本が内戦状態に陥ることを避け、徳川家の権力を実質的に温存できるこの方法こそが慶喜にとっても絶妙の策だったといえます。しかも大政奉還が行われた10月14日の前日、10月13日晩に薩長に倒幕の密勅が下されていました。まだ少年ともいえる明治天皇が自分から「幕府を討て」と命令したとは考えにくいですから、この命令は討幕派の岩倉具視が出させたものと見ていいでしょう。

これを知ってか知らずか、一日違いで慶喜は大政奉還をし、朝廷もこれを受け入れます。もし、幕府内での議論が長期化すれば先に見討幕運動が表面化するところだったのでまさに間一髪と言えます。しかし、軍備を整えいよいよ幕府を武力でねじ伏せられると息巻いていた薩摩や長州にとっては納得行きません。武力討伐を旨とする過激派の不満が募り、いよいよ開戦へと向かっていきます。

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鳥羽・伏見の戦い

内戦になるのを避けたい慶喜は大政奉還を決断し、その後、朝廷の側から王政復古の大号令が発表されます。読んで字の如く、天皇中心の政治が復活すると言う意味です。これ自体は諸藩に向けて国の権力者は徳川家ではなく天皇になったのだと知らせるためのスローガンのようなものと考えていただいて構わないのですが岩倉と薩長側は何としても戦争をしたく、朝廷から徳川家に対して辞官納地の要求を出します。辞官とは当時慶喜が朝廷から与えられていた内大臣の地位を辞職すること、納地とは徳川家の領地400万石を朝廷に返上することです。辞官はともかく、納地までしてしまっては家来やその家族たちが食っていけなくなってしまいます。

こんな要求は呑めないと慶喜は京都から大阪城に移って様子見を決め込みます。しかし、薩長側も一度振り上げた拳は納められません。慶喜のいない江戸で浪士たちに薩摩を名乗らせ暴れさせます。いよいよ我慢できなくなった幕府側が薩摩藩邸を焼き討ちにして開戦の口実の出来上がりです。薩摩の挑発が成功して、ついに鳥羽伏見で旧幕府軍と薩長軍が激突します。数にして旧幕府軍が1万6000人、対する薩長軍が四千人と言われていますが4倍もの数を擁する幕府軍が敗北します。その原因として挙げられるのが武器の差です。銃は旧式で刀、槍が中心の旧幕府軍に対し、新式銃を装備していた薩長軍の方が圧倒的に有利でした。さらに、錦の御旗(官軍、天皇の軍であることの印)を薩長軍が掲げたことにより、幕府軍は意気消沈し敗走することになります。この戦争で幕府側もしくは中立の立場をとっていた諸藩も官軍の側につくようになり薩長軍が勢いを増します。それに対し、幕府側では本拠地としていた大阪城から慶喜が江戸へ秘密裏に帰還するという珍事件?が発生し、士気はますます低下してしまいます。

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江戸城無血開城

大阪から帰ってきた慶喜は上野の寛永寺に謹慎します。これは自分は天皇に逆らう気はないという恭順の意思を示すためでした。それでも徳川家を徹底的に潰したい薩長側は朝廷を通じ有栖川宮熾仁親王を総督として征討軍を江戸へ向かわせます。この有栖川宮熾仁親王、実は和宮の元婚約者なのです。公武合体の為に婚約者を奪われたのが、今度は和宮のいる江戸へ攻め込む軍の総督を命じられるとは、恨みを晴らせると意気込んだか気乗りしなかったかは定かではありませんが運命の皮肉であることは確かです。

 さて、旧幕府側はといえば、慶喜の突然の帰還もさることながら今度は官軍が江戸へ向けて出発したと聞き大騒ぎです。征討軍の進撃を中止させるために幕府側は使者を送り、官軍側・西郷隆盛、幕府側・勝麟太郎による会談が実現します。当初、進軍中止の条件として西郷は徳川家の保有する武器の接収と徳川家の存続は保証しない旨を伝えましたが、勝はこれに対し、徳川政権時代の諸藩は存続を許されているのに徳川家だけが潰されるのは理屈に合わない。どうしてもというなら持てる軍事力を総動員して戦うし、海軍を使って官軍を挟み撃ちにすると脅迫します。実は、勝は西郷に対するこの脅迫のほかにイギリス行使パークスに対して新政府に攻撃を中止するよう勧告してくれと根回しもしていました。イギリスと薩摩は薩英戦争以来、互いの実力を認め合い、イギリスは薩長の後ろ盾にもなっていました。そのイギリス公使から言われたのでは新政府軍も聞かざるを得ないだろうと言うのが勝の読みでした。実際、西郷は勝の要求を受け入れ、総攻撃の延期を働きかけると約束します。表では西郷との会談に臨みながら、裏では敵の後ろ盾であるイギリス公使まで使って巧みに交渉を進めた勝のお陰で江戸は焼け野原になることを避けられました。

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