月刊基礎知識
月刊基礎知識トップページへ バックナンバーへ
ヘリコプター・マネー? アリ
執筆者 土屋彰久

ヘリコプター・マネー? アリ

ヘリコプター・マネー論

さてそのヘリコプター・マネー論(ヘリ・マネ)ですが、私の記憶では、小泉政権下の金融危機の際に初めて聞いた感じで、当時の主唱者は植草(一秀)先生でした。あと、今の政府紙幣話の出発点としては、スティグリッツ氏の提案や榊原英資氏の主張が、デフレ脱却策として出ていました。あの金融危機というのは、今回のようにアメリカがやっちまったものではなく、小泉や竹中という手先を使って、アメリカが日本にやらせたものでしたので、「ま、この程度でいいか」というあたり、具体的には<長銀は飛ばしたけど、りそなは救った>というあたりで株価は底を打って急上昇し、収束に向かいました。植草先生は、そのりそな救済ネタでアメリカ系のヘッジファンドががっぽり稼いだことを巡って、政府主導の究極の官製インサイダー取引だと告発していたのですが、どうもそれが政府にはうるさかったようで、2004年と2006年の事件で発言力を封じられてしまいました。で、そんなこんなで、その時のヘリコプター・マネー論は、景気も上辺だけは回復して株価対策の必要もなくなったしで、沙汰止みとなりました。しかし、その後も続いたアメリカのデタラメ金融政策(というか、何でもやり放題の規制緩和)によって、今回の世界金融危機が発生し、前回の金融危機をも上回る株価の下落(度合いは上回り、数値は下回りと表現はややこしいですが、言いたいことはわかりますよね)と、それ以上の景気の急激な冷え込みに直面するに至り、いよいよ俺の出番だとばかりに、ヘリコプター、再浮上と相成った次第であります。

ページの先頭へ 戻る

ヘリ・マネ

ヘリコプター・マネー。もともと比喩的な表現なので、はっきりとした定義があるわけではありませんが、政府が裏付けなしにお金を国民全体に広くバラまく政策に対して、それ揶揄する意味合いで使われる表現です。この「裏付け」というのが、どんなもんなのか、あるいはどの程度だと「裏付けなし」となるのかという点を巡っては、立場によって分かれます。たとえば、今、話題になっている「政府紙幣」の場合、「日本政府の信用」以外に何の裏付けもないというか、要するに政府紙幣に関しては、<裏付けなし>という点で衆目は一致しています。ですから、政府紙幣に関しては、誰もが認める一点の曇りもないヘリ・マネだと言えます。これに対して前回の議論では、国債を大増刷して日銀に直接引受させろという論が主でしたので、政府紙幣に比べれば、日銀の金庫に眠る金だの為替介入で貯め込んだ外貨だのと、若干の裏付けはないわけではありません。でも、その国債がデフォルトに陥った場合、日銀は政府に強制執行かけるかわりに、自分のところで札を刷って埋め合わせることも可能です。そうすると、結果、最初の引受の際に払った金、もしくは埋め合わせのために刷った金、いずれかは裏付けなしに増刷されたことになります。そのリスク、あるいは実現可能性を考え、国債大量発行&直接引受も実質、ヘリ・マネとして扱われるのが普通です。ただし、ここまではでき方(もしくは刷り方)の話で、撒き方の条件もクリアしないとヘリ・マネとは言えません。つまり、広く国民全体に行き渡るような撒き方が必要だということです。同じ量の金でも、シャンパン・ツリーの上から注ぐのと、「花咲か」じいさんのようにバラまくのとでは、性格も効果も大きく異なります。これは、以前に説明した通りですが、このヘリ・マネに当てはめて説明するならば、シャンパン・ツリー方式だと上層が得をして下層は損をし、「花咲か」方式だと、下層が得をし上層が損をします。そのメカニズムについては、「ヘリ・マネのトレード・オフ」で。→ヘリコプター・マネー論

ページの先頭へ 戻る

直接引受

日銀による国債の直接引受は、法律(財政法5条)で原則として禁止されています。ただし、法律上も国会決議を経れば可能ですし、そもそも日銀は普段から「買いオペ」と言って、市中から国債を買い上げ、現金を供給するようなことをやっていますので、直接引受を“直接的に”禁止することには、象徴的な意味しかないという見方もあります。

ページの先頭へ 戻る

政府紙幣

貨幣法(正式名称は長い)は、政府の貨幣発行権を定めているので、法律上は最低限、国会決議が必要な直接引受と違って、政府はその気になればもっと簡単な手続きでヘリ・マネを生み出すことができます。もちろん、実際には国会決議と同等の国会多数派の容認がなければ、即、不信任決議となるようなネタですから、現実のハードルの高さは似たようなものですが。

ページの先頭へ 戻る

ヘリ・マネのトレード・オフ

実は、日銀の採ったゼロ金利政策や量的緩和政策というのは、隠れたヘリ・マネ政策でした。ただ、当時はそこまで確たる意識があってやっていたかどうかはわかりません。しかし、庶民からは搾り、大手金融機関にだけ注ぎ込むという、日本のシャンパン・ツリー型ヘリ・マネ政策は、結局のところ、二度のバブル(日本のそれとサブプライム・ローン問題)を起こし、その後の二度の金融危機の原因となったと言ってよく、そのメカニズムを見ると、このトレード・オフ関係(片方が得をすれば、もう片方が損をするという、利益相反関係)がよくわかります。ここでは、両方のバブルのネタとなった住宅を例にとってみましょう。シャンパン・ツリー型だと、上層に注がれた資金は、下層に流れ落ちるよりも先に、大量の投機資金となって住宅市場に流れ込み、上宅価格を上昇させ、下層の庶民に割高な買い物を強いることになります。結果、庶民は高金利の住宅ローンを組んで、やっとマイホームが買えると。しかし、35年ローンとかだと、生涯年収の半分以上をローンの金利で持っていかれることもよくあります。ここでは、本来なら生涯年収で二軒買えるはずの家が、一軒しか買えないという資産格差として、上層下層の損得が表れます。逆に「花咲か」型だと、庶民に金が直接に渡りますので、金利を払ってまで金を借りる必要が低下します。そうすると、金融機関は貸出金利を下げざるを得ません。ヘリ・マネが撒かれると、貨幣価値の下落が予想されるために長期金利は上がるのですが、長期金利が下がっているのに貸出金利を下げなければいけないというのは、銀行にとって苦しい話ですよね。逆だと庶民が苦しい、もろにトレード・オフです。また、巨額の投機資金も形成しにくくなりますし、投機資金を集めるには庶民に金利を払って集める必要がある関係上、金の回る順番が庶民より後になるので、新規に入った金で先回り買いをするというのは、理論上は不可能となります。そうすると、庶民は無理な借金をしなくてもマイホームが買えますし、それは同時に先回り投資(自分の住む家なので投機よりも投資になる)としての効果も持つので、資産価格がインフレによって上昇すれば、場合によっては金利分を逆転することも可能です。そうすると、今度は実質的な金利負担なしでマイホームが買えたことになるので、庶民が得をし、銀行が損をします。このように同じヘリ・マネでも、どこにどう注ぐかによって、個々人に対する効果はまったく逆になりうるということです。そして、その国の実体経済を支える層に得になるような撒かれ方がした場合には、経済成長を促進し、その層が犠牲にされれば、経済成長は阻害されます。上記のマイホームの図式は、ものすごく簡略化されたものですが、モデルは日本そのものです。高度成長期は、「花咲か」寄りでしたので、経済成長が続きましたが、バブル以降はシャンパン・ツリー型になっていき、その不合理のしわ寄せが庶民に集中するようになり、経済成長を阻害し続けた結果、バブル崩壊から未だに立ち直れていません。

ページの先頭へ 戻る

劇薬?毒薬?

政界、経済界では、政府紙幣によるヘリ・マネ政策の是非を巡って議論が続いています。ま、簡単な話、支持派は、劇薬だけど今のこの状況では有効、もしくは必要だと言い、反対派は、毒薬以外の何物でもなく、副作用が効果を上回ることは確実だと言ってるという感じです。両者とも、これが相当にイレギュラーな薬であるという点では一致していますが、その薬効と副作用について、見込みの違い、というか立場の違いがあるようです。支持派が想定するメリットは、景気浮揚、財政の改善、円高の修正、「流動性の罠」脱出、といったところで、反対派が強調するデメリットは、財政規律の弛緩、ハイパーインフレの危険性、信認の低下による過度の円安、金融資産の目減り、といったところです。この中でポイントはどこにあるのか? ズバリ、金融資産の目減りです。言い換えると、金融資産(債権)圧縮効果です。ヘリ・マネによって必然的にもたらされるこの効果を、支持、容認、あるいは少なくとも黙認するのが政府紙幣支持派であり、それに頑として抵抗するのが反対派であり、反対派が掲げるその他の理由は表面的なものと言っていいです。なぜなら、他のデメリットが「おそれ」にすぎないのに対して、この効果は自動的に確実に発生するものであり、しかも、金融資産を大量に保持する層(銀行などの金融資本と富裕層、要するに金を貸してる側)にとって、深刻な損失をもたらすためです。

ページの先頭へ 戻る

真の金融資産:純粋債権

「真の金融資産」という言葉も、「純粋債権」という言葉も、普通に使われる言葉ではなく、ここでの説明のための便宜的な表現なので、まず気をつけておいてください。なぜ、このような表現をするのかというと、金融資産の中には、実物の裏付けのあるものとないものが含まれていて、実物の裏付けがあるものに関しては、へり・マネの圧縮効果は及ばないためです。たとえば、普通に金融資産としてイメージされる有価証券でも、不動産を証券化した抵当証券などは、この圧縮効果が及ぶか(=真の金融資産か)という側面から見れば、ほぼ100%ノーです。微妙になってくるのは株式で、実物資産しか持たないような事業会社の株なら、やはり実物に還元されるので、同様に100%ノーと言える、つまり真の金融資産からは外せます。対して、銀行などのように、実物資産も持ってはいるが、金融資産(債権)を大量に持っているところは、これは割合で考えることになりますね。本当は、債権を引き当てにした株と実物資産を引き当てにした株に分けてあれば、計算も楽なんですが、債権も実物の担保がある場合とない場合(純粋債権)で分かれるので、さらに面倒な計算も残ってはいます。で、最終的に圧縮効果が及ぶのは、この担保のない純粋債権、つまり、最終的な債務者が<新たに生産をして>返すことが予定されている債権となります。ここ、強調したとおり、<新たに生産をして>というのが、激重要です。つまり純粋債権とは、<この世にはまだ存在していない富>を対象とした資産だということです。たとえば、現在の金融危機の直接の引き金となったのは、リーマンブラザースの破綻でした。それは、この純粋債権の見方で行けば、リーマンブラザースが新たに生産する予定だった富を、世界中の金融機関に売りまくったけど、それを現実には生産できずに終わり、それを対象とした金融資産が消滅した、というように理解できます。

ページの先頭へ 戻る

流動性の罠  liquidity trap

金融緩和を強化しても、投資に大きな影響を与える金利が下がらず、金融政策の有効性が著しく低下する状態。

ページの先頭へ 戻る

毒こそ薬

私が、現在の状況においては、ヘリ・マネあり(ただし、以下の条件を満たした上で)と言うのは、まさにこの純粋債権(→真の金融資産:純粋債権)に対する圧縮効果に着目しているからです。ここから先を理解するためには、2月号と3月号の話を思い出してもらわないといけません。

「100年に一度」の危機って?

続・「100年に一度」の危機って?

今回の経済危機が、変動相場制を基礎とした金融システムそのものの本質的、構造的欠陥に端を発するものであるということ、これがまず第一のポイントです。次いで、それは具体的には、実物とサービスの仲立ちとなるべき通貨(片方の皿に実物、もう片方にサービスを載せた天秤)が、自分自身が主役となってしまった(片方の皿に実物とサービスを一緒に載せて、自分がもう片方の皿に載った)というのが第二のポイントです。この載せ方により、右の皿で膨らました通貨を、左の皿で膨らませたサービス(そう、純粋債権です)で釣り合わせることが可能になりました、で、実際にやりまくりました。

しかし、真実の天秤の上では、右の皿に載ったサービスが、空虚な純粋債権の膨張で膨らみかえる一方で、原材料高などの投機資金の動きにより、左の皿の実物生産はかえって阻害される結果となり、このバランスの崩れに耐えきれなくなり、破綻に至ったわけです。このような崩れたバランスを元に戻すためには、膨らみかえった純粋債権を圧縮して、目方を軽くし、実物生産を増やして左の皿を重くしてやる外はありません。そして、正しい使い方をすれば、ヘリ・マネでそれを実現することができます。これで、基本的な構造がわかってもらえたと思います。ヘリ・マネを使えば、この純粋債権の圧縮が可能です。しかし、それはシャンパン・ツリー型の注ぎ方をすれば、むしろこれまでと同じように、さらなる空虚な純粋債権の膨張、すなわちバブルを招きます。なので、「花咲か」方式が基本となります。しかし、それだけでは不確実性が大きすぎますので、ストレートに実物資産の生産につながる金の使い方が必要になります。具体例としては、やはり安価で良質な公営住宅の建設を進めることなどが、必要性も効果も高い政策として想定されますが、一般国民の生活に必要、有用(馬や鹿が走る高速道路とかではなく)な社会資本の整備は、国民全体の生産性向上につながりますので、実物生産の増産効果も大きく期待でき、崩れたバランスの立て直しに資するものと思います。このような指針にそって、ヘリ・マネ政策を実行していくならば、インフレなどの副作用は伴いつつも、総合的には最も軽い国民負担で、経済危機からの脱却が可能になると考えています。ヘリ・マネはたしかに毒薬です。でも、容態が危機的な場合には、その薬効の方が勝る場合もあります。もちろん、病気が治ってからも薬を飲み続けては、また新しい病気にかかってしまいますけど、使い方さえ誤らなければ、この薬こそが特効薬だというのが、私の見立てです。

ページの先頭へ 戻る

まぜるな危険!

今回の金融危機を別の視点から見ると、<すでに生産された富>と<まだ生産されていない富>を同じ市場で一緒くたにして取引することの本質的なリスクが顕在化したものと見ることもできます。この<まだ生産されていない富>というのは、まだ実在しないものを表すために必然的に証券化される、つまり紙切れの状態で取り引きされることになります。この姿、馬券や宝くじとどこが違うのでしょうか?なにも違いません。もちろん、ギャンブルの場合、実物を生産する予定がないのに対して、商品先物ならば、商品の生産が予定されているというように、実物生産が引き当てとして予定されているかどうかという違いはあったりします。しかし、証券化された金融資産の中身は、<金を右から左に動かす>程度の空虚な生産が大半でして、結局のところ、そこにはリスクという相対的な違いがあるのみです。金融資産など、所詮、馬券、宝くじの類なんですね。だからハズレるのは本来当然の話なんです。ところが、競馬新聞の印のように、金融資産にも格付けなんていう怪しい印がついていて、たとえばAAAなら、まずハズレないから1.03倍のオッズでも買ってよさそうな雰囲気というのが出来上がっているわけです。なら、AAでも1.05倍なら、Aでも1.10倍なら、なんて気分になってしまうのですが、所詮、馬券は馬券、ハズレる時はハズレるんです。地上で最も柔らかい物質は、鉄板@競馬場とも言われています。だから、本来なら<まだ生産されていない富>は、<すでに生産された富>とは別の市場で取り引きされるべきで、実際、個別にはそのように取り引きされています。ところが、どちらの市場でも、同じお金が使われているんですね。だから、お金を仲立ちとすることで、本来は別世界の住人である<まだ生産されていない富>と<すでに生産された富>が交換可能になってしまいます。つまり、通貨の側から見ると、一つの市場でこの二つが一緒くたに取り引きされているということです。未来の生産と過去の生産という次元の異なるものを、一つの市場というるつぼで混ぜ合わせることが可能なのは、お金の溶媒のような効果によります。この効果のおかげで、経済が発展してきたことももちろん揺るがざる事実なのですが、その結果、物々交換では不可能な<まだ生産されていない富とすでに生産された富の交換>という、リスキーな取引も当たり前のように行われるようになりました。歴史上、幾たびも起こってきた経済危機も、根本的にはこのリスクが大規模な形で実体化したものと見ることができます。ここまで高度に資本主義経済が発達し、我々の生活がそれを前提として成立している以上、後戻りは現実的な選択肢ではありません。しかし、視線を戻すことは可能です。過去の失敗から謙虚に学び未来に生かす姿勢を忘れれば、失敗は繰り返されます。今回の金融危機は、そんな失敗の典型です。同じ失敗を繰り返すかどうかは、我々が過去の数多の失敗からどれだけのものを学び取り、それを教訓として生かせるかにかかっています。ところが今の日本では、その邪魔をするような人々の方が地位も高ければ、メディアでの発言力も大きいので、何か事あるたびによせばいいような方向に走って行くんですよね。

ページの先頭へ 戻る
All Right Reserved, Copyright(C) ENCYCLOPEDIA OF CONTEMPORARY WORDS