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はたらけど、はたらけど、なお、わが所得
執筆者 土屋彰久

はたらけど、はたらけど、なお、わが所得

所得移転の政治経済学

最近、やっと「所得移転」という言葉がメディアでも、聞かれるようになってきました。もちろん、まだまだ専門家の口から、それも<原油高騰による消費国から産油国への所得移転>という文脈で出てくることが主ですが、それでも言葉だけでも定着するようになれば、日本人ももう少し正確に、自分達の置かれた状況というのが見えてくるようになるんじゃないでしょうか。21世紀に入って以降、東側陣営の崩壊と冷戦の終結という事情を背景に、日本のマルクス主義アレルギーが強まってきたということもあって、「搾取」というキーワードを言葉を聞いただけで、耳が思考停止に陥る人も多いようです。もちろん、この格差社会の勝ち組、つまりマルクス的に言えば「搾取でボロ儲けしてる」人たちが、アレルギーを示すのは当然の話でして、それは政治的に見ても、経済的に見ても、はたまた文化的に見ても、合理的な話です。でも、「搾取されて貧困にあえいでいる」負け組が、その真似をするというのは、勝ち組への憧れなのかなぁという気もしますが、経済的に見た場合、明らかに不合理です。もちろん、そんなアレルギーが簡単に治るとも思いませんので、現代日本に蔓延している搾取のメカニズムを含めて、より広い所得移転の観点から、経済構造の問題を解き明かしてみましょう。→搾取と所得移転

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所得移転

→2006年04月号参照

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搾取と所得移転

搾取というのは、所得移転の一形態、すなわち「搾取<所得移転」という関係になります。市場経済(自由主義経済)の下では、所得移転は交換によって発生します。そしてこの観点から見た場合、搾取というのは、「労働力と賃金の交換」の際に発生する所得移転ということになりますので、このような関係になるわけです。ただ、搾取の概念を拡げて、たとえば「賃金と商品の交換」に際しても、独占などによる有利な立場を利用した所得移転も含めるような考え方もありますので、その場合、搾取は所得移転に近づいていきます。

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収奪と所得移転

搾取といえば、次は収奪と来るので、ついでに収奪の位置づけも説明しておきましょう。収奪も、所得移転の一形態です。ただし、搾取が交換を前提としているのに対して、収奪はやらずぶったくり、つまり一方的に取るだけとなるので、ある意味、所得移転の純粋な形と言ってもよいかもしれません。ですから、搾取の概念を目一杯拡げても、収奪は別物ということになりますので、どこまで行っても[搾取=所得移転]となることはないわけです。

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等価交換

パチスロやってる人にはおなじみの言葉ですね。いわゆる換金率(もしくは交換率)が100%ということです。パチスロを全然知らない人のために、簡単に説明すると、パチスロは通常、1000円で50枚のメダルを借りて、スロットマシーンで遊び、メダルが増えたら、間に特殊景品という換金専門の景品を挟むことで、お金に換えるのですが、この時にメダルを借りた時の割合(一枚20円)と同じ割合でメダルが金に換わる場合を等価交換と言います。(刑法の賭博罪の脱法行為じゃないかという話は、ここではおいときます。:笑)ここで言っているのは、そのパチスロ(パチンコも含みます、もちろん)の等価交換ではなく、所得移転が発生しない交換もあるという話で、等価交換という話をしています。世の中の取引というのは、形式上は「双方の合意に基づく等価交換」ということになっています。たとえば、「このトマトは100円の価値がある」という点について、八百屋と客の見解が一致していれば、客の払う100円と八百屋の渡すトマトは等価ということになります。しかし、これは表面上の話でして、八百屋は儲けを出さなければいけないので、原価20円のトマトに100円の値を付けて店頭に並べ、一方で客の方は、スーパーでは200円だったから諦めたけど、帰りに八百屋をのぞいたら100円だったので、喜んで買うことにした、なんていうのはよくある話です。そのようなわけで、実態においては、大抵の取引が不等価交換だと考えていいでしょう。

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不等価交換

不等価交換ということは、そう、それに伴って所得移転が必ず発生するということを意味します。だから、移転してくる所得を受け取る側が得をすることになります。上のトマトのケースだと、八百屋は値幅の80円を儲け、客は差額の100円を儲けるから、差し引き20円の所得が八百屋から客に移転?とは必ずしもなりません。もちろん、条件次第でその通りになることもありますが、上のようなケースでは双方が得をしたと感じるでしょうし、実際もその通りと考えていいでしょう。このような、双方が得をするような取引をウィンウィン・ゲームと言ったりもします。

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ウィンウィン・ゲーム  Win-Win Game

このゲームは、ファミコン(古い?)その他、テレビゲームのゲームとは違った意味での、ゲーム理論のゲームです。まあ、「駆け引き」のような意味だと思ってもらえばいいでしょう。そして、このゲーム理論が扱うゲームにも、様々な種類があるんですが、その中の非ゼロサム・ゲームにおいて、参加者の選択次第で参加者全員が得をするようなパターンが、ウィンウィン・ゲームと呼ばれます。

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ゼロサム・ゲーム  zero-sum game

プレーヤー間の損得の合計が常にゼロになるようなゲーム。

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ゼロサム・ゲームと非ゼロサム・ゲーム

ゼロサムというのは、総計(サム)がゼロになるという意味で、具体的には参加者全員の利益を通算すると、必ず0になるというゲームをゼロサム・ゲームと言います。この場合、一対一であれば、プレーヤーは相手に損をさせない限り得できません(裏返せば、損をさせさえすれば得をするということになります。いわゆる一つの必要十分条件てやつです)。要はシーソーを考えてみてください。そして非ゼロサムというのは、その利益の総計が0にはならない、ということで、マイナスの場合もプラスの場合もあります。だから、総計がマイナスなら不利益分配ゲームになるし、プラスなら利益分配ゲームになるわけですね。たとえば、ギャンブルというのは基本的にマイナスサム(英語だとnegative-sum)で、競馬なら賭け金から25%を引いた残りを当たり馬券に割り当てますので、マイナスサムの典型となりますし、地球温暖化対策をめぐる二酸化炭素の排出量規制をめぐる駆け引きなんかも、世界規模で行われているマイナスサム・ゲームということになります。このゲームは、参加しさえしなければ、不利益の分配を受けることもないので、ブッシュのアメリカは難癖をつけて参加しないと。アメリカ、かーしこーい。まあ、ユニラテラリズムってそういうことですからね、要は。一方で、プラスサム(英語だとpositive-sum)・ゲームは、日常の買い物から国家プロジェクトの契約まで、通常の商取引のほとんどがその構造になっています。世の中で、毎日、莫大な数の取引が行われているのは、それがプラスサム・ゲーム、つまり双方に利益となりうる性質のものだからである、という説明もこの考え方によって成り立ちます。

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取引とウィンウィン・ゲーム

ウィンウィン・ゲームが、プラスサム・ゲームの一種だということはわかりますよね。プラスサムの環境下でも、片方がその利益を独占し、さらに相手に損をさせれば、ゼロサムの時と同じように、ウィン−ルーズ・ゲームとなりますから、利益が適切に分配されて初めて、ウィンウィン・ゲームが成立するということです。取引には、その分配の原資たる利益を生み出す作用があるので、取引はプラスサム、そしてウィンウィン・ゲームになりやすいわけです。この取引が利益を発生させるメカニズムについては、二通りの説明があります。一つは<効用>による説明です。<効用>は、「主観的な値打ち」と考えておいてください。先ほどのトマトの買い物の事例をここでも使うことにしましょう。八百屋にとっては、原価20円のトマトは、所詮20円の値打ちしかありません。ところが、客の手に渡ると、それは200円の値打ちをを持つものに化けます。*(盛りカゴから買い物カゴに移動しただけで、なんと10倍も値打ちがアップ!という話のカラクリは、また別の機会に譲ります。)客の側にしてみれば、100円で200円のものが買えるならそれはお得な話ね、ということで、喜んで八百屋に100円払います。ここで100円という通貨は、基本的に誰の財布に入っていても値打ちの増減はありませんが、トマトが客に渡った時に発生した180円の利益から、客が得した100円分を差し引き、それに原価の20円を加えて、100円の通貨となって八百屋の手元に戻っきているので、八百屋にしてみればストレートに80円の儲けとなります。で、双方ハッピーと。もう一つは、<労働価値>による説明です。市場で野菜を買い付け、店まで運び、店頭で売る、これら全て、八百屋の労働です。しかし、商業は農業のような生産的労働ではありませんので、それを誰かが値を付けて買ってくれて初めて利益が実体化します。こうした考え方に立つと、八百屋と客の取引が成立した時点で、八百屋の労働が180円分の利益として実体化し、その180円が儲けの80円とスーパーの値段との差額分の100円という形で、八百屋と客の間で分配されたものと解釈されます。どっちが正しいの? 悩みますよね。どっちも一面においては正しい、ぐらいに考えておいてください。そもそも、経済活動なんてのは、経済理論が出てくるはるか前から行われているわけで、それが結果において合理的だからこそ、これだけ人類の経済活動は発達してきたわけですよね。理論というのは、基本的にその後付けの説明で、理論に現実を合わせる必要はありません。“正しい理論”というのが決まってしまったら、現実をそれに合わせなければいけなくなってしまいます。それ、本末転倒ですよね。

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取引と所得移転

ようやっと、取引による所得移転の話になりました。でも、取引の基本を押さえておかないと話が前に進みませんので、ご勘弁ください。さて、取引はそれ自体に利益を生み出す作用があるので、双方が利益を得られると思って取引をする、だからこそ合意も成立しやすく、日常的に行われているというのが、ここまでの話です。しかし、そこで常に利益の分配が均等に行われているかというと、そうではありません。たとえばトマトの設例では、90円ずつに分ける、つまり110円で取り引きしないと均等ではないように見えますが、それもまた必ずしもそうではありません。複雑な話をするときりがないので、簡単な例だけで考えると、客の側が、元々トマト一個に150円以上出す気はなかった場合、客が得したのは50円ということになりますし、一方、八百屋としては、売れ残ったら捨てるつもりでいたとすれば、100円丸儲けと考えることもできます。実際には、様々な要因が複雑に絡んできますので、適正価格を割り出すのはどだい無理な話で、適正価格の決定は市場メカニズムにまかせておけばよいというのが、現代の基本的な考え方です。しかし、市場メカニズムは適正価格を保証しません。それでは、「“正しい理論”に現実を合わせる」ことになってしまいます。となると実態においては、通常の取引の大半は、多かれ少なかれ所得移転を伴う不等価交換であると見た方がよいでしょう。ただ、やはり通常の取引の大半は、農産物の赤字出荷や詐欺的な取引といった極端な場合を除いて、利益分配、すなわちウィンウィン・ゲームの枠内に収まっているために、割合で見て損をしている側も、損をしているとは感じず、自覚なく“いいカモ”を演じているというのが実情です。

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