月刊基礎知識
月刊基礎知識トップページへ バックナンバーへ
袋小路派の政治経済学*[ユーバリズムからグローバリズムへ]
執筆者 土屋彰久

袋小路派の政治経済学*[ユーバリズムからグローバリズムへ]

エネルギー革命

今日、普通にエネルギー革命と言う場合、石炭から石油への主要エネルギー源の交代を指しますが、一応、歴史上は<薪→木炭>、<木炭→石炭>というステップも、エネルギー革命の一段階とされています。実際、我が家の近所にも、昔からの「○○薪炭店」なんていう看板を掲げつつ、石油を売っている店がありますが、エネルギー革命の歴史を体現していると言ってもいいでしょう。日本では、エネルギー革命(もちろん、石炭→石油)が急速に進行したのは戦後の1950〜60年台でしたが、これは太平洋戦争という特殊要因が大きく作用した結果であり、エネルギー革命の流れ自体は、戦前に始まっていました。アメリカによる石油の禁輸措置が、日米開戦の主因の一つとされていることからもわかるように、軍用燃料の転換は早くから始まっていました。これは、軍拡競争は開発競争でもあるために、最新の技術は何よりも軍事部門に投入されるためです。たとえば、太平洋戦争の帰趨を決定づけたとされる飛行機は、石油燃料を利用した内燃機関の開発によって、始めて実用的な軍備となりえたものでした。飛行機のレベルになると、石炭(蒸気機関)ではそもそも飛べないという話になりますが、戦艦のような軍用艦のレベルにおいても、コンパクトで高出力な内燃機関を用いた新鋭艦は、非効率的な蒸気機関を用いた旧式艦に対して、性能上、格段に優位に立ちます。これは結局の所、民生用に転用しても同じ話なわけで、仮に太平洋戦争がなければ、エネルギー革命はもっと早く進んだものと思われるのですが、日本の場合、石油は国内ではほとんど採れないために、敗戦後、しばらくの間は国内資源の有効活用を図る他はないということで、逆に石炭事業を拡大する傾斜生産方式が採られました。

ページの先頭へ 戻る

傾斜生産方式

戦後、日本経済の復興を図るために、限られた資源を基幹産業に重点的に投入し、経済発展の基盤を整備していこうということで採られた政策が、傾斜生産方式です。中でも、石炭産業は鉄鋼産業と並んで、工業化の基礎を支える最重要産業と位置づけられて、手厚い保護の下、大きく発展していきました。そして、この傾斜生産方式は、戦後の経済復興の原動力となり、その後の高度経済成長の基礎を築くなど、成功を納めました。しかし、石炭の問題に目を向けてみると、エネルギー革命という時代の流れに逆行しつつ設備投資を拡大するという、かなりリスキーな要素を抱えていたことも事実で、そのごの構造不況の深刻さは、結局、そのツケを払わされた結果であると見ることもできます。

ページの先頭へ 戻る

松根油  pine oil

戦時中は、とにかく燃料が不足していたので、陸上では木炭自動車などというものも走っていました。しかし、さすがにそれで空を飛ぶのは無理なので、何とか航空機燃料を国内調達できないものかと、日本軍研究班の精鋭達がその英知と情熱を傾けて開発したのが、松根油でした。そして、全国で松根掘りが繰り広げられましたが、最終的に航空機燃料として用いられることなく、敗戦を迎えました。戦時中に生産された松根油は、大部分が空襲で消失してしまいましたが、わずかに残ったものもあり、車の燃料としては使い物にならず、最終的には漁船の燃料として活用されたそうです。まあ、漁船に使われるような重油ディーゼル・エンジンなら、調整すれば大抵の燃料で動きますから、この活用法は合理的ですね。しかしそれ以前に、松根油の開発や生産に傾けられた情熱や努力を、もっと別の方向に活かす余地はなかったのかと、改めて思います。

ページの先頭へ 戻る

石炭  coal

日本の石炭産業が、急速に衰退した理由の一つには、その算出する石炭の品質が低かったこともありました。燃料炭として最高品質となる無煙炭や、製鉄原料として不可欠な原料炭の瀝青炭といった、高品質の石炭は国内ではほとんど算出されず、亜瀝青炭、褐炭、亜炭といった低品質の石炭が主でした。しかも、鉱脈は細かったり深かったりと、採掘費用もかさむために、国際競争力はなきに等しく、貿易の拡大、円高の進行など、日本経済の発展は全て、石炭産業には逆風となるという皮肉な構造の下、国内の石炭産業は採算の維持が不可能となり、急速に衰退に向かいました。ここまで来ると、話も見えてきたと思います。実は、グローバリズムがグローバリズムと呼ばれなかった頃から、石炭産業は、グローバリズムの最大の犠牲者であったわけです。

ページの先頭へ 戻る

助け合いから切り捨てへ

石炭産業が、日本におけるグローバリズムのデメリットを一手に背負っていた頃は、日本経済全体は輸出産業中心の経済構造故に、うまく回っていました。ですから、グローバリズムで利益を得る自動車や電機などの輸出産業が稼ぎ出す利益が、回り回って石炭産業や産炭地に政策的に再配分されることで、勝ち組産業と負け組産業の間でバランスを採りつつ、国民経済全体の成長を図るという政策も可能でした。しかし、これは貿易黒字を積み上げる側の日本には都合が良くても、その反対に安値の輸出攻勢で国内産業を駆逐されて、貿易赤字が膨らんでいく貿易相手国、具体的に言えばアメリカにとっては、腹立たしい話です。そこでアメリカ側は、様々な思案を重ねた末に、日本の優良企業を乗っ取って、その利益を頂くという戦略を考えました。そうなると、かつては同じ「親方日の丸」の下で働く兄弟として、石炭産業の赤字を間接的に補填してきた輸出産業は、今度は「親方星条旗」のために上納金を貢がなければならないので、当然、「縁の切れ目は、金の切れ目」とばかりに、足手まといを切り捨てることにしたわけです。まあ、ものすごくはしょって書きましたが、このプロジェクトは、実際には日米共同の国家的プロジェクトとして進められました。それが、小泉どころではない、それよりはるか前の宮沢内閣の頃から、「構造改革」の名の下で進められてきたプロジェクトの実態です。詳しくは『政治家にダマされないための政治学』の中で取り上げておりますので、興味のある方はどうぞ。

http://www.jiyu.co.jp/BookDB/books.cgi?kikaku=11020

ページの先頭へ 戻る

モノのグローバリズム

グローバリズムは、モノ→カネ→ヒトと段階を踏んで拡大していく性質を持っていますが、現在はカネのグローバリズムがほぼ一段落し、次のヒトのグローバリズムの段階が始まっているところです。この、カネのグローバリズムの前の段階の、モノのグローバリズムの時代には、その工業生産品の国際競争力が非常に高かった日本は、勝ち組のトップと言ってもよい状況でした。しかし、バブル経済を期に、経済運営の失敗と<モノ→カネ>のフェイズ・シフトへの対応の遅れや失敗が重なったために、カネのグローバリズムが本格化してくる次の時代に移ってみると、優良企業の大株主にはずらっとカタカナやアルファベットが並ぶという事態を招き、以前の地位からの相対的な落差で言えば、今度は負け組のトップと言ってもいいくらいの転落を演じてしまいました。

ページの先頭へ 戻る

ヒトのグローバリズム

最近、解禁になった三角合併は、日本をカネのグローバリズムの時代の負け組に固定する、最後の総仕上げになると見られています。そして、ついでにその先についても触れておきますが、次の段階のヒトのグローバリズムが進めば、日本の再浮上の可能性は失われることになるでしょう。ちなみにヒトのグローバリズムについては、既刊の『図解でわかる世界のしくみ』で触れています(p.204)ので、機会がありましたらご参照ください。

http://www.jiyu.co.jp/BookDB/books.cgi?kikaku=11009

ページの先頭へ 戻る

モノ・カルチャー  mono culture

モノはモノでも、《mono:単一》の方です、誤解を招く表現ですいません。モノ・カルチャーというのは、元々は農業用語で、植民地の大農園に特徴的に見られる単一耕作を指す言葉でした。モノ・カルチャーは、植民地経営を行う宗主国にとっては、各植民地において適地適作の効率的な原料生産が可能であるという生産面のメリットや、地域の自給自足型農業経済の基盤を破壊し、市場経済に強制的に移行させることにより、生活必需物資の供給を宗主国側が握ることで、植民地の人々の自活・自立能力を奪うという、支配面(政治・経済の両面)のメリットから、広く行われてきました。そして、このような宗主国を仲立ちとした植民地間の国際分業の構図が、一度できあがってしまうと、たとえ政治的には独立を勝ち取っても、経済的な支配の構造から容易には脱せなくなってしまうために、旧植民地諸国は、今日でもモノ・カルチャー型経済のデメリットに苦しんでいます。そして、当然ながら地球規模でコストカット競争を煽るグローバリズムは、効率性の追求の結果として、各国が特産品の生産に特化するモノ・カルチャー化を促進する作用を強く持っています。しかし、モノ・カルチャーはギャンブルで言えば一点張りのようなもので、複数の植民地を抱える、かつての帝国主義の時代の宗主国なら、支配地域内で投資リスクを分散することが可能ですが、独立後の旧植民地諸国の場合、一人で一点張りのリスクを背負い込むことになります。

ページの先頭へ 戻る

国内モノ・カルチャーとユーバリズム

さて、ここまでくると、ユーバリズムとの共通性が見えてきますよね。つまり、ユーバリズムの基にあるのは、このモノ・カルチャーのメカニズムだということです。日本では、これを地域単位で行い、国民経済全体でリスク分散を行うことで、効率性と安定性を両立させてきました。これは、大抵の先進国において、当然のこととして行われてきたことです。しかし同時に、このような経済システムにおいては、稼ぎ頭の産業には国民経済全体を支える負担が要求されるために、優良企業に投資して利益を上げようというカネのグローバリズムの下では、儲けの邪魔にしかなりません。そこで、構造不況業種への援助を削って、優良企業に対しては減税を進めるという、まさに「構造改革」の王道とも言うべき政策が、外資=アメリカから押しつけられるわけです。そうなると、当然、産炭地域のような足手まといは、さっさとリスク分散の輪から切り捨てられてしまい、その経済構造の脆弱さをさらけ出すことになります。夕張の場合、たしかにかなり無茶な観光事業への投資などを行ったことも事実ですが、こうした構造的要因を見てみると、夕張の力だけではどうしようもないものもあったと言えましょう。そして、同じような境遇にある自治体は、まだまだ多数あり、今後さらに進められようとしている地方切り捨て政策の下、再び数多の自治体が財政再建団体に転落する時代がやってこようとしています。夕張の後に、第二、第三の夕張あり。

ページの先頭へ 戻る
All Right Reserved, Copyright(C) ENCYCLOPEDIA OF CONTEMPORARY WORDS