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戦いは深刻じゃなければとびきりのお祭りだ

遺恨試合は当然もっと盛り上がる

遺恨

いつまでも残るうらみが遺恨。武士の遺恨といえば、「忠臣蔵」に代表されるように面目をつぶされた恨みの末の刃傷沙汰から起こったあだ討ち。遺恨が遺恨を生み、自らの命運をなげうって赤穂浪士は仇討ちをしたのである。現在における遺恨といえば、プロレス系の試合における「遺恨勃発!」の煽り文句。遺恨対決自体が売り物になる。プロ野球においては、デッドボールが当たるたびにすぐ遺恨対決といわれ、とにかくスポーツ界においては、遺恨対決で盛り上げようという報道側の思惑から“遺恨”の叩き売り状態になっている。

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因縁

遺恨対決と同じく多用される常套句が因縁の対決。のちのちに残るほどの恨み自体をいう遺恨に対し、因縁はその原因自体に前から決まっていた「運命」や「宿命」めいたものが絡んだものをいう。例えば、2006年ワールドカップ予選リーグF組にドローされた、日本・オーストラリア・ブラジル・クロアチアの4チームにおけるオーストラリアとクロアチア。オーストラリアには多くのクロアチア系の移民がおり、オーストラリア代表のなかにはクロアチア系の選手も名を連ねる。そしてオーストラリアで生まれ、オーストラリアのスポーツ英才教育によって成長したものの、クロアチア代表選手としてワールドカップの舞台に立つ選手もおり、この両者が予選リーグで対決することこそ因縁の対決といえるかもしれない。ちなみにブラジルと日本はサッカー界の交流はもとより、移民の往来(昔は日本からブラジルへ、現在はその逆)など浅からぬ関係ではあるが、実力に雲泥の差があるため因縁の対決とはいえない。

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サッカー戦争

1970年メキシコ大会予選で、ホンジュラスとエルサルバドルは2戦してともに1勝1敗。3戦目を第3国のメキシコで開催したが、もともと国境線が不明確で紛争の耐えなかった両国は、試合前日に国交断絶を通告。メキシコの機動隊が出動しての試合となった。試合は、エルサルバドルが勝利を収めたが、その直後ホンジュラスがエルサルバドルに宣戦布告。本当の戦争に突入し、数日間続いた戦闘で約5000人が死亡したとされる。ホンジュラスへのエルサルバドルの不法入国者問題や、エルサルバドル国内の内政に対する不満をサッカーを機にホンジュラスに向けさせるなど、サッカーが政治的に利用された例といえる。80年に両国は平和条約を結び、その後も国境問題は解決しないままであったが、06年4月に両国はようやく国境線を確定し、長きにわたって続いたサッカー戦争に終止符を打った。

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欧州選手権/EURO  European Championship

2005年版本誌掲載。以下、

4年に1度、ワールドカップの中間年に代表チーム欧州王者を決める大会。2004年の第12回大会はポルトガルが開催国となり、伏兵ギリシャが決勝で地元ポルトガルを1−0で破って初優勝を果たした。第1回大会は1958年から60年にかけて行われ、準決勝と決勝をフランスで開催、ソ連が優勝した。ワールドカップと同様の1カ国開催となったのは80年のイタリア大会からで、それ以前は予選を勝ち上がった国がホームアンドアウェー方式で戦い、準決勝以降だけを1カ国で実施していた。最多優勝はドイツ(西ドイツ時代を含む)で3度。優勝杯は、大会創設を提唱し、第1回大会を前に死去したフランス人の名を冠した「アンリ・ドロネー杯」。

※編集部註:88年の欧州選手権では開催国であり、優勝候補とされた西ドイツが準決勝でオランダに破れた。90年のワールドカップ・イタリア大会で再び同カードが再現され、リベンジに燃える西ドイツであったが、西ドイツのフェラーの人種差別発言に怒ったオランダのライカールト(現FCバルセロナ監督)がフェラーに向かってつばを吐き、退場。この退場によりオランダは西ドイツに敗退。西ドイツは優勝を果たした。

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ウェンブリーの戦争

1966年イングランド大会は、74カ国がエントリーしたものの、アジア・アフリカあわせての出場枠がたったひとつだったことに抗議し、多くの国がボイコットした。サッカーの母国イングランドの聖地と呼ばれるウェンブリースタジアムを中心に大会は行われたが、試合は暴力的なプレーが続出。ブラジル代表の王様ペレもポルトガル戦で潰され退場。大会後「このように暴力的なワールドカップには2度と出場しない」と宣言したほどで、ブラジルではポルトガル人が襲われる事件まで発生した。準々決勝のイングランドとアルゼンチン戦はキックオフ後から激しいプレーで反則が続出。前半終盤でアルゼンチンの主将ラティンが退場処分を受けるも、それを不満としてラティンはグラウンドを去らず、試合は8分間中断。結局アルゼンチンは1-0で負けた。これは「ウェンブリーの戦争」と呼ばれたが、アルゼンチン側は「ウェンブリーの陰謀」と呼び、「主審を含めて12人のチームに10人では勝てない」と現在に至るまでアルゼンチンの人々に「イングランドだけには負けない」と思わせるに足る試合となった。また、その後不思議と積み重ねられゆく遺恨(「マルビナス紛争」「10人の戦士と1人の愚か者」)の嚆矢になった。

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マルビナス紛争/神の手

イングランドとアルゼンチンは、1982年4月から6月の2ヶ月間、マルビナス(フォークランド)諸島の領有をめぐって戦火を交えた。日本では一般にフォークランド紛争として知られる。両国とも多くの犠牲者を出し、激戦の末にイギリスが勝利。国交断絶状態のまま、アルゼンチンが敗戦の屈辱にまみれて迎えた86年ワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝はイングランド対アルゼンチン。マラドーナの「神の手ゴール」と「5人抜きゴール」により、2-1でアルゼンチンが勝利を収め、アルゼンチン国民は熱狂した。

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10人の戦士と1人の愚か者

イングランド−アルゼンチンの試合は1998年フランス大会においても“伝統的”遺恨試合となった。決勝トーナメント1回戦、後半開始早々のシメオネの度重なるラフプレーに対して、冷静さを失ったベッカムがシメオネを蹴り、この報復行為によって一発退場。一人欠けたイングランドは敗退し、イギリスでは「10人の戦士と1人の愚か者」といわれるほどベッカムに批判が集中。あげく帰国もままならず大会終了後はとりあえずアメリカに避難しなければならないほどであった。そして2002年大会でまたもアルゼンチン戦が実現。雪辱をかけた一戦に、主将として出場したベッカムは決勝点となるペナルティーキックを決め、98年の汚名をそそいだ。準々決勝でブラジルに敗れたものの、ベッカムは02年ワールドカップの一番の思い出を「アルゼンチンに勝ったこと」と語った。

 

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オーノ

2002年の冬季五輪ソルトレーク大会、男子ショートトラック1500mにおいて、1着でゴールインした韓国のエース金東聖であったが、2着の日系二世でアメリカ代表のアポロ・アントン・オーノが金東聖に妨害されたとして、金東聖は失格となりオーノが金メダルを獲得。オーノの妨害アピールは演技だとして韓国中がオーノを大非難。その4カ月後のワールドカップ日韓大会では、アメリカからゴールを奪ったアン・ジョンファンはピッチの上でお返しのスケートパフォーマンスを披露。自国内では喝采を浴びたが世界的には「あさはか」「非紳士的」などの批判もあった。オーノはトリノ五輪1000mで銅メダル、500mで金メダルを獲得し、ソルトレークの遺恨を振り払った。

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誤審(サッカー)

2002年ワールドカップ日韓大会でベスト4という快挙を成し遂げた韓国。しかし、FIFAが創立100周年記念に制作したDVD「FIFA FEVER」に収録されている「ワールドカップ史上の誤審疑惑」のなかで、日韓大会での韓国絡みの誤審が四つもランクインした。大会開催期間中も「ホスト国に対して意図的に有利な判定が行われた」と、誤審問題が大きく取り上げられていた。

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