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不正事件で注目を集めた企業をめぐる用語集

山一證券廃業とその周辺の用語集

山一証券粉飾決算「廃業」事件

1999年版本誌掲載。以下、

山一証券はかつての4大証券会社のひとつで、法人営業に強く、「法人の山一」ともいわれた。創業は1897(明治29)年。1960年代なかば頃の証券恐慌で危機を迎えるが、日銀特融により持ち直す。しかし30年後の97(平成9)年11月、経営破たんを招き、自主廃業した。1998(平成10)年3月4日、山一証券の経営破綻を招いた約2700億円の債務隠し事件で、商法違反(違法配当)などに問われた前会長行平次雄、前社長三木敦夫、前副社長白井隆二各容疑者ら3人が東京地検特捜部に逮捕され、同年9月16日、東京地裁で行平、三木両被告の初公判が開かれた。検察側の冒頭陳述によると、「法人の山一」とよばれた同証券は、事業法人から直接資金を預かり一任勘定で運用するなど、いわゆる「ファンド」営業を展開していたが、株式相場の急落以降、膨大な損失を抱え込んだ。行平被告らは、この巨額の含み損を「顧客企業との取引で評価損を生じた場合、決算で損失が表面化しないよう決算期の異なる企業間で含み損のある有価証券を転売する=飛ばし」方式で粉飾決算を重ね、約3500億円の簿外債務を発生させ会社を破綻に追い込んだ責任を追及された。この山一証券破綻の核心である飛ばし処理について、大蔵省の証券局ぐるみの指導・助言があったとの疑惑がある。

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4大証券会社

山一證券、野村証券、日興証券、大和証券の4社をさす。大戦前は山一がトップ企業。のち、山一は野村に抜かれ、日銀特融を受けてから以降は4番手の位置を拝することに。

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日銀特別融資(日銀特融)

1996年本誌掲載。以下、

日銀法25条に基づいて実行される特別融資。日銀から民間銀行など取引金融機関への貸出しは、通常は国債などの担保をとって、公定歩合の金利で貸し出される。しかし特融の場合は「無担保・無制限」で実行される。国の一般会計と別であるため、同じ公的資金の支出でも、国民の損失がはっきりと表明に出にくい。1995(平成7)年8月、コスモ信用組合の経営破綻で、65年の「山一特融」以来、30年ぶりに日銀特融が発動された。

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山一体質

1999年版本誌掲載。以下、

経営破綻した山一証券の企業体質。一部のトップが強大な人事権を握って社内を自在に操り、監査役など社内チェック機関は機能不全、批判せぬ社員ほど出世するという日本型企業の典型。「日本企業はトップの意向をそのまま容認する内務官僚タイプの社員が権力を握っていく傾向が強い。一方、欧米の企業は取締役候補指名委員会という一般株主などが加わった外部の機関が役員を選び、社外からの役員も多数重用されている。このような健全な社内チェック機能があれば山一のように粉飾決算を長年にわたって隠し続けるといったことは不可能だろう」と経済評論家内橋克人氏。

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野澤正平

1938(昭和13)年、長野県生まれ。1964(昭和39)年に法政大学経済学部卒業後、山一證券入社。新宿西口、名古屋、大阪の各支店長を経て97(平成9)年8月、三木淳夫社長の後任として同社代表取締役社長に就任。わずか3カ月後11月に廃業決定の会見を開き、99年に社長職を退任。その後シリコンコンテンツ社会長などを経て、2004年よりセンチュリー証券(株)社長として証券業界に復帰した。

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「社員は悪くありませんから」

1997(平成9)年11月、自主廃業決定時の記者会見の終わりに野澤社長(当時)は突然立ち上がり、号泣しながら「社員は悪くありません。どうか1人でも多くの再就職先が見つかるように応援してください」と発言。多くの山一マンの行く末を案じる旨の発言をした。野澤が社長に就任したのはその年の8月。総会屋に対する利益供与事件の責任をとり、当時の役員が全員辞任したため、急遽就任を要請されてのことだった。また、2600億円にも上る簿外債務の「飛ばし」のことを知らされたのは、社長就任後のことであったことなどから「全ての責任を押し付けられた社長」とのイメージを抱く向きも少なくなかった。

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「飛ばし」方式

1993年版本誌掲載。以下、

(飛ばし) 時価が取得価格を下回り、含み損ないし評価損が生じている有価証券を保有している企業が、決算期末に損失を表面化させないように、決算期の異なる他の企業にその有価証券を時価に近い価格で転売すること。証券会社が仲介し、売買を成立させるのが一般的である。

証券会社は有価証券を買い受ける企業に対して、あらかじめ、次の転売先の紹介や、保有期間に応じた金利分を上乗せして買い戻すことを約束してから売買を成立させる。株価が安定的に上昇しているときは転売先を見つけやすいうえ、いったん発生した有価証券の評価損もいずれ消えてしまうため、「飛ばし」は表面化しなかった。しかし、90年以降、株価が長期下落局面に入ると、新たな転売先が見つからなくなり、「飛ばし」を引き受けた企業が証券会社に対し損失を穴埋めするよう訴訟を起こすケースが相次ぎ、損失補てんとともに社会問題化した。証券会社が顧客と和解または調停が成立した分の支払金額は判明しただけで合計1775億円にのぼり、各社の収益を圧迫した。「飛ばし」事件の責任を問われ経営トップが退任する証券会社もあった。

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自主廃業

1999年版本誌掲載。以下、

1997年11月22日土曜日、山一証券の「自主廃業」をスクープした日経新聞は新聞協会賞を受賞した。たちまちこの耳慣れない言葉が流行語になったが、大蔵省がいうように山一が債務超過でないなら、なぜ会社を止めなければならなかったのかと誰もが疑問に思った。損を隠した簿外債務はいわれたように2648億に留まらなかった。が、その後、銀行間で資金を融通し合うインターバンクや、コール市場の存在を知るにつれ、山一に起こったことは「信用収縮」だったとわかる。記者会見の席で野沢正平社長は号泣し、「恥ずかしい」といわれたが、後になって別な見方も生まれた。危ない金融機関は、外資の噂で攻撃され、格付け機関がそれを裏付け、安く買いたたかれる。これは、アメリカの謀略だ、という説だ。ならばあれは悔し涙だったのかもしれない。

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