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大人の総合学習「日米安保の55年」
執筆者 畑江 嘉門

大人の総合学習「日米安保の55年」

2プラス2

日米安全保障協議委員会は、日本と米国がお互いの国や世界の安全保障を話し合う会議です。日本からは外相と防衛庁長官の2人、米国も国務長官と国防長官の2人がメンバー。日米が2人ずつ参加することから、「2プラス2」と呼ばれています。この話し合いは毎年開かれているわけではなく、重要な問題を話し合う必要がある時に開かれます。例えば1996年の2プラス2では、沖縄にある米軍基地の縮小を進めるための「日米特別行動委員会の合意」をまとめました。

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日米安全保障条約  Security Treaty between Japan and the United States

そもそも日本と米国の安全保障に関する条約、いわゆる日米安保は、1951年の9月に発効した日米安全保障条約が始まりです発効は52年4月。この条約を改訂したのが、60年6月に成立した新しい日米安全保障条約です。この60年の「新安保」は日本の安全と極東の平和のために結ばれた、日米間の軍事関係を定めたものです。日本の外交政策の基軸である日米関係の唯一の法的な根拠で、日米間の協力関係を示す象徴とも言われます。「新安保」当時、東西冷戦下だったため「ソ連の脅威」が目的にされましたが、ソ連邦の崩壊、冷戦終結後に北朝鮮を含むアジア太平洋地域での具体的な日米協定の必要性が両国で確認されました。そして1996年6月の橋本龍太郎首相とクリントン大統領との会談後に署名されたのが日米安保共同宣言です。

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安保反対闘争

1960年、日米安全保障条約の改定をめざしていた当時の岸内閣は、1月19日ワシントンで新安保条約、「施設、区域、アメリカ軍の地位に関する協定」などに調印しました。「新安保」は、自衛隊の強化、極東の範囲、米軍の行動や装備(核持込み)の変更に際しての事前協議などの問題があり、国民的な反対運動がわき起こっていました。国会では1960年2月より審議が開始されましたが、国会内外の「安保反対」運動の激化で難航し、ついに5月19日から20日未明、衆議院本会議は、安保改定を強行採決。抗議のデモが連日国会周辺を取り巻き、6月15日には、全国で580万人がデモに参加。この日、全学連主流派が国会突入をはかり警官隊と衝突。しかし「新安保」は、33万人が徹夜で国会を包囲するなか、6月19日午前零時を期して自然承認されました。

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日米安保共同宣言

1996年6月のの日米安保共同宣言は冷戦後の日米安保条約をどのように位置づけるかが焦点になり、「日米安保再定義」ともいわれましたが、冷戦後においても日米同盟関係の維持・強化が、アジア太平洋地域の安定にとって不可欠だと再確認される内容でした。また、日米両政府は安保共同宣言に基づき、日本防衛などに関する協力のあり方を定めた「日米防衛協力の指針」(ガイドライン)の見直しを進め、97年9月に新ガイドラインを決定しました。新しいガイドラインでは、<1>平素から行う協力、<2>日本に対する武力攻撃に際しての対処行動、<3>日本国周辺事態の協力−など具体的なケースを挙げてどのような協力が必要かが示されています。当時、国会では「周辺事態」の解釈をめぐってさまざまな論議が交わされました。このように日米安保体制はと、東西冷戦時代の旧ガイドライン(1978年策定)から、冷戦終結後の現在の共同宣言と新ガイドライン(97年策定)へと、時代の要請に応じて変化してきました。

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在日米軍再編

日本には約4万人の在日米軍が配備されています。在日米軍再編をめぐる日米協議は、2005年初めから本格化しました。ここでは安全保障認識や戦略目標についての協議が進められ、05年10月には具体的な日本の米軍再編の中間報告が決定しました。在日米軍の再編協議を通じて、日米両政府が目指しているのは「ポスト9・11」の安全保障環境における、日米協力のための新しい指針の作成です。米国は外国に置いている軍を減らし、自分の国をしっかり守る方針に変えたのです。米国に対する世界規模での後方支援活動や台湾海峡有事の際の共同対処のあり方について協議が本格化し、日米同盟は新たな段階に入りました。06年3月の最終報告とともに進められるガイトラインの見直しでは日米同盟関係の強化、日米が地球規模で安全保障環境の改善に取り組むために協力関係を強化する方針が打ち出されるといわれています。

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トランスフォーメーション  Transformation

米国が進めている軍の変革。ブッシュ大統領は2004年8月16日に国防戦略を大きく転換するとの考え方を公式に表明し、「今後10年間に世界に展開している6万から7万人のアメリカ兵を帰還させる」と発表しました。現共同宣言と新ガイドラインの見直しは、2001年9月11日の米同時多発テロに伴い、中東から東アジアまでの「不安定の弧」を見据え、テロ集団や大量破壊兵器の拡散といった「新たな脅威」に対抗するため、米国が進める「トランスフォーメーション」つまり「世界規模の在外米軍再編」と深く関連したものです。

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不安定の弧

米国が米中枢同時テロ後に公表した国防戦略見直し(QDR)に盛り込まれた安全保障環境の認識。日本を一つの中心にした北東アジアから中東にかけての弧状の地域、そこでは大規模な軍事競争が起こりやすいとされ、もはや協力しなくなった欧州(NATO)に代えて、在日米軍再編で日本を重要な戦略拠点と位置付ける背景となっている。

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米軍再編の中間報告

在日米軍再編についての「中間報告」が2005年10月29日に発表されました。その内容は、世界のどこかで戦争が起きた場合、米国からすぐ軍が駆けつけられるよう、スピードの速い飛行機や船を開発。それと同時に、日本の「同盟国」に武器や軍事施設を置き、自衛隊の飛行機で輸送してほしいというものです。 米国は、軍隊を指揮する「司令部」を日本に置きます(米軍司令部の移転)。神奈川県のキャンプ座間や、東京都の横田基地にできる米軍司令部では、自衛隊の司令部も一緒になって活動する予定で、実現すれば米軍と自衛隊の一体化が進むことになります。 さらに、神奈川県の厚木基地の戦闘機約60機が山口県に移動。沖縄の普天間飛行場は、キャンプ・シュワブ沿岸に移ることが決まりました。 新たに米軍が移ってくる地元からは強い反対があるほか、自衛隊と米軍の一体化についても、その目的や協力の在り方に疑問や反対の声が上がっています。

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米軍司令部の移転

米軍は、米ワシントン州にある陸軍第1軍団司令部をキャンプ座間へ移設し、横須賀基地に本拠をおく海軍第7艦隊への原子力空母配備も進めようとしています。在日米軍基地を、中東から東アジアにいたる「不安定な弧」で作戦行動を遂行する海軍・陸軍・空軍・海兵隊統合の出撃司令基地として再編・強化しようと考えているようです。横田基地にはグアム第13空軍司令部が移り、これらを通じて、在外米軍有数の司令部機能が日本の首都圏・東京に集中することになります。

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