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事故災害とその周辺のことばを振り返る用語集

日本の主な鉄道事故とその周辺のことば

八高線列車衝突事故

1945(昭和20)年8月24日 、国鉄八高線の小宮駅と拝島駅間の多摩川鉄橋上で上り列車と下り列車が正面衝突。確認されただけでも105人が死亡。当日は暴風雨のためにダイヤが大幅に乱れ、タブレットの受け渡しもうまくいかず、また駅間の連絡も電話の故障により困難な状況であった。そのような中で連絡ミスが生じ、拝島駅と小宮駅の両駅から列車を発車させてしまったことが衝突事故に繋がった。

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タブレット

単線の鉄道において、衝突事故を避けるためにやりとりされる輪っか状のもの。このタブレットを所持する列車だけが線路を通行するという取り決めをしておき、同一区間に複数の列車が混在しないようにする。駅間で連絡を取り合い、収納してある機械から取り出して使用する。

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八高線列車脱線転覆事故

1947(昭和22)年2月25日、国鉄八高線の東飯能駅と高麗川駅の間で脱線、転覆事故を起こした。列車は買出し客などで満員だったこともあり、184名の死亡者を出す大事故となった。下り勾配での速度超過が原因とみられる。

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国鉄戦後5大事故

桜木町事故洞爺丸事故紫雲丸事故三河島事故鶴見事故を指していわれる。国鉄(JR)は鉄道だけでなく海上航路も持っているため、この5大事故にも二つの船舶事故が数えられている。

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桜木町事故

1951(昭和26)年4月24日、国鉄京浜線桜木町駅構内で発生した車両火災。死者106人、負傷者92人。

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洞爺丸事故

1954(昭和29)年9月26日、青函連絡船「洞爺丸」が台風15号(洞爺丸台風)により沈没。1155人が死亡。当時世界第2位の海難事故となった。

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青函連絡船

1908(明治41)年に青森と函館を結ぶ連絡船として就航。青函トンネルの開通に伴って廃止(1988(昭和63)年)されるまでの80年間、津軽海峡を往来した。

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紫雲丸事故

1955(昭和30)年5月11日、宇高連絡船「紫雲丸」が貨物船の「第3宇高丸」と衝突し沈没、死者166人、負傷者122人。修学旅行中の小学校・中学校生が多数死亡した事も世間の非難を買った。

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宇高連絡船

岡山県玉野市宇野と香川県高松市を結ぶ国鉄・JRの連絡航路。1988(昭和63)年4月に瀬戸大橋が開通するまで、四国と本州を結ぶ中心交通網として重宝された。現在ではすっかり市民権を得た感のあるさぬきうどんだが、この船の船尾デッキにの立ち食いうどん店は帰郷する人びとを中心に、多数のファンがいたことも知られる。

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三河島事故

1962(昭和37)年5月3日、常磐線三河島駅構内で起きた脱線・衝突事故。貨物列車が赤信号を見落とし、脱線したところに上下列車が相次いで衝突。一部車両は高架からがけ下の商店に落下し、また線路上を避難中の乗客に後続車両が衝突するなどして死者160名、負傷者325名を数える大惨事となった。この事故をきっかけに、国鉄はATSの整備を急ピッチで進めた。

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鶴見事故/競合脱線

1963(昭和38)年11月9日、国鉄東海道線の鶴見駅と新子安駅の間で下り貨物列車が脱線転覆したところへ、横須賀線上り電車が衝突。161人が死亡、120人が重軽傷を負う事故となった。事故原因は単独要因によるものでなく、車両の老朽化や過積載、過密ダイヤなどの要因が絡み合った競合脱線とされた。

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過密ダイヤ

1965年版本誌掲載。以下、

列車と次の列車との間隔が詰まったダイヤ(時間表)編成をいう。国鉄は線路容量(1本の線路で列車の走れる回数)の許す最大限で輸送力の増強を図ろうとしているため、必然的にダイヤが過密化する。1963(昭和38)年11月9日、死者161名を出した鶴見事故もこの過密ダイヤが一因となっているといわれる。

※編集部註:「過密ダイヤ」ということばはこの頃から使われるようになったといわれる

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北陸トンネル火災事故

1972(昭和47)年11月6日、大阪発青森行きの夜行急行「きたぐに」が、福井県敦賀市と南条郡南越前町にまたがる北陸トンネル内において食堂車から出火。死者30名、負傷者700人以上を数える事故となった。この事故で急行列車の食堂車廃止、難燃性車体の導入が進んだといわれる。

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信楽高原鉄道事故

1992年版本誌掲載。以下、

滋賀県甲賀郡信楽町の信楽高原鉄道で、1991(平成3)年5月14日昼前、同鉄道の普通列車と、乗り入れているJR西日本の快速臨時列車とが単線上で正面衝突して脱線。両列車の乗客約600人のうち、信楽鉄道の渕本茂運転手(51)ら死者42名、重軽傷者454名の大惨事となった、死傷者の殆どは、「く」の字に折れ曲がったJRの快速列車の客だった。待避線で双方の列車が並行して始めて信号が青になる「特殊自動閉塞信号機」と、青にならなければ先に進めないATS(自動列車停止装置)との二重の安全装置がどういうわけか作動せずにJR列車が単線路を進行、一方の信楽鉄道も、信楽駅で信号故障があって遅れ、赤信号で発車してしまった。しかも不測の事態を想定した列車間の連絡体制が設定されてなかったなど、数々の不備と安全運転意識の欠如が事故を発生させた。信楽鉄道は同県始まって以来の大イベント「世界陶芸祭」を控えて、輸送力の増強を迫られ、この3月、単線に待避線を増設、JRの臨時列車を入れたばかり。大盛況だった陶芸祭は、この事故で打ち切られた。

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世界陶芸祭

1991(平成3)年、滋賀県立陶芸の森(滋賀県甲賀郡信楽町)の完成を記念し、また陶芸の森から世界への情報発信などを目指して「世界陶芸祭 セラミックワールドしがらき '91」が開催された。開催期間中に起きた信楽高原鉄道事故により、会期半ばにして打ち切られてしまった。「陶芸の森」は、やきものを題材にした多機能公園として、また情報の交流や発信、地域産業の振興などを目的に整備され、90年に竣工した。管理運営は「財団法人滋賀県陶芸の森」の手による。

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営団地下鉄日比谷線衝突事故

2000(平成12)年3月8日、営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線中目黒駅手前で北千住発菊名行の列車が脱線し対向列車と激突。死亡者5名、負傷者63人を出す事故となった。運輸省事故調査検討会が発表した報告によれば、摩擦係数の増大や台車の空気バネの状態など複数の要因が絡み合った競合脱線とされた。

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富久信介杯

2000(平成12)年3月に起きた営団地下鉄日比谷線の事故で亡くなった麻布学園の高校生、富久信介君が通っていたボクシングジムが開催した追悼ボクシング大会。信介君の父親がお世話になったジムへ寄付を申し出たが、ジム側は「消耗品である用具などに大事なお金を使うことはできない」とし、後世に名を残す意味も込めて追悼試合を行った。毎年の年の瀬に開催され、04年までに5回開催されている。

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福知山線脱線事故

2005(平成17)年4月25日、JR福知山線(宝塚線)の塚口駅と尼崎駅間で脱線事故が発生。死者107名、負傷者は500名を越す大事故となった。尼崎駅へ向かう列車が、塚口駅通過後の急カーブ(半径300m)へ70km/hの制限速度を30km/h以上も上回るスピードで突入して脱線。先頭の2両が線路脇に建つマンションに激突した。

また、事故発生直後にJR西日本関係者が宴会やボーリング大会に参加したことなども非難の対象となったり、一般乗客によるJR職員への嫌がらせや暴行などが問題視されるなど、社会的影響は甚大なものとなった。

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日勤教育

JR西日本では、運転士が事故または事故に至らないミスを犯し、運転士の再教育が必要と判断した場合「日勤勤務」を指定し、「日勤教育」とよばれる再教育が行われていた。安全性の向上等を目的とした教育とされているが、実質的には見せしめ的、懲罰的な内容であったとされる。福知山線の事故は、この日勤教育をおそれ、安全確保がおろそかになったためではないかという見方もある。

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