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「責任者出てこい !! 」 というコラム(・・・人生幸朗に捧ぐ)
執筆者 土屋彰久

「責任者出てこい!!」

責任

責任とは、一定の規範に基づいて、行為主体がなんらかの義務を負うような地位、あるいは、実際に負っている義務の総体を意味する言葉です。なにやら、不必要に難しい表現ですから、簡単な言い方に直して説明しましょう。

まず、何らかのルールの存在が必要です。それは、公衆道徳のように強制力もなく漠然とした物であってもよいのですが、このルールがなければ、責任は発生しません。なぜなら、ルールがなければ、責任の元である義務が発生しないからです。ですから、このルールが法律であれば、最も厳格な法的責任となりますし、道徳や道理であれば道義的責任、社会の基本原則であれば社会的責任となります。そしてこのルールは、様々な立場の人の権利と、その裏返しとしての義務を定めているわけですが、こうしたそれぞれの立場から生じる様々な個別の義務について、すでに発生した物も可能性はあるがまだ発生していない物も全部ひっくるめて、ひとまとめにしたものが、「責任」となります。

つまり、特定の立場に関連する様々な具体的な義務をまとめて、抽象的な言葉で表したものが責任というわけです。だから、「責任」という言葉が、抽象的で漠然としていてわかりにくいのは当然なんです。まさに、そのような言葉として成り立っているわけですから。ですから、「具体的な責任」というは、言葉としてはあり得ますが、実質的には具体的な義務を意味することになります。

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責任逃れの「責任」

責任という言葉は、本質的に抽象的な言葉であるため、その意味内容の曖昧さで話の焦点をぼかしてしまう効果があります。当事者の間で責任の有無については争いがなくとも、その中身については、それぞれに考えていることが食い違っているというのは、よくあることです。

たとえば、女性の側が「できちゃったから責任取ってよ」と迫り、男性の側は、「も、もちろん責任は果たすよ」と答えたとしても、女性が念頭に置いている責任の取り方は結婚で、男性の側は、中絶費用の負担だったりします(逆のケースで、金を巻き上げられた上に殺された、気の毒な男性の例もあります)。そのようなわけで、本当は明確な具体的義務を負っているにもかかわらず、あえて「責任」という表現を使うことで、追及をのらりくらりかわすという場合も、当然あるわけですね。また、頭に何も付けずに、漠然と「責任」と表現することで、それが具体的にどんなルールに基づくものなのかわからなくしてしまう効果も発生します。

責任、責任と、与野党で呼び交わしている間に、法的責任がいつの間にか政治的責任に変わってしまう三文手品は、日本政界の伝統芸です。

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法的責任

責任の中で、最も厳格なものが法的責任です。また、その中で刑法関係は刑事責任、民法関係は民事責任、行政法関係は行政責任というように、その法的性格によってさらに分けられています。法的責任は、一つ一つの法的義務が集まった総体を言い表す言葉で、これらの具体的な義務に完全に分解できるものなので、その他の責任のように漠然としたものではありません。そして、これらの義務は全て、原則として裁判を通じて追及できるものなので、なかなか逃れることは大変です。ですから、この法的責任の追及から逃れるためには、別の責任にすり替えることが必要で、実際によく行われています。まったく、自分達が作った法律なのに、議員のみなさん、その法律の適用を受けるのは大っ嫌いなんですね。

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責任の中身のすり替え

議員、官僚、役所といった公務員、公機関の仕事は、法治国家日本では、全て、法律に基づくものなので、彼らが負っている責任は基本的に法的責任なのですが、汚職などの不祥事が起こると、それをお互いにかばい合うために、まるで法的責任ではない別の責任のように扱うことがほとんどです。

国民の目であり、耳であるはずのメディアも、お持たせ情報の垂れ流しで、故意、過失含めてそうしたすり替えのイメージ操作に協力するために、本来、追及さるべき法的責任がなおざりにされて、誰か、わかりやすい「責任者」がスケープゴートになり、辞職などの道義的な責任の取り方をして、それで幕引きということがよくあります。

たとえば、刑法をまっすぐ適用すれば、北海道警の裏金スキャンダルは、詐欺、横領、ないし背任の完全な刑法犯で10000%有罪と言ってもよい事件なのですが、実際には、様々な責任のすり替えや居直り、ほっかむりで、その刑事責任はほとんど追及されていません。

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スケープゴート

元々は旧約聖書の故事に由来する言葉で、「贖罪の日」に人々の罪を背負わされて野に放たれた山羊のことを指し、「贖罪の山羊」という日本語が当てられています。現在では、その転じた意味、すなわち、他人の、あるいは全体の罪を一身に背負わされ、罰(刑罰のような法的制裁から、毎度おなじみの「社会的制裁」まで、その内容はバリエーションに富む)を喰らわされる人の意味で使われることが圧倒的に多くなっています。さらにそのような用法の延長として、たとえば環境破壊の真の原因を隠すために、業界に雇われた御用学者が、時間稼ぎに適当なこじつけでウソ原因をでっち上げるケースなど、人以外の様々な物についても、比喩的に言われることがあります。

スケープゴートの困ったところは、本来、罰せられるべき、あるいは告発されるべきものがそのまま放置されるところにあり、このために水俣病の原因究明と対策も遅れました。つまり、人々は今も罪を背負いまくっているということで、このことからも、元祖スケープゴートは、本当は罪など背負ってくれず、罪に汚れた人類を見捨てて、無垢のまま野に逃げていったものと推測できます。

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逃げたい責任ランキング

法的責任の中でも、一番恐れられているのは、お察しの通り、刑事責任です。これをきっちり追及されるということは、容疑者、刑事被告人、そして受刑者になるということ、まあ、平たく言えば犯罪者として扱われるということなので、選挙に勝てばどうなるというものでもありません。ただ、よっぽどの大物になってくると、刑事訴追の権限の大元を握っている法務大臣が「指揮権発動」というのをやって、無理矢理助けてくれることもあります。

次に逃げたいのは、民事責任です。一見、刑事に比べれば大したことなさそうにも見えるんですが、自治体の首長など、他人の金を大量に使えるポストの人間が、在任中の失政で自治体などに与えた損害について賠償責任が認められるケースというのが、市民オンブズマンなど、行政の不正を監視する市民団体の活躍で、最近増えてきており、これがきっちり認められると、個人破産必至の高額賠償となることもあります。命よりも金が大事なくらいの人々にとっては、こっちの方が脅威とも言え、この高額賠償を避けるためにも、みなさん、政治的責任へのすり替えと矮小化に腐心するわけです。

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「指揮権発動」

この言葉は、一般的な国務大臣による指揮監督権の行使のことを指しているわけではありません。「指揮権発動」というのは、特殊な歴史的経緯から、法務大臣の職務権限による検察行政への介入を意味する言葉として定着しています。

事の起こりは、1954(昭和29)年の造船疑獄、造船会社山下汽船を巡る汚職事件が当時の保守政界を揺るがす一大疑獄事件に発展。自由党幹事長、佐藤栄作の逮捕許諾請求が犬養健法相に提出されましたが、犬養法相がここで「指揮権発動」、逮捕許諾請求の延期を指示しました。結局、犬養法相は「政治的責任」を取って辞任しましたが、佐藤幹事長は逮捕を免れ、刑事責任の追及には至りませんでした。こうして、悪しき先例が出来上がってしまったために、以後、疑獄事件が発生するたびに、「指揮権発動」が取り沙汰されるようになったというわけです。

ただ、一発目があまりに露骨でお粗末な代物であったため、以後、ここまであからさまなやり方は繰り返されず、検察当局と政権幹部との折衝は、水面下でこそこそと行われるようになっています。

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行政責任

厳密には法的責任の一種なんですが、性格的には政治的責任に近いところもあり、実質的には両者の中間に位置しているのが行政責任です。

行政は、他の法律上の行為と異なり、現場の状況に柔軟に対応する必要性が高いため、その法律上の権限の行使について、担当者には広範な裁量と免責が認められており、よほどの悪事を働かない限り、担当者個人の責任が徹底的=法的に追及されることはありません。そのようなわけで、組織的にほどほどの悪事を働く限り、それが国家財政や国民生活に大打撃を与えたとしても、せいぜい組織のトップが、政治的に責任を取る(辞任して、ほとぼりが冷めた頃に、何食わぬ顔で関係機関・企業の天下りポストに納まる)だけで終わりです。

たとえば、バブル崩壊とその後の長期絶不況の元凶であるバブルを作り出し、放置した、大蔵官僚をはじめとした当時の関係者は、誰一人として、いかなる形でも責任を取っていませんし、でたらめな計算と放漫経営で国民年金を破綻させた厚生労働省、社会保険庁の関係者も同じです。

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アカウンタビリティー

最近、行政機関の責任に関して、アカウンタビリティーという言葉がよく使われます。日本では、「説明責任」とか、「応答責任」などと説明されていますが、これはインチキです。アカウンタビリティーというのは、そもそも、包括的な行政責任を表す言葉で、その中には、賠償、辞任などを迫られることになる、失政に対する責任も当然含まれており、説明責任や応答責任は、そうした包括的な行政責任の一部でしかありません。

逆に言えば、行政機関の責任を追及する場合には、行政責任、あるいはその中の個別の責任を追及すればよいのであって、「アカウンタビリティー」などというカタカナを持ち出す必要はないのです。それを、わざわざこんな新語を持ち出して煙に巻こうとするのは、本来の責任を追及させないためです。行政責任を英語にしたら、アカウンタビリティーになりましたー。アカウンタビリティーを日本語にしたら、説明責任になりましたー。あら、じゃあ、行政機関は説明するだけで、責任を果たしたことになるんですねー、という話の方向に、何の専門知識もない一般国民を誘導したい人々が使っているのが、このアカウンタビリティーという言葉です。

まあ、それ以前は、説明すらしてこなかったという事情があり、それだけでも進歩に見えてしまうからこそ、国民もまんまとだまされてしまうということもあるにはあるのですが。

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無責任国家

行政責任は、本来、他の法的責任に準じて、厳しく追及されなければいけない責任なのですが、日本では、政官のかばい合いの構図によって、大甘の扱いを受けています。それを可能にしている物は、まともな政権交代がないこの国の政治文化です。

行政責任は、実は担当の官庁の現場の担当者の責任から、その上司、またその上司と監督責任の連鎖が、最終的には指揮監督権を持つ担当大臣の監督責任、そしてその大臣を任命した首相の任命責任と、末端の役人から首相までつながっています。ですから、このような行政責任の果たし方の現状について不満があるなら、国民は、選挙の際の一票でその意思を表明する他はなく、その結果、政権が再び信任されたとなれば、このやり方で文句はないものと見なされても仕方ないとも言えます。

ちなみに投票に行かないのは、本当の理由とは無関係に、「異議も不満も一切なし」の現状肯定の一票としてカウントされるので、無責任体質を強く支持しているものと見なされます。

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政治的責任

あまたの責任の中で、おそらく最も都合よく使われてきたのが、この政治的責任でしょう。政治家が何か不祥事を起こすと、メディアはいつも大喜びで集まってきて、責任の取り方を問い質します。政治家の方としても、頭から「責任は取らない」などと不遜な態度を取ると、ネタ不足に悩むメディアが格好のエサとばかりに飛びついてくるので得策ではありません。そこで、「責任は取るつもりだが、その取り方を考えている」ということにして、まずは時間を稼ぎ、ほとぼりが冷めるのを待ちます。これで、運良くどでかい事件でも発生すれば、みんな忘れてくれるのですが、そうそううまくもいかないので、メディアは、「どのような責任の取り方をするんだ」と追及してきます。そこで、「政治的責任を痛感している」と答えます。これは、「どのように?」という質問に答えていないので、国語的には間違いなのですが、メディアは端から「責任取って辞めます」の答えを期待して、というか、なかば催促しているわけですから、そんな迎え船に乗るわけにはいきませんので、ここは政治的責任を取るという点だけを強調して、お引き取り願います。

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政治的責任の逆意と真意

政治的責任を明言するというのは、一見、潔さそうに見えることもありますが、それは同時に、法的責任、あるいは行政責任ではない、すなわち、そっち方面の責任はないという形を変えた居直り宣言でもあります。ところが、メディアも対抗勢力も、そこらへんの追及は下手で、本人が「責任を取る」というので、目の前にちらつくそっちのエサに食いつくばかりで、本当に痛いところはなかなか突けません。あとは、時の運の他にも、時間、援軍といった様々な要因によって、この政治責任の中身を巡ってのせめぎ合いの帰趨が決まります。攻め方が完全勝利すれば、その政治家は何の引き換えもなく、政治生命を絶たれますし、逆に、守り方が完全に守りきれば、「有権者の判断を仰ぐ=普通に選挙に出る」というのが具体的な責任の取り方となり、それで当選すれば、「禊ぎ」は済んだということで、あとは大威張りです。

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禊ぎ

禊ぎというのは、基本的には自民党の文化です。自民党の政治は、「穢れた」利権政治が基本なので、何かのきっかけでそうした実態の一部が表沙汰になってしまった場合、関係者は禊ぎをしなければ(政治的責任を果たさなければ)、政治の表舞台には復帰させてもらえません。逆に言うと、禊ぎさえ済ませれば、またそれで、何事もなかったかのように復帰させてもらえるということです。

そもそも、みんな穢れていることはお互いにわかっているのですが、メディアの批判もあるし、そのせいで浮動票が野党に流れてしまっても困るので、ホンネ丸出しというわけにもいきません。そこで、民主主義政治において、もっとも「神聖」なものとして祭り上げられている選挙という神事を経ることで、「心からの反省を有権者の皆様にご理解いただき、もう一度、国政の舞台で国のためにがんばってこいとの御支持をいただいた(=選挙ってのは、勝てば官軍なんだよ。負けた奴が文句言うんじゃねえ)。」という体裁を整えるわけです。みなさん、明日は我が身という意識も手伝って、禊ぎを経た政治家は、「逆境に耐えて、よく頑張ったっ!!感動したっっ!!」てな具合に、非常に暖かく迎えてもらえます。

利権で結びついた組織が身内に甘いのは当然ですが、それを国民まで見習っていては、バカにされるのも当然と言えましょう。選挙の時だけは、神と崇められる有権者ですが、神様なら神様らしく、祟る時にはきちんと祟ってバチを当てておかないと、子どもにすらナメられるというのは、これ、神様の世界の常識です。

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