月刊基礎知識
月刊基礎知識トップページへ バックナンバーへ
こんな時代もありましたの用語集
 

国際政治キーパーソンの時代

ヘーゲルがナポレオンを「馬上の世界精神・・・」と称したという古びた例を挙げるまでもなく、強力な個人が時代を作る場合がある。日本ではなかなかそういうことはないけれど。

キッシンジャー時代

1976年版本誌収録。以下、

ヘンリー・A・キッシンジャーは1969年以来、大統領補佐官としてニクソン政権の対外政策を事実上左右する地位にあった。第1期ニクソン政権の対外政策における主要な成果とされる対中・対ソ緊張緩和も、あるいはベトナム休戦も、キッシンジャーに負うところ大であった。その後、73年9月にキッシンジャーは大統領補佐官のまま国務長官に就任し、名実ともにアメリカ外交の中枢を占めることになった。かくてアメリカ外交は、キッシンジャー時代を迎えたことになる。

キッシンジャー長官の持つ独特の平衡感覚と現実主義とに対しては、アメリカの内外から大きな期待が寄せられているが、中東和平工作の失敗や南ベトナム・カンボジアの親米政権の崩壊をはじめとして、アメリカ外交は多くの難問に直面しており、その前途にはなお多くの波乱が予想される。

ページの先頭へ 戻る

フルシチョフ時代

11983年版本誌収録。以下、

1953年3月のスターリンの死去から64年10月14日に失脚する11年間を、普通、フルシチョフ時代という。フルシチョフ時代は、非スターリン化、処女地開拓運動による粗放農業、党の二分化(62年)、キューバ事件(62年)、中ソ対立、ハンガリー事件(58年)などによって特徴づけられる。ブレジネフ時代と比較すると、フルシチョフ後半のソ連は、比較的自由化が導入された時期である。現在のブレジネフ政権では、非フルシチョフ化が進み、フルシチョフの写真や書物は、ソ連でみあたらない。

ページの先頭へ 戻る

ブレジネフ時代

1984年版本誌収録。以下、

1964年10月14日、フルシチョフ解任のあとを受けて成立したブレジネフ政権は、18年の長期政権となり、82年11月10日ブレジネフの死去により終焉。タタール自治共和国のナベレジヌイエチョルヌイ市をブレジネフ市に改名して、ブレジネフの功績をたたえた。ブレジネフ時代の18年を便宜上、5年ごとに区分すると、第1期(64〜69年)は、フルシチョフ失脚に協力しあったブレジネフ派、シェレーピン派、ポドゴルヌイ派、コスイギン派の4派角逐の時期。ブレジネフ派(党)とコスイギン派(政府)の暗闘ののち、コスイギン派が勢力を弱め、また、シェレーピン派も凋落が決定的になった。第2期(69〜74年)は、ブレジネフ派とポドゴルヌイ派が激しく抗争した時期。第3期(74〜79年)は、ブレジネフ派が急成長した時期。チェルネンコやゴルバチョフ派が台頭。第4期(79〜82年)は、コスイギン、スースロフの死去により、ブレジネフのワン・マン体制が確立し、集団指導体制が形骸化した。

ページの先頭へ 戻る

アンドロポフ時代

1985年版本誌収録。以下、

1982年11月10日、ソ連共産党書記長兼国防会議議長兼最高会議幹部会議長エリ・イ・ブレジネフが動脈硬化症と心筋梗塞症で死去(満75歳と11ヶ月)し、同年11月12日の緊急会議で新書記長にユ・ヴェ・アンドロポフが推挙され、アンドロポフ政権が発足した。

83年5月9日には、アンドロポフが国防会議議長であることも判明(ウスチノフ論文)、そして83年6月16日に最高会議幹部会議長に選出された。

アンドロポフは14年6月15日、スタヴローポリ地区の鉄道員の息子として生まれる。39年入党、40年カレロ・フィン共和国のコムソモール第1書記、51年党中央委の専従アパラチキ、53〜57年ハンガリー大使(ハンガリー事件当時)、57年党中央委の部長、61年党中央委員、62〜67年党中央委書記、67〜73年政治局員候補、73年4月以降政治局員。一方、67年5月〜82年5月の15年間KGB議長。82年5月以降、古巣の書記局にもどる。この段階で、アンドロポフは、ブレジネフの後継者として注目されるようになった。

腎臓病の悪化により、84年2月9日に死去。1年と3ヶ月の短命政権で終わった。

ページの先頭へ 戻る

チェルネンコ時代

1986年版本誌収録。以下、

カ・ウ・チェルネンコは1911年生まれ。1984年2月のアンドロポフの後を受けて書記長に選出された。48〜56年モルダビア共産党中央委員会宣伝・情報部長。そこでブレジネフ書記長の知遇を得る。長年、ブレジネフの私設秘書のような仕事をやり、76年党中央委書記。77年の同政治局員候補。78年同政治局員とトントン拍子に上昇。82年ごろには、アンドロポフとポスト・ブレジネフの座を争った。政権についてからは病気がちで、これといった政治色を出せないで、85年3月11日、肺気腫などにより病死。

ページの先頭へ 戻る

ミッテラン時代からシラク時代へ

1996年版本誌収録。以下、

1981年から95年5月まで2期、14年続いた社会党選出のミッテラン大統領の時代が終わった。ド・ゴール派のシラクが新しく大統領に選ばれ少なくとも7年間、2002年までフランスを支配する。シラクはド・ゴール、ポンピドゥー、ジスカールデスタン、ミッテランにつぐフランス第5共和制第5代大統領である。

ページの先頭へ 戻る

3金時代の復活

1996年版本誌収録。以下、

1995年6月27日、韓国で35年ぶりの統一地方選挙が実施され、注目のソウル市長選挙で野党・民主党の趙淳候補が当選するなど、金泳三大統領の率いる民自党が大きな敗北を喫した。6大都市と九道の市長・知事のうちで、与党が勝利したのは、釜山、仁川、慶尚南北道、京幾道の5つの市長、知事選挙にとどまったのである。他方、金大中氏を事実上の指導者とした民主党は、ソウルの他に、全羅道南北道、光州を制し、金鐘泌氏の率いる自由民主連合(自民連)も大田、忠清南北道、江原道で勝利した。地方選挙であったにもかかわらず、金泳三、金大中、金鐘泌の「3金」の率いる政党が、それぞれの出身地域で圧勝し、全国を地域的に3分割したのである。余勢をかった金大中氏は政界復帰を宣言し、9月5日、民主党主流派議員53名を引き連れて、新たに「新政治国民会議」を結成し、その総裁に就任した。

ページの先頭へ 戻る

アブドラ時代

1997年版本誌収録。以下、

サウジアラビアのファハド国王(首相)は1995年11月下旬脳卒中の発作に襲われ執務不能になった。国王は翌96年1月1日、静養に専念するため公務を暫定的にアブドラ皇太子(第1副首相)に委任するとの勅令を発表した。しかし、約1カ月半後の2月21日、同勅令の解除を発表し、公務への完全復帰を宣言した。もっとも、病気が完全回復したわけではなく、5月下旬には、スペインで「永遠の療養生活」に入るとの噂がアメリカ週刊誌などで報じられた。こうしたことから、ごく近い将来“アブドラ時代”が始まるとの見方が広がった。

ファハド国王は1982年6月、病死した異腹の兄ハリド国王の後を襲って第5代国王に即位した。国王はスルタン殿下(第2副首相兼国防・航空相)、ナエフ殿下(内相)、サルマン殿下(リヤド州知事)ら「スデイリ7人兄弟」とよばれる同腹の兄弟の長男。国王の即位によって「スデイリ7人兄弟」が王室の支配的グループとなった。一方、アブドラ皇太子は国王の腹違いの弟。国王の即位の際、王室内の話し合いで皇太子となり、国王の後継者に決定。またこの際、スルタン殿下が次期皇太子になることも決まった。

「スデイリ7人兄弟」グループの代表者であるファハド国王は親米の近代派として知られる。90年の湾岸危機の際、王室内保守・民族派の不安を押し切って、アメリカ軍主体の異教徒・多国籍軍のサウジ進駐を認めた。一方、アブドラ皇太子は保守・民族派のリーダーとされる。来るべき“アブドラ時代”は民族色を強めるとの見方がささやかれている。

ページの先頭へ 戻る
All Right Reserved, Copyright(C) ENCYCLOPEDIA OF CONTEMPORARY WORDS