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春は新生活が始まる季節――《生活のお手本》のキーパーソンからキーワード
 

暮しの手帖

ライフスタイルのお手本だ。

花森安治

はなもり・やすじ 1911〜1978。雑誌「暮しの手帖」は30年にわたって編集長をつとめた花森安治を抜きにしては理解できない。花森は神戸の貿易商の家に生まれ、旧制松江高校を経て1933年東京帝大美学美術史科に進学。戦前は化粧品会社・伊東胡蝶園の宣伝部、大政翼賛会宣伝部で活躍した。戦後、衣裳研究所の設立に参加し、1946年発刊の「スタイルブック」が同誌の前身となった。

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佐野繁次郎

1900〜1987  洋画家・装釘画家。大阪船場に生まれる。小出楢重に師事し、挿絵や横光利一作品の装釘で売れっ子となる。伊東胡蝶園(→花森安治)で、広告のブレーンを担当し、 1935年、同社の新製品白粉「パピリオ」のデザインを手がけた。この商品は洒落た字体と色彩で人気を博した。同時期、花森は佐野に師事。佐野はのち渡仏し、アンリ・マティスから学んだ。 1939年帰国。装釘や雑誌『銀座百点』表紙(1955〜69)などで活躍した。

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アルチザン

artisan  「職人」を意味するフランス語。花森の資質を表す言葉としてしばしば用いられる。花森はみずから取材し、原稿書き、レイアウト、カット、表紙画、単行本の「装釘」(花森はこの表記にこだわった)などを手がけ、写真にも造詣が深かった。週刊朝日の名編集長で花森の旧友だった扇谷正造は、花森をアルチザンと評価した上で「ダヴィンチもアルチザンだという意味において」と付け加えている。

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大政翼賛会

1940〜1945  国民統制による挙国一致の戦時体制確立を目指した指導組織。花森はその宣伝部で「欲しがりません勝つまでは」「あの旗を射て」といった標語の普及に尽力。この宣伝部は、戦意昂揚と生産増強を主な任務としていた。のちに、この時代を「戦争犯罪をおかした…免罪されるとは思わない」とみずから責め、国に欺かれた苦い経験を繰り返さないように、という決意が後の商品テストにつながっているという。

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大橋鎮子

1920〜  暮しの手帖社の創業者にして社長。日本興業銀行、日本読書新聞勤務を経て、「お金持ちになりたかった」ため、花森や妹たちとともに衣裳研究所を設立(25歳)。「スタイルブック」を経て、1948年「美しい暮しの手帖」(現在の誌名になるのは1954年)を創刊した。結核で父を失った辛さがやがて「暮しの手帖」の医学記事に結びつき、その連載をまとめた単行本「からだの読本」は毎日出版文化賞受賞。編著書に「すてきなあなたに」シリーズなど。

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商品テスト

「暮しの手帖」誌の最大の特色。1954年から開始。鉛筆、マッチといった小物から、洗濯機、掃除機まで、各メーカーが製造している暮しの必需品を独自にテスト、その良し悪しを忌憚なく掲載する。たとえば1960年に行なったベビーカーのテストでは、炎天下、赤ん坊と同じ重さの人形を乗せて、何日もかけて計100キロを歩き、故障の状況を調べるなど、徹底した実証主義で信頼を集め、絶大な影響力をもった。

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水かけ論争

商品テストの権威をさらに高めた事件。「暮しの手帖」では燃えている石油ストーブを倒して火を消すという実験を60回繰り返し、1968年、「石油ストーブの火はバケツの水で消える」と発表。「水は禁物」とする東京消防庁と真っ向から対立。自治省消防庁によって公開実験が行われ、「暮しの手帖」側に軍配があがった。

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扇谷正造

1913〜1992  宮城県生まれ。東京帝大の「帝国大学新聞」で花森とともに編集に情熱を傾ける。卒業後、朝日新聞社に入社。週間朝日編集長時代には、初の100万部発行を達成した。学芸部長、論説委員を歴任後、評論、講演に活躍。著書に「経験こそ我が師」「吉川英治氏におそわったこと」など。「文藝春秋」編集長の池島信平、花森とともに「三羽ガラス」と呼ばれた。

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女装

男が女の衣裳や化粧を使って外見を女のように見せること。花森は、戦後、スカートをはいて銀座を歩いたとか、婦人代議士と対談して最後まで男と気付かれず、「お互いがんばりましょう」と握手されたとかいう伝説には事欠かない。独自の衣裳論と既成観念の打破が目的とされるが、本人はこの件について詳しく語っていない。幅広のキュロットやスコットランドキルトのスカートは実際にはいていたという。

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広告収入

雑誌やテレビなどで、広告を掲載する代わりにスポンサーから支払われる金。雑誌運営上、きわめて重要な収入源といえるが、「暮しの手帖」は広告を載せないことをポリシーにしている。商品批評を公平に行なうためがおもな理由だが、雑誌の隅々まで自分のセンスで仕上げたい花森が、他人の作ったものの入り込んでくることを嫌ったから、という要素もある。

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