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“ハングリー精神のキーパーソンから学ぼう”の用語集
 

ずっと前から偉かった沖縄の人々

大山朝常

おおやま・ちょうじょう 1901〜1999。中頭郡越来村生まれ。現在の沖縄市の基盤を築いた元コザ市(現・沖縄市)長。1925年沖縄師範学校卒業後、教諭、教頭、校長を歴任。戦後、学校現場に戻り、26年間にわたり教育者として活躍した。54年、立法院議員として人道主義的立場から基地問題を糾弾。58年にはコザ市長に当選し、4期16年を務めた。基地の街としてさまざまな問題を抱えながら道路、上下水道、区画整理事業などの施策を展開した。主著に『沖縄独立宣言』(現代書林)

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屋良朝苗

やら・ちょうびょう 1902〜1997。読谷村生まれ。沖縄師範、広島高等師範卒業後、各校の教諭を歴任。戦後は沖縄教職員会会長などを務め、戦災校舎の復興協力を訴え、全国を行脚。戦後沖縄の実情を本土のマスコミ、知識人らに伝えた。1968年、琉球政府行政主席。本士復帰、自冶権拡大運動の先頭に立ち、復帰後、初代知事(1972〜76)となる。無欲・誠実な人柄で県民から慕われ、「沖縄の天皇」などと呼ばれた。

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喜屋武真栄

きゃん・しんえい 1912〜97。北中城村生まれ。46年、文教部視学官となり、各地の学校を訪問して、教育指導にあたる。53年には、屋良朝苗とともに戦災校舎復興募金のため、全国行脚。屋良の右腕として復帰運動に尽力。70年、戦後沖縄初の国政選挙で参議院議員に初当選し、以後5期にわたり、「ミスター沖縄」として国政に沖縄の問題を訴え続けた。「小指の痛みは全身の痛み」の名言で知られる。

沖縄空手をよくし「空手は殺すものではなく、生かすものだ」の言葉を遺している。

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瀬長亀次郎

せなが・かめじろう 1907〜2001。豊見城村我那覇生まれ。戦前には社会主義運動に関わったとして、放校・投獄を経験。46年にうるま新報社長に就任したが、沖縄人民党の結成に参加し、軍の圧力で辞任。54年、米軍の沖縄人民党弾圧事件で投獄。出獄後、56年の那覇市長選で当選(「赤い市長」)したが、市への補助金打ち切りなどの措置に遭い、米軍は布令改定で瀬長を追放、被選挙権を剥奪。その後、70〜89年まで衆議院議員。「カメさん」の愛称で親しまれた。

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大田昌秀

おおた・まさひで 1925〜。

前沖縄県知事。久米島生まれ。41年、沖縄師範学校入学。沖縄戦では米軍の捕虜になる。54年、早稲田大学卒業後、米国のシラキュース大学大学院へ留学、ジャーナリズムを専攻。帰国後、琉球大学教授などを経て、1990年より2期にわたって知事を務める。基地問題に関して、中央に向かって公然と異を唱えるなど、毅然とした発言が目立った。2001年7月、参議院議員選挙に当選。

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具志堅用高

ぐしけん・ようこう 1955〜。八重山郡石垣島出身。高校時代からボクシングをはじめ、卒後、拓殖大学進学を取りやめて協栄ジムに。9戦目にして、WBA世界Jフライ級チャンピオン。13回連続世界タイトル防衛という驚異的な記録を持つ。1981年引退後はボクシング解説者などを務め、95年にボクシングジムをオープン。本土復帰して2年の沖縄から東京にやってきた具志堅にとって、日本はさながら外国。「ヤマトンチュ(本土人)に負けるものか」と思って励んだという。ハングリーな気持ちを忘れず、チャンピオンになってからも上京して最初にはじめたトンカツ屋のアルバイトを続けていたというエピソードも。

沖縄からは、具志堅のあとも、上原康恒、渡嘉敷勝男、新垣諭、友利正、浜田剛史、平仲明信という6人の世界チャンピオンが生まれている。

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喜納昌吉

きな・しょうきち 1948〜。米軍占領下のコザで誕生。父は民謡歌手の喜納昌永。1972年、麻薬不法所持で逮捕され、獄中で問題意識に目覚める。76年、喜納昌吉&チャンプルーズ結成、原発反対コンサートや、沖縄の文化を見つめなおす「うるま祭」「ニライカナイ祭」などのイベントを通じて、積極的に社会へ向けてメッセージを発している。代表曲に「花」がある。2003年2月、イラクでコンサートを開き、話題を呼んだ。

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安室奈美恵

あむろ・なみえ 1977〜。那覇市生まれ。タレント養成学校・沖縄アクターズスクールを経て、92年、スーパーモンキーズとしてデビュー。94年安室奈美恵withスーパーモンキーズとして「トライ・ミー 私を信じて」をリリースし大ヒット。以後ミリオンヒットを連発、ファッションなども注目されて「アムラー」なる流行語まで生まれた。96年、史上最年少で日本レコード大賞を受賞。97年、TRFのSAMと結婚。98年男児を出産するが、02年7月、離婚。90年代の沖縄出身アーティスト全盛の先駆け的存在。

彼女は、貧しい少女時代・ハングリー精神・根性というキーワードで語られる古典的な芸能人であり、アクターズスクール時代、バス代を節約するため自宅からスクールまでの1時間以上の道のりを歩いて通ったというエピソードはあまりにも有名。

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平良とみ

たいら・とみ 1928〜。那覇生まれ。13歳で地元の一座に入団してから芝居一筋の人生を歩む。1971年には劇団「潮」の結成に参加、新旧の沖縄芝居に取り組みながら、ナレーション、ドラマの方言指導にあたる。98年には文化功労賞を受賞。いわば知る人ぞ知る名女優だったが、映画「ナビィの恋」(1999)の主演で一般に知られるようになり、NHKの朝ドラ「ちゅらさん」(2001)で人気を不動のものにした。

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阿波根昌鴻

あはごん・しょうこう 1901〜2002。上本部村(現・本部町)生まれとされる。1925年、キューバへ移民。さらにペルーへの移住を経て34年帰国。敗戦後、伊江島の土地の約六割が米軍に強制接収された際、反対運動の先頭に立った。55年7月から56年2月まで沖縄本島を「乞食行進」して、土地接収の不当性を訴えた。首相や県収用委員会を相手取った軍用地訴訟を提起、また、91年には「反戦地主重課税取り消し訴訟」を起こしたが、98年、敗訴が確定した。

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移民県

沖縄県は、日本有数の移民県であり、世界の全日系人人口約250万人の14%弱を占めている。離島である、産業が乏しい、台風の被害が大きいなど、条件のよくないこの地域から移民が多くでたのは道理なことで、「モーキティクーヨ」(稼いでこい)の声に押され、20世紀初頭のハワイ移民、おって南米移民などが行われた。この時代、移民政策を推進した人物として移民の父・當山久三が知られる。1940年には沖縄県民の10人に1人の割合が海外移民するという率であったが、第2次大戦で頓挫。大戦中、ハワイ在住民などは“敵国出身者”として辛苦の日々を送った。

戦後は、1951年から沖縄群島政府経済部により南米方面への移民事業が再開され、73年まで続けられた。

移民の出身は、主として沖縄本島北部、中頭、島尻。宮古・八重山からの移民はほとんどない。。

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