月刊基礎知識
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“春闘のない”春に読む、働く者の権利についての用語集
 

春闘とは

総がらみ闘争

本誌1959年版収録。以下、

昭和34(1959)年の春闘で計画された新戦術。ゼネストの一種で、ややともするとバラバラになりがちな各単産の闘争を、できるだけ足並みがそろうように、一定の時期に一斉に立ち上がるというのが“総がらみ闘争”である。別名“高原闘争”とも呼ばれているが、これは各単産が同一平面で一緒に闘うところから出たものである。これまでの例によると、一つの単産の闘争が終ったころ他の単産が闘争に入るということになりがちで、そうなると使用者側に与える打撃も分散されて力弱いものになってしまう。そうしたことが自己批判されてこの戦術となったものである。しかし実際問題としては、各単産の特殊事情もあって計画通りには行かなかった。

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高原闘争方式

本誌1964年版収録。以下、

総評が指導するスケジュール闘争の一つの形態。盛り上がりのヤマを短期とせず、長期にわたって闘争力を持続させる戦術。各単産の実力に相違があるので、スケジュール通り目標のヤマ場へ盛り上げることが困難なところから、単産の実情に応じて、ある程度ヤマ場に幅をもたせようというもの。

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春闘相場

本誌1959年版収録。以下、

ここ1、2年間総評春闘のトップ・バッターを承っているのは私鉄である。この私鉄の賃上げ要求がどんな水準で妥結されるかが、他産業の労使双方にとって一つの目安になり、そこから私鉄争議の調停を行う中労委の出すあっせん案の線を“春闘相場”と呼ぶようになった。昭和33(1958)年春闘で中山中労委会長が出した職権あっせん案は、大手13社労組の2500円引上げ要求に対し1000円という線であったが、34年の場合は組合の引上げ要求2000円に対し、示されたあっせん案は1250円と昨年よりも250円方上回っていた。

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アベック闘争

本誌1964年版収録。以下、

昭和32(1957)年の春闘における公労協(国鉄、専売、電電の3公社と全逓、全印刷、全造幣、アルコール専売、全林野の9現業の労組の協議会)の闘争以来、このことばが用いられた。公社や現業官庁は国家予算でまかなわれているから、当局が組合との闘争を避けてある程度の賃上げを認めたいと思っても、大蔵省がそれを認めなければ賃上げはできない。そこで予算ぶんどりのために、形式的には労使である組合と当局がハラをあわせて闘争を行ったところから、アベック闘争と呼ばれた。公労協以外でも人件費などについて国家統制を受けている場合に、労使がなれあいで行う闘争も、アベック闘争という。

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4・17スト

本誌1965年版収録。以下、

昭和39(1964)年の春闘において総評および中立労連は、重化学工業の青年労働者を闘争起動力として、ヨーロッパなみの賃金に達するため大幅賃上げを組み、4月17日を期し公労協を軸としたゼネストを打つ方針をとった。その直前4月8日、共産党はストライキ反対の声明を発した(四・八声明)。池田首相。総評太田議長の話し合いにより、ゼネストには突入しないで終わった。

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五ケタ春闘

本誌1971年版収録。以下、

10,000円以上の賃上げを要求する春季闘争。総評系労組が昭和45(1970)年の春闘で打ち出したもの。45年度の消費者物価指数が、前年度に比べ6.4%という大幅値上がりだったのに対応する大幅賃上げ戦術。結果的には要求通り5ケタにはならなかったが、9,000円近い線で軒並み妥結した。

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春闘(1972)

本誌1972年版収録。以下、

spring offensive スケジュール闘争。昭和29(1954)年に日経連がべース・アップにかえて定期昇給制をとる賃金方針を出し、労働委員会がその線に沿って、その年の賃金闘争を調整した。そこで、労働組合の貸金要求と衝突し、賃金闘争は長期化し、これまで春と秋とに行っていた賃金闘争のうち、秋の賃金闘争が年をこえて継続した。この状態をみて、総評の一部指導者(太田薫ら)は、29年末に春の賃金闘争を5単産(炭労、私鉄、合化、紙パ、電産)共闘として行うことを決定し、30年には、これに電機労連、全国金属、化学同盟の3単産が加わり、8単産共闘として春の賃金闘争が組まれた。これが、「春闘」の実質上の出発点であった。31年には公労協が参加することになって、春闘は確立した。スケジュール闘争といわれる意味は、ストライキを打つ時点を先に設定し、これを目標に行動を組んで行くからである。ストライキと団体交渉の関係は、団体交渉で解決しない時にストライキを打つのが本来の関係であるのにその関係が崩れ、ストが予定され、団体交渉は形骸化してしまった。このように、ストライキを目標に行動のスケージュ−ルが組まれた闘争であることを指してスケジュール闘争という。春闘は、総評系と中立労連系の組合が主となって行う賃上げ闘争であるが、総評は官公労の比重が高いため、闘争のヤマ設定につき、官公労と民間労組の意見が食違うことが多い。32年春闘につき、官公労は、2月下旬ないし3月上旬を主張し、民間労組は3月10日前後を主張して対立した。総評幹事会はこれを調整して3月11〜15日にこれを求め、この間に各単産は最高の実力行使をすることとした。この闘争を「高原闘争」とよぶが、別の観点からみれば、トップバッターが決定しにくい状態にあることを意味する。42年頃から、IMF・JC傘下組合が春闘で注目されるようになった。特に42年についてはJC相場が相当に影響した。

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集改札スト

本誌1977年版収録。以下、

昭和48(1973)年春闘の前段で動力車労組の順法闘争が上尾事件をはじめかなり社会的反発を受けたので、国労が5月下旬の第104回中央委員会で、長期柔軟路線を打ち出し、国鉄運賃値上げ法案審議が参議院でヤマ場を迎えた段階でとる戦術として集改札ストを検討するとした。それは、順法闘争は事実上ストと同じ効果をもたらし国民の反発を受けるが集改札ストでは、管理者が不足し彼らの手による集改札ができなかったとしても、電車・列車は時間通り運転されるから無賃乗車という現象が起ることになるが、これは乗客大衆の反発を受けない。

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個別賃金要求

本誌1972年版収録。以下、

ベースアップ要求は、賃金闘争が妥結しても、その妥結額が賃金配分において上に厚く下に低く配分されるのでストの時もっとも活動する青年労働者に不満が多くかつ各組合員の賃上げ額の見当がつかない。したがって、賃金闘争の闘争力が結集しにくいという欠陥をもつ。この欠陥をあらためる方法として、28年春、合化労連・私鉄総連では一律3000円プラス・アルファの方法をとった。これは年齢・勤続・性別の区別なく一律定額のアップ額と家族の多いものへの補正・中途採用者の補正・中ダルミ是正などの源資としてアルファ額を考えたのである。ベース・アップに比べて、一律分は各組合員個人の賃上獲得分が明白であるため、個別賃金要求とよばれる。

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春闘番組

本誌1973年版収録。以下、

不況下の47(1972)年春闘に、労働者の結集がカナメと、労働関係団体がスポンサーになってテレビに諸外国の労働者の生活を描いた番組を流したもの。このほか労組が団交の模様などをビデオテープにとって職場のモニターテレビに流して組合員にみせたりする戦術もあり、春闘作戦にも情報化時代の波がやってきたわけ。

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交通ゼネスト

本誌1973年版収録。以下、

国労、動労、私鉄総連など交通運輸関係の労組で作っている全交連(全日本交通運輸労働組合協議会)が昭和47(1972)年4月27、28の両日に事実上の交通ゼネストを実施したのをいう。不況を名目とする賃金値上げ拒否やマル生運動などに対する労働組合の反発は、47年の春闘を相当に激化させた。交通ゼネストはその一つの現われであった。

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春闘(1975)

本誌1975年版より。以下、

〜42(1967)年以降は労働戦線統一運動が起こり、こじれていたが、48年には、国民年金・厚生年金や住宅問題など制度的要求を強く打ち出す闘争に変り、同年10月以降の石油危機が生みだしたインフレ急進の下で49年には30,000円以上賃上げ、低所得階層のための待遇改善を含めた国民春闘が策定された。

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民間先行方式(春闘)

本誌1975年版収録。以下、

春闘は民間8単産共闘(賃上げ共闘)が行われた昭和30(1955)年に始まるが、春闘の確立は、公労協が加わった昭和31年である。この春闘においては、合化労連その他一部の民間労組が賃上げ闘争にはいり、私鉄が春闘相場をつくり、公労協がこれにつづき、人事院勧告が出されるという形が、多少の変容はあるとしても、慣行のように行われてきた。これは民間賃金相場に公労協も公務員組合も準ずるという考え方であり、これを民間先行方式という。民間先行方式が問題になったのは、昭和46年の春闘においては民間労組が先行して、春闘相場をつくることに対し、経営者側は生産性基準原理(賃上げは生産性上昇率の枠内に押えるべきだとの考え)を掲げて業種別に結束して抵抗し、実現させず、むしろ公労協における賃金調停が、全体をリードした。事実は私鉄賃金が決まらないとき、公労委の調停額(手続のみで仲裁の形をとった)が出て、これに多少上積みして私鉄賃金と公労協賃金がほぼ同時に決まった。そのために、春闘の成果を評価するに当って、春闘方式の曲がりかどが論ぜられ、そのなかで、民間先行方式に対して、71年春闘の私鉄と公労協の同時決定の事実をふまえて、官民の「総ぐるみ方式」をとるべしとの論もあり、これとの関係で使用される用語。

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国民春闘

本誌1975年版収録。以下、

石油危機、物価騰貴、便乗値上げによる悪性インフレに抗議して、国民的な規模で展開された昭和49(1974)年の春闘をさす。総評、中立労連を中心とする春闘共闘委員会(180単産・832万人)はインフレ阻止、物価値上げ反対を中心に、<1>大幅賃上げ獲得、<2>スト権奪還、<3>弱者救済を柱として全国統一行動を実施した。4月11日、12日には国鉄、私鉄(一部を除く)が全面的な48時間の交通ゼネストを行い、戦後最大の規模で完全に日本列島の交通機関がマヒした。このゼネストを背景とした交渉において、<1>平均2万8000円の賃上げ、<2>スト権問題については政府が関係閣僚協議会を設置し労働側の意見を聞き、真剣に検討する、<3>弱者救済については、年金の物価スライドの実施時期の繰上げ(厚生年金は49年1月を8月、国民年金は50年1月を49年9月)、低所得者層へのインフレ手当の支給などが国会で可決され、一応の国民春闘に対する結論が出た。

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生活闘争

本誌1975年版収録。以下、

総評・中立労連主軸の春闘は、従来の安保廃棄、沖縄返還などの政治目標にかえて、昭和46(1971)年以降「生活闘争」を春闘の中心スローガンとする傾向をとってきた。それは、経済成長第一主義の国家政策が生み落した生活環境のゆがみに対する労働組合側の諸要求の統一語句である。ここに生活とは、公害・物価・住宅・医療費等々個別企業をこえた社会的な生活問題を意味している。特に、それは、日本の経済構造を変える闘いとして国民生活にかかわる政策闘争という意味をもっている。48年10月石油危機に基づく物価高騰は49年の春闘で3万円以上の賃上げ要求を普及させ、低所得者層や老齢者などへの政府政策が要求され、全国民的な規模で生活防衛闘争が展開された。

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「春闘」の周辺

本誌1975年版収録。以下、

昭和49(1974)年の春闘には、とくに「国民春闘」という名称がつけられていたし、33%の大幅賃上げが、少なくとも大企業に関する限り達成されたが、その後総評は「第二春闘」ないし、いわゆる「秋闘」を計画していると言う。

こうした春闘の第二弾がどこまで国民の納得を得られるのがどうか組合は充分に反省してみることが肝要だろう。

大きな武器をもっている大労働組合、とりわけ官公労組は、権利の主張と同時に自分の職務に対する「社会的責任」とも言うべきものを深刻に考えるのでないとかえって国民の支持を喪うことになろう。

もともと「春闘」が何年間かの間に定着してきたのは、日本の大企業における寡占体制と大労組の大幅賃上げとが、同時期にスケジュールを組むことによって企業間の競争条件を均一にしようとする大企業間の深慮と大企業の財政的賃上げ能力に安居する大労組の企業癒着の上に成り立ったものであり、悪く言えば日本の企業別組合にみられるアベック闘争の産業別版にほかならないとも言える。

したがって「国民春闘」と称してみたところで、この寡占大企業と傘下の大労組の共通利害と親方日の丸的官公労組との共同計画であり、中小零細企業の労働者や庶民は、名前は「国民春闘」であっても結果においては33%のアップの圏外に置き去りにされてしまっているし、まして低額所得層の生活保障について、組合はどれだけ身銭(みぜに)を切って奮闘しただろうか。大労組が総選挙の時に使う金と労力とを低額所得層の陽のあたらない人々のために投入してこそ「国民春闘」らしいと言うべきではないか。

だから、総評が「第二春闘」や「秋闘」を計画すれば、それに対する反撥は「上尾事件」のような騒動が頻発するということであり、それは労使双方に向けられた国民の審判だと言えよう。上尾事件には右翼の煽動があったという理由で軽視してはいけないだろう。

大幅賃上げの物価への明白なはね返りや交通機関の順法闘争やストによって足をとられる何百万人の日本人の不満の爆発する前に、大労組の幹部はもっと使用者側との具体的語し合いに力をつくすべきだろう。そうでないと、「賃金ガイドライン」や「所得政策」が論議の焦点に据えられることは必至であり、これに対して、労働組合は国民の納得できるような説明をしなければならなくなる。

インフレ反対を叫ぶ組合は、大幅賃上げや「第二春闘」がほんとうに物価にはねかえらないのだということを、天下に声明できるだけの根拠を示さなければ問題は、総需要の抑制だけでは済まなくなる。

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春闘(1980)

本誌1980年版収録。以下、

「春季闘争」の略称。計画された闘争日程に従い、産業別統一要求を掲げて、毎年ほぼ3月頃から各組合が一斉に行う賃金闘争をいう。昭和29(1954)年秋、太田合化労連委員長の発案で、総評傘下の5単産が共闘会議を組んだが、翌30年春に8単産共闘に発展し、第1回春闘が始まった。以後、毎年、総評・中立労連・公労協をもって「春闘共闘委員会」が結成され、その指導の下に、傘下の組合が一斉に賃上げを中心とした闘争を、ほぼ4月末までに展開、同盟加盟単産も事実上この時期に賃金交渉を集中することでわが国の労働運動の一つのパターンができ上がった。春闘ではトップバッターといわれる単産がいわゆるべースアップの春闘相場を作り上げ、他の単産がこれに準じて5月頃までに平均賃上げ率が形成される。公労協仲裁の裁定や公務員給与に関する人事院の勧告も実質的に影響を受ける。一方、経営者陣営でも、景気や企業の実情を踏まえて、事前に賃金のガイドラインを発表するなどして春闘相場のリードに努めてきた。その後、高度経済成長期後の経済不況時代に入ると、労働運動の側に、賃金闘争偏重を反省する気運が生じ、49年には国民春闘と呼称を変え、51年から共闘組織も国民春闘共闘会議に編成替えして、最低賃金制の確立や雇用保障などの国民的要求をとり入れるようになった。54年の春闘では100単産、873万人が共闘組織に結集を見て、ベースアップでは一応の成果を挙げたが、業績格差の拡大や深刻な雇用対策には十分取組めず、公労協では全電通が「一括調停申請方式」をやめたのをきっかけに、春闘見直し論を提起、他方、鉄鋼労連など民間大手労組は、金属労協や賃闘民間労組会議を組織して、独自に春闘に取り組み国民春闘会議からの離脱の方向に進みはじめ、春闘の今後の先行きは波乱含みである。

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春闘終焉論

本誌1983年版収録。以下、

公労協など官公労組を中心とする総評の強いリーダーシップのもとに、毎年春闘共闘委員会が組織され、これに同盟系その他の民間組合も加わって、カを背景として、毎年春期に集中した相乗効果により、各組合がより有利な労働条件をかちとるというのがこれまでの春闘のイメージであった。しかし最近になって、<1>行政改革のあらし、親方日の丸論、ヤミ給与、職場規律の乱れ批判などの状況悪化による国労を中心とする公労協の力の低下、<2>それにともなう官公労働組合の民間準拠への傾斜と公労協17年ぶりの「ストなし春闘」、<3>以上の結果としての春闘における官公労働組合=総評の地位の低下と春闘の民間主導化、<4>その民間交渉に強くみられる、経営者側主導による「管理春闘」的色彩の強まり、などの傾向が顕著となる。とくに昭和57(1982)年春闘では、右の民間主導の中核としての民間組合を中心とする労働戦線統一準備会へ総評系の私鉄総連、全国金属などの組合が加入し、これが57年秋には「全民間労働組合協議会」ヘと発展して、58年春闘はこの全民労協主導となることが予想され、ここに「春闘終焉論」が語られるようになった。春の賃上げ闘争はなくなることはないとしても、かつての総評=官公労組主導のいわゆる「春闘」はなくなるのではないかとみるもので、これに対しては、総評槇枝議長は「春闘はすべての労働者と勤労国民の共有の財産である」と述べて(57年5月21日の拡大評議会)、 強く反発している。

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ベアゼロ論

本誌1984年版収録。以下、

春闘ベア(賃金べース・アップ)を実質的にゼロに抑えこむぺぎだとする、経営側、特に日経連の指針をいう。春闘での賃上げは、生産性上昇の範囲にとどめるべきだとする「生産性基準原理」に基づく日経連の83年春闘指針では、具体的な賃上げを「定昇込みで2%以内」とした。多くの企業では、ペース・アップとは別に、毎年勤務年数に応じた定期昇給分(定昇)を予定しており、これを春闘のベース・アップにおり込むところが多い。そこで「春闘による」ベース・アップ分から、春闘がなくても当然昇給するはずの部分を差引くと、純粋の「春闘ベア」分は実質上ゼロになる。労働側は、これでは春闘は意味がなくなるとして反対している。

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春闘見直し論

本誌1986年版収録。以下、

春闘(によるべースアップ)という方式は、昭和30(1955)年以来、わが国の労使関係の一つのパターンとして定着してきたが、これはもともと、一方で、インフレによって消費者物価が毎年上昇するため、ベースアップをしなければ実質賃金の維持ができないこと、他方、日本経済全体としての成長率がそれを可能にしてきたこと、の2つの条件の上に成立っていた。しかし、インフレによる物価騰貴が収束し経済の成長率が頭打ちになってきた今日では、従来のようなスケジュール的統一要求は戦術的に見直すべきだとする議論が出てきている。その他、官・公・私間および私企業間の格差の増大ということも全労働者一体の共同闘争として春闘からの「脱皮」を現実の声としている。春闘共闘委員会や主要単産の側には春闘そのものの否定論はないが、一般に今後は、経済の成長率や雇用状況に合わせた低成長型の春闘が必要とする方式の見直し論は少なくない。

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管理春闘

本誌1987年版収録。以下、

第1次石油ショック以後の低成長時代に入ってからの春闘にみられるようになったひとつの傾向を示すものとして使われる言葉。経営者側は生産性基準原理によって賃上げを抑えようとするが、労働組合側も、鉄鋼労連など、経済整合性論をもち出し、賃上げ額は末端の組合員の生活実感を基礎とする要求とは無関係に、経営側と労組幹部との協調的路線によって決定され春闘が形骸化、セレモニー化している現象をいう。このため春闘の結果に対する末端労働者の不満が大きくなっている。

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生産性基準原理

本誌1987年版収録。以下、

賃上げは企業での生産性向上の枠内にとどめられるべきだとの考え方。生産性向上を伴わない賃上げは、インフレを招き、結局労働者を苦しめることになるとして昭和44(1969)年春闘に際して日経連が打出してきたもの。これに対して労働側は、経営者側の賃上げ抑制の口実にすぎないとして強い反発を示し、賃上げ要求については、雇用や物価の安定や国際収支、経済成長など経済全体との整合性を考慮しなければならないとする経済整合性論をもって対抗している。

58年春闘ベアでも日経連は従来どおり「生産性基準原理」を提唱、実質経済成長率を3%とみて、ここから就業者増加率の1%を差し引いた残り2%を同年の実質生産性上昇率とし(定昇を含む)賃上げ率はこの範囲にとどめるべきだと主張した。この実質ベア・ゼロ路線に対し、労働側は激しく反発、7%の賃上げ要求基準を設定した。

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春闘(1991)

本誌1991年版収録。以下、

spring labor offensive 「春季闘争」の略称。毎年3月頃から各組合が歩調を揃えて賃上げなどを要求する闘争。1955(昭和30)年に合化労連など8単産が共闘を組んだのを手始めに、翌年、総評が正式に取り組み、74年から国民春闘と呼んで最賃制の確立や雇用保障などの国民的要求をとり入れた。同盟系の組合も「賃闘」と呼んでこの時期に賃金交渉を集中させた。全産業でほぼ1年の賃上げ相場が形成されるところから、春闘はわが国の労使交渉の基本的パターンとなり、用語としても俳句の季語になるまでに定着した。経済高度成長期には大幅な賃上げを記録(74年32.9%)したが、その後、次第に上げ率が低下、見直し論が出てきた。最近、春闘という言葉を使うことにも批判が出始め、連合は「春季生活闘争」の名称を用い、日経連も「春季労使交渉」に改めた。

☆春闘相場の推移(労働省調べ)

1980 6.74%

1981 7.68%

1982 7.01%

1983 4.40%

1984 4.46%

1985 5.03%

1986 4.55%

1987 3.56%

1988 4.43%

1989 5.17%

1990 5.95%

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春闘時間短縮要求

本誌1992年版収録。以下、

海外からの長時間労働批判、「過労死」が続発するなかで、1991(平成3)年春闘の重点目標に労働時間の短縮(時短)を要求する労組が増えている。90年の年間総労働時間数は2152時間を数えているが、93年度に年間総労働時間1800時間という目標をたてた日本労働組合総連合会(連合)では「91年春闘では賃上げと同様に時短に全力をあげる」とした結果、休日増、振替休日増、残業規制など1679の組合(中間集計)で、2000時間のかべを破る回答を引き出したと、一定の評価をしている。また大阪では150の労組の賛同を得て「5時だ!帰るぞ。社長、文句あっか」を合言葉にサラリーマン、運転手、看護婦などが「アフターファイブの会」を結成し、ゆとりある生活を求めるために、業種を超えて知恵を出し合いノー残業デーなどに取り組み、自分と家族のための時間を取り戻す運動に取り組んでいる。

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春闘(1992)

本誌1993年版収録。以下、

1992(平成4)年春闘はバブル崩壊後の景気の減速、時短重視の状況の下で組合側は「3月決着」方針で臨んだ。私鉄のスト突入など波瀾はあったが、結局、賃上げでは全体に抑制気味でIMF‐JCのリード役トヨタが4.83%、電機大手4.7%と5%台を割った。

時短では鉄鋼が休日増などほぼ満額回答を得、交渉の目玉にした介護休暇やボランティア休暇を実現したところもあるが、時間外割増率アップは難航した。

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私鉄スト

本誌1993年版収録。以下、

1992(平成4)年「春闘」は、私鉄総連大手9社の組合が、大方の「予想」を裏切って11年ぶりにストに突入、続いて中小62組合もストに入って世間を驚かせた。私鉄大手の労使交渉は、中央集団交渉の一発方式で行われるのが例であり、このところストにまで入ることはなかった。今回は労使の「相互不信」もあって、300円の差を埋めきれず、ラッシュ時のストで利用客の混乱を生んだ。結局、総連は上積みのないまま、「世論」に配慮し、6時間後に中止を決めた。

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不況春闘(1994)

本誌1995年版収録。以下、

空前の不況に見舞われた1994(平成6)年春闘の賃上げ交渉の結果は、労働省の調査では民間主要企業(290社)で9118円、アップ率3.13%(前年比1959円減、0.76ポイント減)で、額では円高不況の87(昭和62)年(8275円)以来、7年ぶりに1万円を下回り、率では春闘方式が始まり、労働省が同調査を始めた66年以降の最低に。「不況克服のため賃上げで個人消費の拡大」を主張する組合側が、業績低迷を背景に雇用維持に手いっぱいと主張する経営側に押し切られた形となった。雇用調整が進む中、労使とも雇用の確保を最優先の課題としたという意味で「雇用春闘」とも呼ばれた。

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春闘40周年

本誌1996年版収録。以下、

1995(平成7)年は「春闘」方式が始まってちょうど40年にあたる。日本の組合運動は明治期以来、古い歴史をもつが、戦時体制下に政府の手で禁止された。戦後、占領軍の日本「民主化」政策の一翼としての助力もあってゼロから組織率50%を超える爆発的な展開を示した。したがって戦後半世紀の組合運動はそのまま春闘の歴史と重なるわけではない。しかし、55年から旧総評が主導し、連合に引き継がれて今日に至る春闘方式は、例年労働界を中心とする一大国民的イベント(国民春闘)となっており、日本の組合運動のありかたを特色づけている。毎年、年初に全産業ほぼ1年分の賃上げ相場が形成され、争議行為を含む労使間の激しい交渉の結果とはいえ、高度成長期には32.9%(74年)に達する大幅な賃上げを記録した。春闘という言葉ないし機会が外国においてさえ聞かれるに至った。しかし、「連合」時代に入っての不況に伴い、春闘賃上げ率は低下し始めた。連合は95年ここ数年の「連敗」打破にかんがみ、賃上げ要求の指針を従来の「率から額」へ転換、さらに「平均賃金方式」から「個別賃金方式」への移行を図る「春闘改革」を掲げた。これまでの春闘方式には産業「横並び」の相剰効果で企業別組合の弱さをカバーしようとするねらいがあり、経済成長期には効果を挙げてきた。しかし近年は長期不況により力を相殺する面が強まり、賃上げ率がダウン、94年春闘では史上最低の水準となった。95年は、連合の「春闘改革」の交渉方式がまだ定着せず、未曽有の長期不況による雇用調整や産業空洞化の厳しい経営環境の下でNTT‐全電通が早期妥結、鉄鋼大手はベアを見送り、定昇3500円のゼロ決着、私鉄・電力はストを構えない「事後対処方式」をとり、平均賃上げ額は8376円、賃上げ率は2.83%にまで低落した(労働省調べ)。

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春闘見直し論

本誌1997年版収録。以下、

賃上げ、時短などの要求項目、闘争スケジュール、戦術等を産業別に統一して、毎年春期に一斉に企業側との交渉に入るのが「春闘」。1956(昭和31)年に旧総評が官民一体で取り組んだのが最初で、連合に引きつがれ、「春闘相場」を形成してきた。

95年40周年を迎えた春闘は、リストラ不況に震災の影響も加わって、鉄鋼の「ベア見送り」、私鉄・電力の「ストなし妥結」など先導役組合の不振で平均賃上げ額8376円(2.83%)と過去最低にまで落ち込んだ。96年春闘は、まだら模様の景気回復の追い風で金属大手の妥結額が6年ぶりに前年実績を上回り、春闘相場の長期低落傾向に歯止めがかかった。このところ例年、春闘が終わる時期になると、その「見直し」の声が労使双方の側から出ている。しかしその方法や論拠となると、議論はまとまらず、「ベア・ゼロ論」「賃上げか雇用か」「平均値引上げか個別賃金額」か、産別「横並び」の可否等をめぐって労使の間で、あるいは労働運動の内部でさまざまの論議がある。96年春闘で目立った用語は、「ベア・ゼロ」と「隔年春闘」(鉄鋼大手、電機労連等の提唱にかかる「隔年賃金交渉方式」)である。

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隔年春闘(交渉)

本誌1998年版収録。以下、

second year bargaining 春季賃上げ(ベア)労使交渉の頻度を毎年交渉から隔年交渉に改める提案。鉄鋼労連が98春闘から複数年交渉へ移行する方針を固めたことから注目を引くに至った。同組合では複数年協定を結び、1年目は賃上げを中心とした組合員の労働条件を決定し、2年目は年間総賃金を重視した一時金や福利厚生などの諸条件の交渉を行うというもので、事実上、2年ごとの賃上げ交渉となる。労働者、経営者側ともに賛否両論があるが、従来のような高度成長を望めない産業界の先行きで毎年ベアという方式に見直しが求められているのは確かである。

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春闘(1998)

本誌1999年版収録。以下、

不況春闘」が続き、賃上げ率が年々低下するにつれ、春闘の「構造改革」「見直し」「不要」論が高まってきた。ついに労相までが「春闘の横並び決着 ―― 護送船団方式は市場原理に反する」などと発言した。連合側は労働運動への介入だとして反発、「罷免」要求までしたが、意外にも経営者団体の日経連が、春闘を「国際的に評価されている貴重なシステム」として持ち上げ(会長の総会発言)、「春闘無用論」を認識不足として批判した。

たしかに「横並び決着」は崩れつつある。だが、1998(平成10)年春闘は結果として前半実績額を割り込んだとはいえ、そこそこに賃上げを獲得したのである。もし組合が「一斉春闘」をやめ、「個別交渉」で臨んだとしたら、労働者全体からみてそれだけのものを獲得できたかどうか。組合側は、賃上げが消費を拡大して日本産業の活性化につながると主張する。全労働者の2割そこそこで構成される労働組合が春闘において「賃上げ相場」を作り、残り8割の無組織労働者にも拡散的効果を及ぼしているのは確かである。こうしてみてくると、今年の「春闘」も多難とはいえ期待できそうだ。

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春闘(1999)

本誌2000年版収録。以下、

高度経済成長期の産物としての「春闘」は賃金水準を上昇させる一方で労働環境の改善をうながし、雇用の安定を確保する労働条件の向上をも図ってきたわけだが、バブル経済以降の経済の低成長下にあっては年々その存在感を弱めてきて1999(平成11)年の「春闘」(賃上げ回答)ではベア率2.21%にまで落ち、ベアゼロ大手会社まで出てきた。賃金問題の処理システムとしてこれまで機能してきた「春闘」がいまや「機能不全」を問われるまでになった。

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賃下げ春闘

本誌2000年版収録。以下、

実質「ベアゼロ」方針に加え、「賃下げ」を前提にしたワークシェアリング(仕事と賃金の分かち合い)の導入を打ち出すなど、雇用優先を旗印にした日経連相手の1999(平成11)年春闘。連合は、経済をプラス成長に転換させるためにも、個人消費を刺激する賃上げは必要と反発。

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雇用春闘

本誌2000年版収録。以下、

2000(平成12)年の春闘のテーマが「ひとつは基礎年金の支給開始年齢が2001年から段階的に引き上げられるのに対応して、65歳までの就業機会をいかに確保するか、もうひとつはワークシェアリングとよばれる雇用拡大・確保問題」と亀山直幸日本労働研究機構主幹(読売、4月7日「論点」)。

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