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“春闘のない”春に読む、働く者の権利についての用語集
 

労働者の権利を守れ

完全雇用闘争

本誌1965年版収録。以下、

終戦時には産業復興運動、経済復興運動として行われたが、昭和30(1955)年以降では、28年の三井鉱山労働組合連合会(三鉱連)の人員整理反対闘争(113日間の闘争で会社の人員整理案を撤回させた)を基礎に発展した。すなわち、30年の臨時石炭鉱業合理化法に対抗するため、炭労は、三鉱連の長期計画協定(1名入れ替え協定ともいう。1名退職すればその労働者の子弟を1名採用する)を、大手各社の組合に締結させた。この闘争は、34年、三井鉱山が三鉱連に人員整理を提示して以来35年8月、三池争議に至って、一応長期協定は破棄されたが、これに変わって炭労がとった闘争が政策転換闘争である。36年から石炭鉱業斜陽化が問題になり、2万人の人員整理が策定された。これに対して、炭労は、西欧の石炭政策は、石油が国内に生産されないため、非常事態を予想して相当な保護政策をとっていることをあげ、わが国も同じ事情にあるとして、炭労自体の政策を明示して闘争を展開した。それによって、政府の石炭鉱業調査団の派遣と答申をひき出し、炭鉱離職者対策、産業地振興策などが策定された。同じ性質の運動が全電通においては争前協議という形をとっている。これはむしろ、炭労の長計協定の段階である。経営者の計画を実施決定前に提出させ、労働組合の政策と対置させるという方法である。電電公社は成長企業であるため、炭労のような激しい実力行使を伴う運動とはならなかった。これらの闘争に類似するものとして労働プラン(Labor Plan)がある。これは労働組合が政策転換闘争を進めるにあたっての具体的計画であり、構造改革論の本家であるイタリアの労働総同盟(CGIL)が、1949年決めたのがはじまり。炭労が長計協定を方針とした当時、総評の一部勢力は、これに反対してイタリアの労働ブランを直輸入して対抗したが、それは間違っていた。イタリア労働プランは、それと同じ性質の運動として、炭労の長計協定闘争、その発展として政策転換闘争となった。

完全雇用闘争は、技術革新導入が進むにつれて、労働時間短縮運動となって現われている。38年以降総評や全労など中央組織の方針となり、週2日休日制や有給休暇の増加が問題になっている。

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生産復興運動

本誌1971年版収録。以下、

終戦の頃の労働組合運動、特に企業連や単位組合の運動にみられた。労働組合自体が企業の生産を復興しそれによって賃上げを獲得し、人員整理をまぬがれようとした運動。これは、企業別組合が戦時経済体制が崩れたときにとった完全雇用闘争の一つの形であった。2つの傾向があった。1つは、産別会議の産業復興運動(C.I.U industrial rehabilitation movement)で、昭和21(1946)年7月の産業復興石炭会議の結成をはじめとして、8月には、産別会議結成大会に方針が決定された。その特徴は、労働者と科学技術者とをもって会議を組織し、ゼネストを力の背景とする点にあった。これにたいし、総同盟の経済復興会議運動(movement for economic rehabilitation council)があり、これは各単位組合の経営協議会を基礎にし、中央と地方とに組織化するもので、「直接的ストライキの方法を極力回避する」方法をとったところに特徴がある。2つの復興運動は性格を異にするが、22年1月に、産別会議は条件つきで、経済復興会議に合流した。経済復興全議は、片山内閣の下において行なわれたが、成果をあげないまま、23年3月、米国の対日方針が明らかになった直後4月に分裂解散した。

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犠牲平等説

本誌1954年版収録。以下、

不況で経営がうまくゆかないときは、資本家と労働者は犠牲を平等に負担しなければならぬ、だから賃下げは当然だ、という説。しかしこの場合は、剰余価値をへらすべきであって、賃金をへらすべきではない。資本主義下では、犠牲の平等ということはありえない。

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生産点闘争

本誌1964年版収録。以下、

三井三池争議で問題になった闘争で、現場の組合員が日常の生産現場、いわゆる生産点で、職制との間で労働条件の向上を図ったり、労働協約の実行を監視したりする闘争をいう。三池の場合、この組合員を会社側が生産阻害者であるとして指名解雇、組合側は不当労働行為として、長期闘争に入った。

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統一派労働運動

本誌1971年版収録。以下、

1970年初頭、69年末の衆議院総選挙における社会党敗北のあとをうけて、総評内に崩壊現象がおこった。この動きは、67年総評大会で運動路線変更の問題を提起した全逓宝樹、全鉱原口、鉄鋼労連宮田らの動きが具体化したことを意味する。この動きを統一派労働運動とか統一労働一戦線というのは、67年初頭、全逓労組委員長宝樹文彦が「労働戦線の統一と社会党政権樹立のために」という論文を発表して、政党レベルの社共統一戦線という用語を排し、労働戦線の統一を主張したためである。

動きはまず1月初頭、全逓宝樹が「1970年代の労働運動前進のために」という第2論文を発することからはじまった。

ついで関西で1月22日に全国民間労組委員長懇談会がもたれ、松下電器とか住友化学など主要労組の委員長が集まった。ついで1月26日、生産性労働組合会議が生産性本部でもたれ、これが2月2日には全国労組生産性会議となり、鉄鋼労連の宮田委員長の動き、同盟滝田会長の動きがクローズ・アップしてきた。他方総評内の民間単産会議では、1月28日に、第一・労働戦線の統一、第二・政党支持の自由を決定して総評に問題提起をした。かくて、総評は6月に予定していたゼネストをおろして、「ストをも含む統一行動」に戦術転換をはからざるを得なくなった。そして6月闘争の結果のなかで統一労働戦線の動きはさらに複雑さを増してきている。

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大衆主導型労働運動

本誌1973年版収録。以下、

総評昭和47(1972)年度運動方針案の中にあらわれた運動の一面をあらわす語である。今後の労働運動の方向として、第一に、交通ゼネストや海員ストにあらわれた大衆的運動、沖縄闘争、国労マル生反対運動、動労のATS闘争など一連の闘いの中で高まった一般労働者の戦闘性に重点をおき、幹部に依存してきた過去の運動の質的な転換をはかること、第二にこれまでの企業別組合意識や労使協調主義をくずすため階級的な思想をもった活動家を各組合の中に育て、産業別組合や地域共闘を強める中で「職場の大衆に根ざした労働運動をきずく」活動を展開するとしている。

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世界共闘(自動車労協)

本誌1972年版収録。以下、

自動車産業の多国籍企業化(世界企業化)傾向に対応して、国内の各自動車労組を世界自動車協議会に参加させ、今後の労働条件の改善などを世界主要国の多国籍企業系労組と協調して取組もうとすること。米自動車ビッグスリー(GM、フォード、クライスラー)、西独フォルクスワーゲン、伊フィアットなど世界有力自動車資本の海外進出は近年急速に進んでいる。このため従業員も多国にまたがってきた。1970年末現在GMは米国内で約42万人、これに対し世界各地のGM系労働者は約33万人に及びフォードも米国内で約23万、これに対し世界各地のフォード系労働者は約19万人に達している。これは自動車資本が世界の有力市場へ各地の労賃、労働条件の格差などを利用して進出した結果である。そこで、各地における労働条件の問題について、地元で労組と解決ができず本社とかけ合わねばならなくなり、そのためには、米本社労組との連携が必要となってきた。米国内労組側では、貸金格差を利用した海外進出は「自分たちの仕事を少なくする」という不満を生むから、資本進出した労組と意見調整しながら“共闘”体制を組むことが急務となってくる。かくて、米ビッグスリー、西独フォルクスワーゲン(ベンツを含む、仏ルノー(プジョーを合む)の7企業系統で働く内外の労働組合がIMF(国際金属労連)の自動車部会とは別に“多国籍企業労連”ともいうべき世界自動車協議会をIMFの中に設立し、71年3月末、ロンドンで第1回の会合を開き活動を開始した。米ビッグスリーが対日進出をするし、トヨタ、日産の海外に進出している中南米や東南アジア地域労組からトヨタ労組や日産労組に協調を呼びかけられている事情もあり、すでに世界自動車協議会からも自動車労協に参加要請があり、参加は不可避の方向にある。労組側は労働条件の「平準化」を大義名分とするであろうが、資本の側は賃金格差を援用しているから事態は容易ではなかろう。

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ATS闘争

本誌1973年版収録。以下、

国鉄労組や動力車労組がとっているスト戦術。一種の怠業行為である。最近では、昭和46(1971)年以降のマル生反対闘争に際し採用した。ATSとは自動列車停止装置(automatic-train-stop)のことである。赤信号の手前に地上子が装置されており、列車が地上子に近づくと、一定の距離で列車内のATSが作動して、ブザーとチャイムが鳴りはじめる。運転士は確認扱いをする(ブレキハンドルをブレーキ位置に移動し確認ボタンを押す)。運転士が9秒以内に確認扱いをしないと列車は自動的に停止する。確認扱いをするとブザーは止むがチャイムは鳴りつづけている。徐行しながら信号50メートル手前まで進み、信号が赤ならば停止する。チャイム消しボタンを押してチャイムを消す。信号が赤でなければ徐行する。本来は信号が青以外、すなわち黄でも止るべきであるが実際は止らないのが慣行である。この慣行をまもらず、本来の規定通り信号が黄でも列車を正めるから、列車運行のおくれがおこり、順法闘争の効果が出る。

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マル生運動(国鉄生産性運動)

本誌1977年版収録。以下、

国鉄の生産性をあげるために協力せよという運動で、国鉄当局が、その運動を指示する文書に生産性の“生”の字を丸で囲んだことからこの名が起った。具体的に問題となったのは、協力しないものは差別する。すなわち国労・動労から生産性運動協力を強調している鉄労に移れという強制が、管理職から国労・動労の組合員になされた点である。職場に強くあらわれてきたのは45(1970)年暮から46年春にかけてで、国労・動労は激しい反対闘争を起し、公労委も不当労働行為の裁定を下した。当局も地方管理者に運営上の誤りがあったとして国労・動労に陳謝した。

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労組の公害闘争

本誌1977年版収録。以下、

公害が問題になった年、総評事務局長は明年の春闘は公害反対でゼネストを打つといったが、平年闘争ほどに企業別組合は公害闘争ができないことを暴露した。その後、水俣問題に象徴されるように公害問題は深刻になり、企業側も責任を認めざるを得なくなった。この段階で、合化労連は、昭和48(1973)年度定期大会で、「環境汚染の実態調査と調査結果の発表」の方針を打出した。この方針は、公害防止設備のための資金について政府、自治体、銀行、商社に対し、利子タナ上げなどについて、企業をバックアップすることを含んでいる。

なお、公害防止機器メーカーは、「排出基準に合わない不良な公害防止機器は製造しない」とするようになり、同メーカーのなかの千代田化工の労働組合は、公害防止機器の安全基準や排出基準を独自に設定する方針をとっている。このように、労組の公害闘争は昭和48年度に一歩前進したようである。

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政労交渉

本誌1977年版収録。以下、

争議権問題についての政府と労働側の話し合いをいう。昭和49(1974)年春闘の際、政府と春闘共闘委との間に、「関係閣僚協議会を設けて争議権問題の解決に努力する」との了解事項が成立し、それに基づく制度であるが、官公労のスト権問題についての自民党内の意見調整が進まないこともあって、50、51年春闘においても進展がみられなかった。

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スト権奪還闘争

本誌1975年版収録。以下、

公労法の適用を受ける労働組合は、同法17条、18条によって争議行為が禁止されている。公労法は昭和23(1948)年7月政令201号による公務員の団体交渉権・争議権の剥奪を受けて、同年12月20日に制定され、24年6月1日から実施された。スト権奪還運動というのは、この争議権剥奪を取除こうという運動である。

運動発生の原因は、強制仲裁による裁定さえもが、公労法16条により、国会の承認するところとならない事態がつづき、公労法のわくを破る形の、労働運動が発生してきた。代表的なものが、順法闘争(work-to-rulre slow down )・休暇戦術などであり、結果はスト決行と同じ事態をひき起した。そこで、当局は組合幹部を処分する態度に出て、組合は、解雇された執行委員を再度選出するという対抗関係が起こり、当局は公労法4条3項で団体交渉を拒否した。ここからILO87号条項闘争が生じてきた。

この闘争が長びく間に、組合はストライキ権を奪還する姿勢をかため、順法闘争という消極的態度から、公労法を破る闘争という態度に変わってきた。40年ILO87号条約批准後も87号条約の条約適用専門家委員会が1959年にこの粂約はスト権を含むと解釈したこと、さらにILO105号「強制労働の廃止に関する条約」をもち出して、公労法17〜18条の争議行為禁止条項を撤廃しようと闘争を進めている。

この闘争は48年春闘ではついに交通ゼネスト(general transport strike)として行われた。春闘決戦ゼネストの前段強力順法闘争が4月24日に行われ、これにたいして上野駅その他で乗客があばれ大混乱を起こした。27日には動労・国労私鉄などが、72時間ストを最高にストに突入したため、国鉄では、特急・急行などを全面運休した。ここに、わが国初のゼネストが行われた。

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入浴闘争

本誌1984年版収録。以下、

勤務時間内の入浴を服務規律違反として規制しようとする国鉄当局に対し、これを慣行による既得権として強行しようとする国労の闘争。電車区や機関区の検査・修繕担当者は古くから午後5時5分の作業終了30分前に施設内の風呂へ入ることが慣行となっており、これを規制しようとする当局との間にトラブルが絶えなかった。昭和43(1968)年の「田町電車区事件」において「勤務時間内の入浴を一方的に阻止したのは違法」とする高裁判決が出たことがある。57年、自民党の国鉄再建小委員会の勧告もあって東京南、北、西の各鉄道管理局は「悪慣行を断て」と各職場に指示、施錠したりしたが、国労は「労働条件の変更だから団体交渉で解決すべきもの」として入浴を強行、57年1月、当局は40職場にわたる組合員1174人に減給などの大量処分を通告した。

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政策転換闘争

本誌1964年版収録。以下、

労働組合や革新政党などが、政府の政策を換えさせるために展開する運動。構造改革論につながる活動方法。昭和36(1961)年から37年にわたり活発に展開された炭労の石炭政策転換闘争は政府の石炭鉱業調査団の派遣と答申を引き出し、炭鉱離職者対策、産炭地振興策などがたてられた。

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勤務評定/勤評闘争

本誌1980年版収録。以下、

地方公務員法第40条に「任命権者は、職員の勤務について定期的に勤務成績の評定を行い、その評定の結果に応じた措置を講じなければならない」とあるが、これが勤務評定である。教職員についても、「都道府県教育委員会が計画し、市町村教育委員が実施する」ということが、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」で決められているが、勤務成績は、当該官職の職務遂行の基準に照らしで評定されるものであり、職務の分析が困難で、職務遂行の基準がたてがたい教員の場合に、勤務評定を行いうるか否か問題で、北海道、青森、秋田、宮城、岩手、岡山、鹿児島等の各県の人事委員会は、教員を勤務評定から除外すべき旨の勧告または研究報告をしており、教職員の勤務評定はほとんど実施されてはいなかった。ところが昭和32(1957)年にはいって文部省は、にわかに実施の方針をきめ、11月、都道府県教育長協議会が「教職員の勤務評定試案」を発表するにおよんで、問題は全国化した。33年秋までに勤務評定を強行実施しようとする政府、与党と、これを阻止しようとする日教組との激突は、全都府県に波及し、教育現場は未曽有の混乱におそわれたが(このときの闘争を勤評闘争という)、各府県とも逐次実施し現在は京都府のみ実施していない。神奈川県では、52年以来、教師の自己評価を中心とした独自の方式で勤評を実施している。

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条例闘争

本誌1973年版収録。以下、

各都道府県が教職員給与特別措置法(教特法)に準じた条例を定める際「超勤範囲」の問題を中心に日教組は“条例闘争”に取組むことにしている。この教特法は、46年2月に成立したが、これは教職員長年の懸案事項であった超勤問題を解決しようとするもので「教職員に超勤手当のかわりに本俸の4%を調整額として支給する」ものである。小中学校教職員で平均月額4400円(諸手当へのハネ返りを含む)の増加また高等学校の場合、4500円(50日アップ)になる。問題は具体的な超勤労働時間と関係なく調整額を支給するため、日教組としては、超勤労働が一方的に多くきめられることにならないかを問題にする。同法では「文相と人事院が協議して定める場合に限り」時間外および休日勤務をさせることができるとしているが、「これではかえって無制限な超勤を強要されるおそれがある」と野党は反対している。

その後の国会答弁で命じうる超勤の範囲として、<1>実習、<2>クラブ活動、<3>職員会議など9項目を打出した。中央労働基準審議会(石井照入会長)は「超勤の内容、限度を認めるについては関係労働者の意向を反映する適切な処置をとるべきだ」との建議を行い、人事院も超勤は必要やむをえない場合に限るべきだとしている。

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