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年頭にあたり新しいリーダー・新しい顔の特集
 

盧武鉉(ノ・ムヒョン)

1946年9月1日、慶尚南道金海郡の果樹園農家に、5人兄妹の末っ子として生まれる。苦学して弁護士に。昨年暮れ、韓国大統領選挙に当選。

「ばかの盧武鉉」

慶尚道=ハンナラ党、全羅道=民主党というきわめて明確な「地域政党」構造があり、なおその両地域が激しく対立していた韓国において、盧は慶尚道出身の民主党候補(当然、党内では傍流)として、慶尚道の釜山市長選や総選挙に出馬(当然、この地では民主党は野党)して、落選を3回重ねた。この国の健全な政治を妨げかねない地域対立を解消したい…その理想はあるにせよ、あまりにも愚直。しかし、それが故にか徐々に人気を集め、支持者からは親しみをこめて「ばかの盧武鉉」と呼ばれる。

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頑固者

自分の意見や主義を固く守り、曲げない人のこと。盧武鉉の性格を評するときにしばしば用いられる。1960年、大統領選に際し、現職候補・李承晩(1875〜1965 韓国の初代大統領)をテーマにした作文を書く宿題が中学で出されたが、これを「不正な選挙運動」として拒否、反省文まで拒否して停学処分を食らった。なお李承晩は1960年3月に四選されるが、不正選挙を糾弾され、ハワイに亡命。

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ヨット

西洋型の帆船。盧武鉉の趣味。政界入りする前の弁護士時代には滋賀県のヨットスクール校長と知り合い、1983年、琵琶湖で開かれた親善レースと講習会にも参加。10日に渡って操船技術や競技運営などを学んだ。ヨットを学ぶために日本語を学び、滞在中は一滴の酒も飲まず、ヨットに没頭したという。

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鄭夢準

現代財閥の創始者にして、韓国サッカー協会会長として2002W杯を成功に導いた大物。W杯後、国民的人気が急上昇して新党・国民統合21を設立、大統領選にもうってでたが、政策・理念・支持層が民主党・盧武鉉候補と共通していたため、その後、盧武鉉を統一候補に協力体制をすすめていた。しかし投票前日の20002年12月18日、国民統合21の側から、盧への支持を撤回。同日の遊説で、盧が米国と北朝鮮が争った場合について言及したことに、鄭側が「我々の友邦国である米国が北と争う理由はない」などと問題視したためというが、実際はもっと単純な感情の行き違いが原因という。この撤回によって、盧の苦戦が予想されたが、辛勝で当選。

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苦学

お金がなく、苦労して勉学を続けること。盧武鉉は1946年、極貧の農家に5人兄弟の末子として生まれた。奨学金をもらって商業高校を卒業した後就職したが、あまりの低賃金に驚き退職した。独学で9年間かかって司法試験に合格、88年の総選挙で当選、政界入りするまで、人権派の弁護士として活躍した。

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盧風

盧武鉉を支持する雰囲気を指す言葉。とくに2002年4月ごろ盛んに使われた。だが、新千年民主党の公認候補に選ばれた直後、支持を求めて金泳三前大統領に接近、若い世代の反発を買って人気は失速した。盧陣営は改めて古い政治への決別を焦点とし、インターネットによる投票呼びかけなど、若者層の支持を狙った。

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三金政治

約30年間、韓国の政治を主導してきた金大中、金泳三、金鍾泌による政治体制。出身地域に依拠したカリスマ的指導者、または職業政治家がイニシアティブをとる政治であり、地域対立や不正・腐敗、国民間の格差といった制度疲労を生んだとされる。2002年12月の大統領選は、三金政治後の新時代をになう指導者を定める選挙だった。

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在韓米軍

韓国に駐留するアメリカ軍のこと。その数は3万7000人。

ちなみに在日米軍の総数には諸説がある。米軍の公式見解は約4万7000人。日本の防衛白書では約2万1000人。ほかにも朝雲新聞(防衛関係に詳しい)では、4万1200人。この差は主として米海軍第七艦隊の要員の要員を含むか否かにある。

さて韓国では、2002年6月、米軍の装甲車による女子中学生死亡事故が起こり、米軍に対する不満が爆発した。盧武鉉は過去の発言などから反米・嫌米派とされていたが、2003年1月のケリー米国務次官との会談では米軍の駐留を「今も、これからも必要」と明言した。

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女子中学生死亡事故

2002年6月、ソウル北方の路上で中学1年生の女子2人が、米軍装甲車にひかれて即死。もともと韓国では米軍による犯罪などで国民感情が悪化しており、約120の労組と市民団体が「汎国民対策委員会」を結成、米軍地位協定の全面改訂とブッシュ大統領の謝罪をもとめた。12月にはソウル市庁舎前の集会に5万人が集まっている。起訴された運転兵と管制兵は、11月に米軍事法廷で無罪評決を受け、出国。

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首都移転

盧武鉉の公約の一つ。韓国ではソウル周辺に人口が集中し、2010年には首都圏人口が2500万人(総人口4700万)に達すると見られている。盧武鉉はソウルを経済首都とし、その南方である忠清道に行政首都を置くことを主張、対立候補の李会昌に「非現実的」と批判された。もっとも、国民はあまり真剣に受け止めていない、との見方もある。

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