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“アメリカはたまに戦争に失敗する”の用語集
 

日本でもベトナム反戦運動

ゼッケン・デモ

1968年版本誌収録。以下、

ベトナム戦争に反対する東大生と会社員の2人が、昭和40(1965)年6月21日の夕方「ベトナムはベトナム人にまかせろ」などと書いた縦横3、40センチのゼッケンを背中につけて、散歩のようにブラブラとアメリカ大使館に近づいていたところを、機動隊につかまった。あくまで合法性を主張してゼッケンを外さなかった東大生は東京地検に書類送検された。とかくデモに対して当局の取り締まりが厳しいところから、「表現の自由」とか「特異な装い」についての論争が展開され。

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ベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)

1975年版本誌解説より。以下、

昭和40(1965)年4月、その年の2月の北爆強化にたいし、いかなる政党団体からも独立の、自発的市民のグループ(草の実会、声なき声の会)の呼びかけで、第1回デモが行われ、その行進のあと発足。呼びかけ人のなかには、小田実、開高健をはじめ、堀田善衛、高橋和巳、篠田正浩、サトウ・サンペイ、小松左京、飯沼二郎、小林トミらの名がみられる。

その後、ベトナム反戦を目的としてニューヨーク・タイムズ紙への反戦広告、反戦ティーチ・イン(ティーチ・イン)、定例反戦デモ、ベトナムに平和を日米市民会議、反戦米兵の脱走援助など、ユニークで創造力にあふれた反戦活動を展開し、市民的小集団の相互連帯の機関としての役割を果たした。

やがて43、44年の新左翼の昂揚とともに左傾化してゆき、新左翼の一勢力とみなされるようになって、市民的小集団の離脱がみられた。しかし既成左翼組織にみられた種々の弊害への反省から、組織行動のうえでのさまざまな試みがなされた意義は大きいであろう。ベトナム協定の後、49年2月解散。その後は、旧ベ平連のメンバーは各個別運動に分散しつつ、ときに応じて集会・デモに結集している。

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ベトナム特需

1968年版本誌収録。以下、

ベトナム戦争の拡大とともに米国が日本で調達する物資や労務は次第に大規模なものになっている。調達経路としては、<1>米国が特別の機関を通じて購入するもの、<2>第3国(韓国、台湾、フィリピン、タイ、香港など)を経由して輸出されるもの、<3>日本から米国への輸出の形で送り込まれるもの、がある。物資や労務の内容には航空機修理、船舶修理、機械、繊維製品、金属、木材からジープ(三菱)、軍用トラック(トヨタ)、ナパーム弾(日本油脂KK)などにいたるまで、すこぶる多岐にわたっており、鉄鋼、自動車、オートバイから護身用拳銃なども日本から米国へ輸出されている。通産省管轄以外の特別調達分については特需の額を正確につかむことは困難だが、朝鮮戦争特需のときの最高年額8億ドルをはるかに超え、14億ないし16億ドル、さらにそれ以上ともいわれている。日本の好景気にベトナム特需が作用していることは否定できない事実である。

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ベトナム戦争と日本の立場

1973年版本誌解説より。以下、

日本政府はベトナム戦争不介入の立場をとっているが、戦争の拡大とともに日本の対米協力は実質的に強化されてきている。<1>沖縄および本土の軍事基地使用、<2>米国軍への補給、<3>日米安保条約にもとづく政治・経済協力、<4>自衛隊と米軍との共同作戦体制(合同演習その他)の強化、<5>戦傷兵の療養施設と帰休兵の休養施設提供、など日本の対米協力は日増しに密接となり、国会でもしばしば論議の的となった。

ことにニクソン大統領の「ベトナム化」政策が推進される一方、戦争がカンボジア、ラオスへ拡大されるとともに、アメリカは軍事・経済の負担の一部を日本に肩代わりさせようとする意向が強くなり、南ベトナムからの援助要請も強化されてきている。このことはまたインドシナ3国人民およびこれを支援する中国、北朝鮮からは「米日反動勢力による日本軍国主義の復活」と非難され、沖縄返還などにも影響をおよぼすものとなっている。

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