月刊基礎知識
月刊基礎知識トップページへ バックナンバーへ
夏休みもおわり特集・子どもに見習わせたい“最近の偉人”伝
――世界的に著名な日本人からキーワード
執筆協力 編集工房インデックス

北野武

「世界のキタノ」になる前の“ビートたけし”

ペンキ屋

たけしは1947年、足立区梅島のペンキ屋、菊次郎・さき夫婦の四男として出生。ちなみに北野大(淑徳大学国際コミュニケーション学部教授)は三男。小学校の高学年になると、日曜によく父親の仕事を手伝わされたという。明治大学工学部入学後の1966年、すきをねらって自分の荷物を運び出し、六畳一間のアパートに移り住む。大学は中退。

ページの先頭へ 戻る

北野さき

たけしの母。1999年8月没、享年95歳。北野家の生活は貧しく、楽ではなかったが、その「貧しさから抜け出すには勉強しかない」という確信から、子どもたちには大学進学を命じ、自らもはたらきに働いてそれを支えた。「グレなかったのはやっぱりおふくろがおっかなかったから」等々たけしも述懐している。

ページの先頭へ 戻る

浅草フランス座

1947年に開業した浅草のストリップ劇場。浅草は昭和30年代くらいまで日本の笑芸の中心だった。エノケン、由利徹、渥美清、三波伸介、伊東四朗、萩本欽一などが浅草出身の芸人。フランス座は渥美清をはじめ多くのコメディアンを育てた。作家の井上ひさしも文芸部員をしていた。たけしは1972年からエレベータボーイ兼コメディアンに。99年6月閉館するも、2000年1月1日、演芸中心の多目的ホールに衣替えして復活。

ページの先頭へ 戻る

深見千三郎

浅草フランス座の座長でコメディアン。たけしが「唯一の師匠」と呼ぶ人物。深見については色川武大が「寄席放浪記」で地味な存在だったと紹介している。捨て台詞と田舎ものを莫迦にする芸風をたけしは受け継いでいる。1983年に独り暮らしのたばこの火の不始末で焼死。享年59歳。深見は萩本欽一の師匠でもあった。

ページの先頭へ 戻る

ツービート

1974年、歌手志望で山形出身の兼子二郎(ビートきよし)とたけしの2人で結成した漫才コンビ。はじめ「松鶴家二郎・次郎」という芸名で漫才師としてデビュー。次に「空たかし・きよし」という芸名で漫才をしたが売れず、一時期コンビを解消。その後再び兼子と組み「ツービート」に改名。漫才ブームにのり人気が急上昇する。

ページの先頭へ 戻る

MANZAIブーム

1978年に空前の漫才ブームが到来、「漫才」は「MANZAI」とよばれた。80年代初頭にはやすし・きよし、B&B、紳助・竜介、ザ・ぼんちなどの漫才コンビがお茶の間を賑わした。ツービートは「赤信号みんなでわたれば怖くない」「寝る前にちゃんと絞めよう親の首」などの物言いで“毒ガス”と評された。1978年はたけしが結婚した年でもある。

ページの先頭へ 戻る

オールナイトニッポン

1967年から放送されているニッポン放送の深夜ラジオ番組。笑福亭鶴光、中島みゆき、タモリ、とんねるず、所ジョージ、ウッチャンナンチャンなど時代の人気者がパーソナリティーを務めてきた。たけしは1981年1月1日から90年まで木曜日の第一部(1:00-3:00)を担当。小林信彦も『笑学百科』で絶賛しているように当時の若者はDJたけしの面白さに釘付けとなった。

ページの先頭へ 戻る

高田文夫

1948年〜。東京都出身、渋谷の育ち。。日本大学芸術学部卒業後、放送作家となる。「オールナイトニッポン」の構成を担当、ビートたけしのオールナイトニッポンでは、サブパーソナリティーとして活躍。「オレたちひょうきん族」など数多くのバラエティ番組も手がける。落語家・立川藤志楼としての活躍も知られる。

ページの先頭へ 戻る

おれたちひょうきん族

プロデューサー横澤彪が仕掛人となり1981年5月16日〜89年10月14日まで土曜日8時から放送されたフジテレビのお笑い番組。ビートたけし、明石家さんま、島田紳助、片岡鶴太郎、山田邦子、直木賞作家・景山民夫らが出演。ビートたけしの「タケちゃんマン」が大人気となった。この種の番組の常で、日本PTA全国協議会調査「子どもにみせたくない番組」にもえらばれた。

ページの先頭へ 戻る

横澤彪

1937〜。群馬県出身。吉本興業常務取締役東京支社長。東京大学卒業後、フジテレビでプロデューサーとして「ママとあそぼうピンポンパン」「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」など人気番組を手掛ける。MANZAIブームの仕掛け人。ひょうきん族ではグレート義太夫と共に後悔懺悔室に神父役で登場していた。「金もうけより人もうけ」がくちぐせ。

ページの先頭へ 戻る

戦場のメリークリスマス

1983年製作。監督は大島渚。坂本龍一、デビット・ボウイ、内田裕也、ジョニー大倉、内藤剛志、三上寛、室田日出男などそうそうたる面々が出演。原作は、サー・ローレンス・ヴァン・デル・ポスト。たけしは鬼軍曹役を熱演し、役者としての地位を確立。「ツービート」のメンバーとしてお笑いの世界では頂点にいたものの、役者としてはまったく未知数であったたけしを、抜擢し、口説き落とした大島監督の眼力は特筆すべきである。この作品は、その後、映画で世界的に名はせることになるたけしのスタートラインともいえるから。

ロケ中、たけしらが坂本龍一の分の鰻弁当を食べてしまい坂本が涙ぐむという一幕もあったという。

ページの先頭へ 戻る

たけし軍団

1983年に旗揚げされたビートたけしの弟子達の総称。そのまんま東、ガダルカナル・タカ、ダンカン、浅草キッドなどが所属。たけしの出演するTV番組、監督する映画などで活躍。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」「スーパージョッキー」などのたけし番組では欠かせぬ存在であった。

86年のフライデー編集部襲撃事件にも同行。

ページの先頭へ 戻る

「フライデー」編集部襲撃事件

写真週刊誌の過激取材の続発やのぞき趣味的な編集方針に批判が高まるなか、ビートたけしが「たけし軍団」をひきつれ「フライデー」編集部(講談社)に殴り込みをかける事件を起こした。

12月9日深夜3時すぎに編集部に押しかけ、傘や消化器を手に乱闘。

フライデー側は「言論出版の自由を脅かす行為」と非難声明を出したが、世論はたけしらに同情的で、たけしも逮捕後の記者会見で「ほかに手段があれば、お聞かせ願いたい」と開き直ってみせた。

ページの先頭へ 戻る

「その男、凶暴につき」

1989年製作。映画監督・北野武の処女作となった作品。当初、深作欣二を監督に迎える予定であったが、事情が変わりプロデューサの奥山和由から、たけしが脚本に手を入れることを条件に監督・主演の依頼を受けることになった。日本アカデミー賞の話題賞を受賞。たけしは授賞式に振袖姿で出席。

ページの先頭へ 戻る

HANA‐BI

1997年のベネチア国際映画祭でグランプリである金獅子賞に輝いた北野武監督作品。世界29ヶ国で上映された。受賞してイタリアから電話したたけしに母さきは、「早く帰ってマジメにやれ」と言って義姉に電話をかわり、息子に気づかれぬように涙をぬぐったという。この作品で北野武は世界的映画監督となった。

ページの先頭へ 戻る
All Right Reserved, Copyright(C) ENCYCLOPEDIA OF CONTEMPORARY WORDS