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これからどうなるか?のヒント アフガン民族の基礎知識
 

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カンダハール

アフガニスタン南部の中心都市。地理的要衝に位置しているため、古来からこの地の占領を望む者の侵入が絶えなかった。現在でも、カーブルを通らずにパキスタンから中央アジアに抜けるルートの拠点として、その地理的優位性は変わっていない。住民はパシュトゥーンが多数を占める。

かつてはダリウス1世のアケメネス朝ペルシャの一部であったが、BC.329年にアレクサンダー大王によって再建された。カンダハールという名前は、アレクサンダーの東方的呼び方“イスカンダール”に由来する。7世紀にイスラム教徒が征服し、その後はさまざまなイスラム王朝の支配下にあった。

16世紀にカンダハールのギルザイ族の部族長、ミール・ワイズがサファヴィー朝支配に反乱を起こし、アフガニスタン建国の端緒をつけるまでは、サファヴィー朝とムガール帝国の間で争われていた。1747年、アフマッド・シャーがカンダハールを中心に建国し、ティムール・シャーが都をカーブルに移すまでは、カンダハールが都であった。

建国の父、アフマッド・シャーの廟の横には、預言者モハンマッドの外套が納められているという聖所があり、1996年、タリバーンのオマル師がアミール・ウル・モッメイーンを名乗ったときに、ここから出してきたとされる外套を羽織ってみせた。

郊外は肥沃な土地に果樹園が広がり、ブドウ、イチジク、ザクロの産地だったが、ソ連との戦争の時にたくさんの地雷が埋められた。90年以降に戻ってきた難民たちは、果物にかわってアヘン栽培を始めた。

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マザーリ・シャリフ

この地名は“高貴な血筋の人の聖廟”があるところという意味である。高貴な血筋の人とは、4代目正当カリフでシーア派初代イマームであるアリーのことをさす。アリーはイラクのナジャフに葬られたはずだが、この地の伝説では、アリーの遺体は白いラクダの背にのって運ばれ、そのラクダは勝手に動き続けていたが、やっと立ち止まった。そしてそこにアリーが埋葬されたというのである。

15世紀初めに、2つの丸屋根をもつ建物が墓の上に建てられた。続いて大きなモスクと廟が建てられ、マザーリ・シャリフはとりわけシーア派にとって重要な巡礼地となった。

19世紀末にはマザーリ・シャリフの人口は2万人ほどであったが、1930年代には北部アフガニスタンの中心的商業都市へと発展した。その名産品は、カラクル羊の皮、絨毯、メロンなどである。ウズベキスタンとの国境テルメスに近く、地形的にも平坦であるため、軍事的拠点としても重要である。

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カイバル峠

アフガニスタン国境のトルハムからパキスタンのペシャワールへと続く歴史的な峠。この峠の近くに住む人々の大半はパシュトゥーンのアフリディ族で、彼らは峠の番人と呼ばれる。狭軌の鉄道は、この峠とペシャワールを結ぶために19世紀に英国が作ったものである。英国は1879年のガンダマック条約でこの峠を管理下に置いた。現在、このアフガニスタンの“インド門”は、デュランド・ラインによって、パキスタン側に属している。

この峠のふもとの街ランディ・コータルは、辺境地帯の密輸業者のマーケットのひとつであり、パキスタンの部族地域でしかお目にかからないようなものを買うこともできる。

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バーミアン

ヒンドークシュ山脈の端、標高2500mの高地にあり、4〜7世紀頃にわたって仏教文化が花開いた仏都。屏風のように切り立った大岩壁をうがって1000をこえる石窟寺院が営まれ、内部は極彩色の壁画で彩られていた。大岩壁にはまた、高さ55m (西の大仏) と38m (東の大仏) に及ぶ巨大な仏像がふたつ刻まれていた。632年にここを訪れた玄奘三蔵の「大唐西域記」に記述があることから、大仏制作はそれからさほどさかのぼらない頃ではないかと推定される。

8〜9世紀にかけて侵入してきたイスラム教徒によって、大仏の顔面が削り取られたとされる。さらに、1221年、ここを舞台にイスラム軍とモンゴル軍の激しい戦いが繰り広げられ、孫の戦死に激怒したチンギス・ハーンは、兵士、住民はおろか、一木一草にいたるまで根絶やしにしたため、死の谷となった。

19世紀〜20世紀にかけて、バーミアンは遺跡として熱い注目を集めるが、アフガニスタン政府はイギリスとの政治的対抗からフランスと文化協定を結んだため、1922年から30年間、考古学的な調査はフランスが独占することになった。この間にバーミアンのほかに、ベグラム、スルフ・コタール、フォンドキスタン、ハッダなどの主要遺跡はほとんどがフランスの調査隊によって発掘された。これらの発掘品は、現在、パリのギュメ美術館で見ることができる。

ソ連侵攻以降の内戦でも破損が心配されていたが、2001年3月タリバーンによって、石仏2体が破壊された。

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マドラッサ

イスラムの知識を教える教育機関で、通常はモスクに併設されている。イスラム世界ではどこでもそうであるように、アフガニスタンでも教育はイスラム聖職者の領域だった。ムッラーが、コーランを読み、暗誦することを教えた。イスラム学者のウラマが裁判官やムフティー (イスラム法の解釈をめぐって意見を言う資格が認められている人のこと) 、その他の宗教施設のメンバーを訓練した。15世紀にチムール帝国の時代に、ヘラートには有名なマドラッサがいくつか作られ、19世紀はじめまで教育の中心として機能していたが、侵入と戦いが教育システムの衰弱を招いた。アブドル・ラーマンがカーブルに王立のマドラッサを、ついでハビッブラーが世俗の学校としてハビビア・スクールを作り、今日まで続いている二元的な教育システム (宗教家による伝統的な教育と政府による学校教育) の源となった。

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スーフィズム

イスラム神秘主義のこと。世俗の虚飾を離れ、禁欲的修行によって、神との合一を究極の目的とする。アフガニスタンにおける有名な神秘主義詩人はガズニのサナイ (Sanai) で、12世紀はじめに神秘主義の叙事詩を書いた。ジャハルディーン・ルーミーは1207年バルフの生まれで、そのため、アフガン人からバルフィと呼ばれた。ホラーサンのジャムで生まれたジャミは1492年にヘラートで死んだ。

現代において、アフガニスタンで最も有名なスーフィー教団は、カディリとナクシュバンディである。カディリ教団は教団設立者のアブドル・カディル・アル・ジラニの子孫である、ピル・アフマッド・ギラニによって率いられている。アフガニスタンの南部・東部のパシュトゥーンの間に支持者が多い。ピル・アフマッド・ギラニはモジャヒディーン勢力のアフガニスタン民族イスラム戦線の指導者であり、1989年にアフガニスタン暫定政権を作った7同盟の一翼を担った。王室と婚姻関係にある。

一方、ナクシュバンディ教団は14世紀、ブハラに起源をもち、信者はアフガニスタンの北部と南部に多い。南部アフガニスタンではムジャデディ家が教団信徒を組織している。指導者のシブガトゥラ・ムジャデディは、89年2月、パキスタンに本部を置くモジャヒディーンの7党同盟のメンバーで作られたアフガン暫定政権の大統領に選ばれた。

両指導者ともムジャヒディンの中では穏健派で、99年政治に復帰し、タリバーンと反対勢力の仲介しようとしている。

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