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これからどうなるか?のヒント アフガン民族の基礎知識
 

パシュトゥーン以外の民族

タジク

パシュトゥーンについで人口比率の多いイラン系民族で、ダリー語を母語とする。アフガニスタンと国境を接している旧ソ連のタジキスタン共和国には、約400万人のタジク人がいる。アフガニスタンに居住する者は、アフガニスタンの全人口の4分の1を占め、約650万人 (2001年版ブリタニカ年鑑) である。ほとんどがスンニー派。バダクシャン地域に分散して住むマウンテンタジクと呼ばれる人々は、タジク人とは別のグループで、シーア派のイスマイリ派に属する。

タジク人は、古くから、ホラサーン地方やシスターン地方において、経済、軍事の中心を担っていたが、チュルク系民族の度重なる侵入によって辺境部に追いやられた。ブハラ、サマルカンドは、タジク人が誇るべき歴史と文化の中心都市であるが、今ではウズベキスタンに組み込まれている。

アフガニスタンではタジク人は各地に分散しているが、アフガニスタン西部、北部、北東部に集中的な拠点がある。主に農業に従事しているが、都市に住んでいる人は、職人や商業従事者が多い。官僚に就いているものも多く、偉大な文化的伝統意識から、パシュトゥーンが「武人」であるとすれば、タジクのエリートは「文人」といえる。

1747年の建国以来、アフガニスタンの支配民族はパシュトゥーン人であったが、例外が2つある。ひとつは9ヶ月しか続かなかったが、1929年のバッチャ-イ-サカウ政権であり、もうひとつが92年6月〜96年9月までのラバニ政権である。そしてこの二つともタジク人中心の政権であることは特記すべきことである。今年の9月に暗殺されたアハマッド・シャー・マスードもタジク人である。

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ハザラ

背が低く、モンゴル系の顔立ちが明らかなハザラ族は、人口約500万、アフガニスタンの総人口の約5分の1を占める。その顔つきから、チンギス・ハーンの末裔という説もあるが、むしろモンゴル系・タジク系・トルコ系などの混血の子孫ではないかとされる。いずれにしても起源ははっきりしない。ハザラの中にも、ジャグリー、ベスッド、ダイ・ザンギ、ダイ・クンディなどの氏族がある。

ほとんどがシーア派であるが、一部少数ながら、イスマイル派、スンニー派もいる。故地はアフガニスタン中央高地のハザラジャートであるが、アフガニスタンの大きな都市で日雇い労働や季節労働に従事している者も多い。ダリー語の一種であるハザラギを話し、チュルク語やモンゴル語起源の語彙も含まれている。

ハザラジャートはパシュトゥーンのアフガニスタン王朝に対して非協力的で、実質的に独立を維持していたが、1890年から1893年にかけて、アブドル・ラーマンに制圧された。その時、ある者はイラン、中央アジア、バローチスタンへ逃げ、ある者は捕虜としてカーブルへ連行され、都市の肉体労働者となった。

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ダリー語

アフガニスタンで使われているペルシャ語。ふたつあるアフガニスタンの公用語のひとつ (→パシュトゥー語) 。中央アジアやムガール帝国の宮廷用語だったことから、ダリーという言葉は宮廷を意味する「darbar」に由来するとされる。

イランの標準的ペルシャ語とは発音、文法、語彙において違いがあり、もはやイランでは使われていない古い語彙も残っている。ダリー語の総人口は約1500万人で、タジク、ハザラ、アイマークなどの母語。ダリー語のなかにも差異があるが、地域的にはカーブル、マザーリーシャリフ、バダクシャーン、ヘラート、ハザラジャートなどで話されている。 1936年以降、政府は国家統一の象徴としてのパシュトー語の普及に尽力してきたが、より汎用性のあるダリー語の優位は変わらず、異なる民族間のコミュニケーションには欠かせない。パシュトゥーンでも都市化された人々や教育を受けた人々は、ダリー語を話す。

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キルギス

キルギスタン共和国、ウズベキスタン、中国の新疆・ウイグル自治区などに住むチュルク系民族。アフガニスタンにも、バダクシャン州の東に少数が住む。ソ連侵攻後、1980年代にパキスタンに難を逃れたが、のちトルコに流出した。19世紀の初めには、中央アジア、中国・新疆から季節的に遊牧で来るだけだったが、第一次世界大戦時、アフガニスタン・パミールのワハン回廊に定住した。彼らは移動式天幕に住み、羊や山羊、ヤクを飼育して生計をたてていた。70年代には、アフガン・キルギスは約1900人だった。

なお、キルギスタン共和国とアフガニスタンは国境を接していない。

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ギジルバーシュ

トルコ語ではクズルバシュといい、彼らが着用したターバンの色にちなんで、「赤い頭」を意味する。ギジルバーシュはそのペルシャ語。彼らはもともとはサファヴィー神秘主義教団のトルコ系戦士集団で、イスマイル1世に忠誠をつくし、サファヴィー朝の創設を助けた。ペルシャのナーデル・シャー・アフシャールはインドに遠征する時に、彼らを連れて行き、カーブルに後衛として配した。

もとはトルコ系だが長い間にペルシャ化し、アフガニスタンではダリー語を話す。主にヘラート、カーブル、カンダハールの都市部に住んでいる。シーア派を信奉し、民族的・宗教的に少数者であるため、タキーア (意図的な信仰隠し) に頼る傾向にある。教育水準が高く、アフガニスタンの知的集団のひとつを形成し、官僚組織や商業の分野で傑出した地位を保ってきた。アミール・ドースト・ムハンマッドの治世が終わるまで (1860年代) は軍務についていた。

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ウズベク

アフガニスタンで最大のトルコ系民族で、人口約150万人。トルコ系のウズベキ語を話し、ほとんどがイスラム・スンニー派。アフガニスタンと国境を接するウズベキスタンには1900万人のウズベク人がおり、旧ソ連邦内、中国の新疆ウイグル自治区も合わせると、約2200万人以上の中央アジア最大の民族となる。

アフガン国内では、西のファリヤブ州からバダフシャン州にいたる北部アフガニスタンに居住しており、大分部が定住農耕民である。ウズベクという名前は、15世紀末にティムール朝を滅ぼした遊牧ウズベク集団に由来する。16世紀初めには、ブハラ、サマルカンド、ヒバを掌中におさめた。

1980年、アフガニスタンの共産主義政権は彼らの支持を得るためにウズベク語を民族語として公認し、教育、新聞、放送に使用することを許可した。いくつかのウズベク人グループは、カーブルの共産主義政権にパシュトゥーン人地域での軍事提供をした。

反タリバン同盟のドスタム将軍はウズベク人である。

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ブルハヌッディン・ラバニ

非パシュトゥーンが多数を占めるジャミアッテ・イスラミ (イスラム協会) の最高指導者。

1940年バダクシャンのファイザバッド生まれ。タジク人。カーブル大学とカイロのアルアズハル大学で学び、68年にイスラム神学の学位を取得。アフガニスタンに戻り、カーブル大学の神学部で教える。イスラム法の機関紙「マジャラッテ-シャリーアット」の編集人となって、50年代後半以来、イスラム主義運動の指導的メンバーとなる。彼はアフガニスタンの世俗的傾向に反対し、左翼運動に反対する大学生を組織した。

71年、ジャミアッテ・イスラミのリーダーとなり、74年にパキスタン政府の支援を求めてパキスタンに移った。92年、反政府勢力を率いてカーブルを占領し、ナジブラ政権を倒した。93年に大統領に就任したが、国土をまとめることができず、96年9月、タリバーンの攻勢で首都を脱出した。支配地域はアフガニスタン北部の一部だが、国連での代表権は維持している。

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