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これからどうなるか?のヒント アフガン民族の基礎知識
 

アフガンの主要民族パシュトゥーン

アフガン

ペルシャ語によるパシュトゥーン民族の他称。文献上は、インドの天文学書に avagana として出てくるのが初出。次いで三蔵法師の自伝「慈恩伝」に「阿薄健國」として、さらに10世紀ごろのものとされるぺルシャ語による地理書「世界の諸地域」に“Afghan”人という記述がみられる。

20世紀初めまでは、パシュトゥーンのみをさし、アフガニスタン地域の民でも他の民族はそれぞれの民族名で呼ばれていたが、国家形成の過程でアフガニスタンのすべての国民をさす用語として使われるようになった。「〜スターン」とは、ペルシャ語で「〜の場所、所」を意味し、アフガニスタンはアフガン人の地というほどの意味。

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パシュトゥーン

アフガニスタンの主要構成民族で、かつ支配民族。ドゥッラニー、ギルザイ、カカール、アフリーディー、ユースフザイ、シンワーリなど約40部族に分かれ、部族はさらに氏族 (ケール) に分かれる。

人口は正確には不明だが、ブリタニカの2001年年鑑によれば、アフガニスタンの総人口約2600万人のうち38%の約990万人、居住地域はカンダハールを中心としたアフガニスタン南部、ジェララバードを中心にしたアフガニスタン東部などに多い。これとは別にに国境を越えてパキスタン北西辺境州、バローチスタンにも居住しており、パキスタンに流れた難民も合わせると総人口は約2500万〜3000万人。多くがスンニー派ハナフィー学派、一部にはシーア派もいる。

時に「パターン」と呼ばれることがあるが、これはイギリス人ないし西洋人からの他称で、パシュトゥーンの複数形「パシュターナ」がなまったものとされる。

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パシュトー語

アフガニスタンの公用語のひとつ。パシュトゥーンの母語で、印欧語族のイラン語派に属し、アラビア文字表記。パキスタンのペシャワール、アフガニスタンのジャララバードを中心とする東北方言とカンダハールを中心とする西南方言に分けられる。ペシャワール地方の言葉はパフ (ク) トー、カンダハール地方の言葉はパシュトーと呼ばれる。

1936年のザーヒル・シャーの勅令によって公用語とされた。翌37年にはパシュトー・アカデミーが創設され、公用語としてのパシュトー語の育成のため、辞書の編纂、各種出版物の刊行、官吏のためのパシュトー語語学講座などが開催された。しかし、一民族語からの脱却はなかなか難しく、パシュトゥーン以外で話せる人は少ない。 (→ダリー語)

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パシュトゥニスタン

パシュトゥーン人の地という意味では、アフガニスタンとパキスタンにまたがるパシュトゥーンの居住地をさすが、この地域は、デュランド・ラインによって、パキスタンとアフガニスタンに分断されている。そのため通常は、分断されたパキスタン側のパシュトゥーン居住区、つまり北西辺境州とバロチスタンの一部地域をさす。

パキスタン側では、パシュトゥーン人居住地のかなりの部分は、部族地域 (tribal area) に指定され、彼らの自治を大幅に認める一方で、外部からの非パシュトゥーン人の入域を制限して、地元の有力者と政府側の協議によるコントロールが行われている。

アフガニスタンのパシュトゥーン指導者は、分断されたパシュトゥーン人の統合をめざす運動を一貫して支持。1961年、ダウド首相の時にはこの地域のアフガニスタンへの併合を主張して、パキスタンとの関係が緊張した。ソ連がダウド支持を表明したことから、アフガニスタン- パキスタン間は一時、国交断絶、国境閉鎖にいたった。

なお、アフガニスタン国内の非パシュトゥーンは、パシュトゥニスタン運動には冷淡である。

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ドゥッラーニー

パシュトゥーンの名門部族。カンダハールを中心とするヘルマンド河域の中流、下流域に居住する。大きくジーラクとパンジパーウのふたつのグループに分けられ、それぞれがまたいくつかの氏族に分かれる。ドゥッラーニーはほとんどが定住民で、農業や牧畜に従事している。

ドゥッラーニーはもともとはアブダリといい、アブダリの長には「ドッレ・ドゥラーニー」 (真珠のなかの真珠の意) という称号が与えられていた。1747年に、アブダリのアフマッド・ハーンがジルガによってアフガンの王に選ばれて以来、その称号にちなんで、彼の部族はドゥッラーニーと呼ばれるようになった。

ドゥッラーニーは歴代アフガン王を輩出した名門一族で、1747年から王制が廃止される1978年まで、アフガニスタンを統治した。その系統にサドザイ朝 (ポーパルザイ氏族) とムハンマドザイ朝 (バーラクザイ氏族) とムシャーヒバーン朝の3つがあり、1747年〜1842年までがサドザイ朝、その後1842年からアマーヌッラーまでの1929年までがムハンマドザイ朝、ナーデル・シャーおよびザーヘル・シャー時代の1973年までがムシャーヒバーン朝である。

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ギルザイ

ドゥッラーニーと並んで、パシュトゥーンの多数派部族。遊牧を生業とし、パキスタンでは“ポーウィンダ”、アフガニスタンでは“クチ”と呼ばれる。故地はハザラジャートとスレイマン山脈の間の高地。大きくブーラーンとトゥーラーンのグループに分かれ、さらにスレイマーン・ケール、アリー・ケール、アーカー・ケール、ホータクなど10あまりの氏族に分かれている。

ホータキ・ギルザイは、サファビー朝の支配下からカンダハールを解放し、イランに侵入して1722年にイスファハンを陥落させたことで、アフガニスタンの歴史に名声をとどめている。ギルザイはドゥッラーニーの最大のライバルであり、繰り返しムハンマドザイ朝の支配に抵抗したが、1937年にやっと制圧された。以来、都市のギルザイはムハンマドザイと通婚するようになった。

近年になって、タラキ、ナジブッラー、アミンなどの共産主義指導者、ヘクマチヤール、サヤーフなどのモジャヒディーンもギルザイの出で、ドゥッラーニーからギルザイに権力が移りつつあるとみる専門家もいる。

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ザーヒル・シャー (ムシャヒバーン朝)

1914年生まれ。33年、暗殺された父王ナーデル・シャーの後を継いで19歳で即位。最初の20年は2人のおじが補佐、ついで10年はいとこのムハンマド=ダウドが首相として補佐した。63年、パシュトゥニスタン運動によって断絶していたパキスタンとの国交改善のため、ダウド首相が辞任。以降、王室の権威は失墜し、64年の新憲法では、王族を政治活動から排除する条項が制定され、平民宰相のもとにめまぐるしい政権交代が続いた。この間にアフガニスタン人民民主党 (PDPA=共産党) が設立され、一方ではイスラム復興運動が伸張した。

73年、ザーヒル・シャー外遊中にクーデターが起こり、王族のダウド元首相が政権の座に復帰し、「アフガニスタン共和国」が成立した。ザーヒル・シャーは滞在地イタリアで退位を表明し、そのまま現在にいたるまでローマに亡命中。現在87歳。今回の国難に対して、「要請があれば祖国に帰国して、反タリバン勢力を束ねる意志がある」ことを表明。国王を求心力とした、タリバーン後の政権構想も練られている。

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ムハマッド・ナジブッラー

1986年〜92年までPDPAの書記長であり、アフガニスタンの大統領であった。47年カーブルのギルザイ・パシュトゥーンの家に生まれる。ハビビア・ハイスクール、カーブル大学で学び、医学部を卒業。65年にPDPAのパルチャム派のメンバーになり、政治活動により何度も逮捕される。サウル革命のあと、テヘランのアフガン大使に任命されたが、すぐにハルク派によって罷免される。彼は海外に残り、79年のアミンの追放後カーブルに戻った。86年にカルマルに取って代わって、PDPAの書記長・アフガニスタンの大統領となる。

89年ソ連はアフガニスタンから撤退するが、その後もナジブラ政権とアフガニスタン・ゲリラとの戦いは続き、ゲリラ組織の勢力争いから膠着状態に陥った。92年4月、ブルハヌッディン・ラバニとマスードが率いる組織がカーブルを陥落。ナジブラはカーブルの国連施設内に保護されていたが、96年、カーブルを占領したタリバーンによって拷問の末射殺、遺体は吊るされた。

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