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イスラムと西欧の1990年代

イスラムと西欧の1990年代

イスラム国家

現代用語の基礎知識1991年版に掲載された項目。

「イスラム国家」の概念は、あいまいである。一般にはイスラム教徒が人口の多数派を占める国をイスラム国家と呼ぶことが多い。1971年に設立されたイスラム諸国機構にはPLOを含め40カ国が参加している。このうちイスラムを国名に明記しているのはイラン、パキスタン、モーリタニアなどであり、いずれもイスラムの共和思想を国家の理念としている。しかし、ヨルダン、サウジアラビアや湾岸の王制(首長制)国家、イラク、シリア、アルジェリアのような社会主義的国家、直接的な人民主権こそイスラム国家の理念だとするリビア、それからトルコやインドネシアのようにイスラム教徒が多数派だが政教分離している国家など、イスラム国家の現形態はさまざまである。

イラン革命を指導したホメイニ師は政教一致、宗教指導者による政治支配を望んだが、実際には政府閣僚の多数は、テクノクラートら非宗教指導者で占められるなど、イスラム共和制の概念もあいまいになっている。

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イスラム諸国機構  Organization of Islamic Countries

現代用語の基礎知識1991年版に掲載された項目。

イスラム諸国の連帯を強化して、各分野での交流を促進、民族独立を目指すイスラム教徒の闘争を支援するなどを目的とするイスラム諸国の国際機構。1969年9月、モロッコのラバトで開かれた第1回イスラム諸国首脳会議の決議によって、71年5月設立された。外相会議は通常年1回。イスラム世界の内部の対立と混乱が深まるなか、当初の目的を十分達成できずにいる。加盟国はPLOを含め45カ国。

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イスラム・ジハード

現代用語の基礎知識1991年版に掲載された項目。

ジハードはアラビア語で「聖戦」を意味し、日本ではイスラム聖戦機構と訳される。レバノン内戦に介入する外国勢力に対する攻撃や誘かいがあるたびに、この組織が名乗りをあげた。アメリカは、イランと関係をもつイスラム・シーア派の隠れみのだ、との推測を流しているが、実体は不明。いろいろなグループが独自に行動を起こしてはイスラム・ジハードの名で声明を出しているとの見方もある。

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悪魔の詩

現代用語の基礎知識1992年版に掲載された項目。

イエス・キリストの冒涜に続いて、イスラム教の教祖マホメットの冒涜をめぐるトラブルが生じ、はるかに大きな政治的事件へと発展した。1988年9月、インド生まれのイギリス人作家、サルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』が出版された。この小説の中で主人公の一人、ギブリール・ファリシュタはいくつもの旅の夢を見る。その一つにはマメホットを皮肉ったマホウンドという人物が登場し、アラー以外の神を認めないはずのマホメットが女神を容認したという逸話、マホメットの妻たちの名を用いて客をよぶ売春婦の逸話などが語られる。「悪魔の詩」という句は、コーランに伝えられる言葉がアラーの意志によるものでなく、実は悪魔の言葉だったという伝承に基づいている。

出版と前後して、イスラム背教者の手になるこの小説のイスラム冒涜的性格が注目され、まずインドやパキスタンで発売禁止の措置がとられたが、この本の存在がイランの最高指導者ホメイニ師の知るところとなるや、人命に関わり、国際政治に関わる大問題に発展した。ホメイニ師は本の著者と出版者の処刑を指示し、イランの革命団体は「死刑執行者」に賞金を与えるとした。これらの声明は、欧米各国のはげしい反発を生み、イランとイギリスの断交にまで発展した。また、この問題をめぐる対立で、在欧のイスラム穏健派指導者の殺害事件も起こった。

71年7月には、日本語版訳者の五十嵐一筑波大助教授が殺害される事件が発生したがイスラム教との関係については不明(91年8月現在)。→筑波大助教授刺殺事件

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筑波大助教授刺殺事件

現代用語の基礎知識1992年版に掲載された項目。

1991年7月11日深夜、小説『悪魔の詩』(英作家サルマン・ラシディ著)を翻訳出版した五十嵐一・筑波大助教授(44)がキャンパス内で何者かに刺殺された。首の静、動脈を切断するなど全身数十カ所の切り傷があり、残忍な手口。同書の出版を巡って、1989年にイランの故ホメイニ師がイスラム教を冒涜しているとして、著者および出版関係者すべてに死刑を宣告。これに対してイギリスはイランとの国交を断絶した。著者は今なお潜伏生活を続けている。日本語版は90年に上下巻の2冊が出版された。7月15日、イランの反体制組織「ムジャヒディン・ハルク(イスラム人民戦士機構)」は、同機構が送り込んだ暗殺団の犯行と発表したが、イランを追い出されたこの組織による政治宣伝の可能性もあり、信憑性は低い。しかし、テロの可能性は捨てきれていない。

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ニューヨーク貿易センター爆破事件

現代用語の基礎知識1994年版に掲載された項目。

1993年2月26日、ニューヨーク市マンハッタン島の110階建て超高層ビルの地下駐車場で大爆発が起こり、5人が死亡し、100人以上が重軽傷を負った。地下駐車場に置かれた爆弾による爆破事件で、数日後2人のイスラム原理主義者が事件の容疑者として逮捕されたが、背後に大規模なテロ組織があるとする見方が有力である。約5万人が働いているこのビルは、約1週間閉鎖を余儀なくされ、事件は企業活動に大きな打撃を与えた。

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イスラム銀行  Islamic Bank

現代用語の基礎知識1994年版に掲載された項目。

シャリーア(イスラム法)に基づいて、利子を禁じた金融活動。現実には銀行と事業主の共同事業による利益配分や預金者に対するプレミアム支払いといった形で利子に相当する見返りが与えられている。

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イスラム脅威論

現代用語の基礎知識1995年版に掲載された項目。

欧米キリスト・ユダヤ教社会に広がる、イスラム教の復興、とりわけイスラム原理主義台頭に対する警戒論。イスラム脅威論が欧米キリスト・ユダヤ教社会に広がる契機になったのは、1979年イランで起きたイスラム革命だった。

欧米型近代化政策を推進した親米のパーレビ王政を打倒し、政教一致体制を確立したイスラム教シーア派政権が、アメリカを「大サタン」とよんで激しい反米姿勢を採った。このため欧米キリスト・ユダヤ教社会はイラン・イスラム革命を反欧米イデオロギーと見なし、同革命の周辺地域、とりわけペルシャ湾産油地帯への“革命輸出”を警戒した。さらに、1980年代末のソ連・東欧社会主義体制の崩壊がイスラム脅威論に拍車をかける形となった。

それまで欧米キリスト・ユダヤ教社会の最大の脅威だった共産主義イデオロギーが世界的に後退したため、イスラム教、その中でもとりわけ欧米キリスト・ユダヤ教社会の基本理念ともいうべき欧米型民主主義を否定するイスラム教原理主義が、欧米キリスト・ユダヤ教社会にとって、残る唯一の脅威と見えるようになったからだ。90年8月のクウェート侵攻で始まった湾岸危機で欧米社会全体を敵に回したイラクのサダム・フセイン政権がジハード(イスラム教の聖戦)を宣言したこともイスラム脅威論を強める結果となった。

こうしたイスラム脅威論を明確に表現したのが、米ハーバード大学のサミュエル・P・ハンチントン教授がフォーリン・アフェアーズ誌93年夏号に発表した論文「文明の衝突」だ。教授はこの論文で、「アラブ世界では、西側の民主主義政策が反西側勢力を強化している」と欧米キリスト・ユダヤ教社会とイスラム教世界との対立関係を端的に指摘するとともに、「(西側とイスラム教世界)との軍事衝突は今後一層激化の可能性がある」とも述べている。

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文明の衝突  the clash of civilization

現代用語の基礎知識1995年版に掲載された項目。

冷戦崩壊後の現在の世界政治は新しい秩序を模索している過渡期にある。東西のイデオロギー対決の時代からどのような対決の時代に移行していくのだろうか。世界政治では、イデオロギーや政治経済をめぐる対立ではなく、宗教、歴史、民族、言語、伝統を基礎とする「西欧」対「非西欧」の対立、つまり「文明の衝突」が支配的となる、とハーバード大学教授のS・ハンチントンは強調する。

彼によると、国民国家は世界政治の中で最も強力な主体のままであろうが、今後の紛争は異なる民族や宗教からなる文明をもつ国家や集団によって展開される文明上の対立が重要なものとなる。主要な文明とは、西欧文明、儒教文明、日本文明、イスラム文明、ヒンズー文明、スラブ文明、ラテン・アメリカ文明、アフリカ文明の8つがあるが、それらで「西欧文明」対「非西欧文明」という対立の構図を描くことになる。

そうした文明はなぜ対立するのか。第一に、歴史、言語、伝統、宗教の異なるそれぞれの文明の大きな隔たりこそそれぞれの文明の本質に他ならない。第二に、異文明との接触の増大で、自己の文明意識の強化と同時に、文明間の相違が意識される。第三に、多くの地域で宗教が重視されはじめ、「原理主義」が台頭している。第四に、非西欧諸国において自己の文明への意識が高まり、回帰運動が起きている。第五に、文化的特質や諸文化間の相違を克服したり、妥協することも困難である。第六に、ある文明を共有する地域での経済的ブロック化が起こっている。

そうした要因で展開される「西欧」対「非西欧」の対立の構図の中でも、とりわけ西欧の利益、価値、パワーに挑戦する「儒教・イスラム・コネクション」の形成は西側にとって脅威であり、それに対抗するよう、彼は説いている。

たしかに、ハンチントンのいう通り、冷戦崩壊後にこれまで潜在化していた非西欧地域の紛争や矛盾、また西欧との紛争が顕在化しており、湾岸危機・戦争、ナゴルノ・カラバフ紛争、旧ユーゴ紛争、ソ連邦の解体、ドイツやフランスでの外国人排斥運動、アメリカでのイスラム原理主義者のテロ活動、北朝鮮ミサイルの対中東輸出、イスラム原理主義者の台頭などが明らかだ。また、パワーが文明的な区分によって再編されつつあることも確かだ。さらに、非西欧諸国の挑戦に対し、西欧諸国が国際機構、軍事力、経済資源を用いて、その支配的価値、利益を維持しようとめざしているとの指摘も正しい。

しかしハンチントンのいう文明・文化の概念や文明の分類についての問題は別として文明上の対立が政治経済システムの対立にとって代わりつつあるとの見方、また、「儒教・イスラム・コネクション」の形成とその脅威性、それに対する西欧の抑圧的対応の必要性の主張には疑問がある。また、そのコネクションの脅威に対抗して防衛に力を入れるという、西欧の過剰反応こそ危険である。いずれにしても世界の対立の構図に日本がどのような顔をもって、どのような道を選択するかの重要性は変わらない。

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イスラム原理主義  Islam Fundamentalism

現代用語の基礎知識1995年版に掲載された項目。

シャリーア(イスラム法)の即時全面適用を求め、アラブ・イスラム諸国の世俗政権と対決する過激なイスラム教復古主義運動。

アルジェリアとエジプトでは両国の世俗・軍事政権の打倒を公然と叫び、武装、あるいはテロ闘争を続けている。さらには欧米キリスト教世界にも浸透し、1993年2月ニューヨークで世界貿易センター爆破テロ事件を起こし(→ニューヨーク貿易センター爆破事件)、キリスト教世界に激しい衝撃を与えた。欧米キリスト・ユダヤ教社会は、同社会が基本理念とする、いわゆる西欧型民主主義を原理主義者が否定することにも強い警戒心を抱く。

原理主義(Fundamentalism)は本来キリスト教用語なため、イスラム教世界では一般的にイスラム過激主義、政治的イスラムなどとよぶ。また、原理主義を非難する中東の世俗主義ジャーナリズムは、原理主義者をムタタッリフィーン(過激主義者)やイルハービユーン(テロリスト)などとよぶ。

歴史的には1920年代エジプトで中学校教師ハッサン・アル・バンナが始めた「ムスリム同胞団」が現代スンニー派原理主義運動のはしり。現在エジプトでホスニ・ムバラク政権と対決する「イスラム集団」や「ジハード団」ばかりでなく、アルジェリアの軍事政権を追い詰める「イスラム救国戦線(FIS)」も、同胞団思想の影響を強く受けている。原理主義支持者の間にはとりわけ、ムスリム同胞団の理論指導者で逮捕・処刑されたサッイド・クトブの過激理論共鳴者が多い。クトブは、現代をイスラム教開始以前のジャーヒリーヤ(無明)の時代と見なした。

原理主義運動が拡大を続けている大きな理由としては、原理主義が、アラブ・イスラム諸国の軍事政権の抑圧の下、高い失業率、貧困にあえぐイスラム教徒大衆の不満の“はけ口”にもなっている状況がある。

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イスラム集団  Al-Jama'a al-Islamiyya

現代用語の基礎知識1995年版に掲載された項目。

エジプトの軍部主体のムバラク現政権打倒を広言し、主に外人観光客を狙ったテロ活動を続ける過激なイスラム教原理主義組織。

1970年代末、エジプト南部の中心都市アシュートのアシュート大学学生を中心に組織された。精神指導者は、当時同大学イスラム法学部(アズハル大学イスラム法学部アシュート分校)講師だったオマル・アブドルラハマン師。

イスラム集団は81年9月初め、反政府勢力一斉弾圧に踏み切ったサダト政権(当時)打倒を決意。連携する首都カイロを拠点としたもう一つの過激原理主義組織「ジハード団」が10月6日サダト大統領を暗殺すると、26日後の8日アシュートで武装蜂起して警察署を襲撃、占拠した。しかし、危機感を強めた治安当局が送り込んだヘリ降下部隊によって間もなく鎮圧された。イスラム集団はこの後、精神指導者のアブドルラハマン師がサダト大統領暗殺容疑で逮捕されるなど徹底弾圧され、一時壊滅状態に陥った。

80年代末、モハメド・シャウキ・イスランブーリ(ジハード団のサダト大統領暗殺実行犯カレド・イスランブーリ中尉の実兄)、アブドルラハマン師の右腕とされたサフワト・アブデルガニらによって再建され、90年10月リファート・エル・マフグーブ人民議会議長を暗殺して反政府テロ活動を本格再開した。92年6月世俗主義評論家ファラグ・フォダ氏を暗殺。ムバラク現政権が翌7月「テロリズム対策法」を国会通過させて過激原理主義勢力徹底弾圧に乗り出すと、イスラム集団は同年10月、外人観光客に対する無差別テロに踏み切った。エジプトの主要な外貨収入源である観光を脅かすことでムバラク政権の国際的威信低下を狙った作戦だった。

一方、サダト大統領暗殺事件で無罪の判決を受け釈放されたアブデルラハマン師は90年春密かにエジプトを脱出、スーダンでアメリカの入国ビザを入手し、同年7月ニューヨーク入り、同地からエジプトのイスラム集団を遠隔指導した。師は93年2月26日発生したイスラム原理主義グループによるニューヨーク世界貿易センター爆破テロなどへの関連を問われ、8月25日、身柄拘束のままアメリカに対する陰謀罪などで起訴された。→ニューヨーク貿易センター爆破事件

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二重封じ込め  Dual Containment

現代用語の基礎知識1996年版に掲載された項目。

イランとイラクの同時封じ込めを図るクリントン米政権の中東政策。二重の封じ込め政策は、クリントン政権の国家安全保障会議中近東・東南アジア問題担当大統領特別補佐官マーティン・インディク氏(現駐イスラエル大使)が1993年5月18日、ワシントン近東政策研究所での演説で概要を初めて明らかにした。インディク氏はこの中で、イランとイラクを互いに対立させる従来のアメリカの政策の放棄を明らかにし、「(アメリカは)イラクとイラン政権双方に対抗できる。一方に対抗するため他方に依存する必要はない」と語った。アメリカは、79年親米のパーレビ王政を革命で倒した現イスラム共和制政権を敵視するとともに、同政権の「イスラム革命の輸出」を警戒した。さらに90年8月フセイン政権がクウェートに侵攻して湾岸危機が発生すると、以来アメリカは親イラク政策を一変しフセイン政権打倒を目指すことになった。

一方、イランも湾岸戦争後、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、中国との中距離弾道ミサイル他の商談、ロシアからの潜水艦購入など軍備拡張を推進、一方でレバノン南部のイスラム原理主義民兵ヒズボラ(神の党)、イスラエル占領地のパレスチナ人イスラム原理主義組織ハマスなどへの支援を強めるなど反米姿勢を崩さず、93年1月発足したクリントン政権はイラン、イラクの同時封じ込めを図ることとなった。95年5月17日、米国防総省は、二重封じ込め政策を中核とする中東安保戦略報告を発表した。同報告書は、イラクが国連制裁を解かれれば、一年以内に弾道ミサイルや化学・生物兵器の製造を再開、10年以内に核兵器を開発するだろうとし、イランも大量破壊兵器に関心を示し、同時にイスラム過激派のテロを支援していると、イラク、イラン両国の危険性を指摘した。

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イスラム文明  Islamic civilization

現代用語の基礎知識1998年版に掲載された項目。

信仰としてのイスラム教を核として、文化と生活原理を包含した巨大な文明。7世紀に成立したイスラム教は、またたくまに西アジアに大帝国をきずき、のちに地中海からサハラ砂漠、イラン・インドまで及んで、共通の宗教文化を建設した。ダマスカス・バグダード・カイロそしてのちにイスタンブールなどは信仰ばかりか政治、学問、技術、芸術の中心となり、きわめて高度な水準に到達した。古代のオリエント・ギリシャ文明の遺産をうけとり、東方との交流からも刺激をうけて、当時にあっては世界史をリードする役割を果たした。西欧の近代化のなかで後進的地位に甘んじたが、20世紀後半となって自己意識に覚醒し、独特の信仰儀式やイスラムとしての連帯感のもとで、現代世界に強いメッセージを発するにいたった。

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ルクソール観光客テロ事件

現代用語の基礎知識1999年版に掲載された項目。

1997年11月17日午前、エジプト南部の観光地ルクソールのナイル川西岸にあるハトシェプスト女王葬祭殿で、外国人観光客らが過激イスラム原理主義組織「イスラム集団」に襲われ、日本人10人を含む62人が殺害された。犯人6人も現場近くで、駆けつけた警官隊との銃撃戦などで全員死亡した。主犯のメドハト・アブドルラハマン(32)を除けば、犯行グループのメンバーはすべて10代から20代の大学生や高校生だった。生存者の話によると、犯人たちは犯行後、無残な殺し方をした遺体の側で踊ったり歌ったりしたという。犯人たちの狙いは、観光客を人質にしてアメリカで服役中の「イスラム集団」の精神的指導者オマル・アブドルラハマン師の釈放を要求することにあったとされる。また、事件の一カ月前、ハトシェプスト女王葬祭殿で催されたベルディのオペラ「アイーダ」の観衆の襲撃を企てたが、警戒厳重なため犯行を延期したとの説もある。事件直後、ハッサン・アルフィ内相が引責辞任。殺害された日本人添乗員の家族は、98年4月に在京エジプト大使館に9550万円の損害賠償を求める申入れ書を提出した。

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アダルト・チルドレン大統領  adult-children President

現代用語の基礎知識1999年版に掲載された項目。

ヒラリー夫人は「夫の不幸な幼児体験」にも言及して、そこに発するトラウマから「若い娘から相談を持ちかけられたら絶対に断れない性分なのだ」といった弁護論もさかんに多用している。要するに、当世はやりのオトナになりきれない「アダルト・チルドレン」的なところがあるから、繰り返し同じ過ち(セックス・スキャンダルズ)を冒すのだ、などとも弁解している。しかし、そのようなアブない半オトナに核兵器の発射ボタンを預けておいて良いものかどうかについては一切沈黙したままである。イスラム過激派のオサマ・ビンラーデンを懲らしめるためだ、などと言って、突如、主権国家(スーダンおよびアフガニスタン)の領土内にミサイルを撃ち込むなど、あまりにも危ない行為にハラハラしているアメリカの良識派も決して少なくはないのである。

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キルギス拉致事件  Hostage crisis in Kyrgyzstan

現代用語の基礎知識2000年版に掲載された項目。

1999年8月、日本の国際協力事業団からキルギスのオシ地区バトケンに派遣されていた日本人技師ら4人と他20数名のキルギス人がタジキスタンから流入してきたゲリラに拉致された。ゲリラ・ギャングは400人から1000人でキルギス正規軍と交戦。のち日本人を釈放。アフガンで活躍したイスラム過激派ナマンゴニーの一派とかワッハーブ派(コーランを厳格に解釈する派)ともいわれている。ちょうど上海ファイブ会談中に人質事件が発生した。

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イランで学生騒乱

現代用語の基礎知識2000年版に掲載された項目。

イラン治安部隊と民間のイスラム過激派組織「アンサレ・ヒズボラ(神の党の支持者達)」が1999年7月9日朝、テヘラン大学学生寮を襲撃した。前夜以来同学生寮で続く、改革派日刊紙サラームの発禁に対する抗議行動鎮圧が目的だった。翌10日、学生約1万人が市中に出て抗議デモを展開、一部学生は最高指導者ハメネイ師の辞任を要求した。学生デモはテヘラン州知事の集会禁止声明などを無視して連日繰り返され、ハメネイ師を頂点とする保守派は“新たな革命”の懸念に危機感を強めた。12日、革命防衛隊幹部が改革派ハタミ大統領に書簡を送って、大統領の学生デモ容認を非難するとともにクーデター敢行を示唆した。大統領は、保守派の脅迫に屈した形で翌13日夜、国営テレビを通じ、デモ学生を「暴徒化しつつある」と非難、抗議行動の即時停止を求めた。この大統領声明により、79年イラン革命以来最大の学生騒乱は終息に追い込まれた。14日、ハメネイ師の指示を受けた治安当局がテヘラン市内全域を制圧。また、この日テヘラン大学では、保守派が動員した国会議員、政府職員など約10万人が集会を開き、改革派を牽制すると同時に、保守派の権力掌握の揺るぎなさを見せつけた。

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オサマ・ビンラーデン  Usama bin-Laden

現代用語の基礎知識2001年版に掲載された項目。

1998年8月7日に起きたナイロビ(ケニヤ)とダルエスサラーム(タンザニア)の両アメリカ大使館爆破テロ事件(死亡224人、負傷5500人以上)の首謀者として、アメリカ政府が追及するイスラム原理主義者。原理主義組織「カーイダ(基地)」指導者で、原理主義国際連帯組織「ユダヤ人と十字軍に対するジハード(聖戦)のための世界イスラム戦線」(世界イスラム戦線 International Islamic Front)の創設者。1957年生まれ、サウジアラビアのイスラム教聖地メディナで育った。イエメン出身の父ムハンマド・ビンラーデンはサウジ最大のゼネコン・オーナーとなり大富豪として知られた。ビンラーデンは80年代初め、アフガニスタン戦争に「アフガーニー」(アラブ人義勇兵)として従軍、英雄となった。90年8月勃発の湾岸危機でアメリカ軍がサウジに進駐すると、これをイスラム教の聖域アラビア半島への侵略であると怒り、進駐を受け入れたサウジ王室とアメリカへの批判活動を開始した。91年スーダン・ハルツームに亡命したが、96年アメリカ、サウジの外交圧力でスーダンを退去し、配下を率いてアフガニスタンに入った。以来、同国原理主義政権タリバンの保護下にある。

98年2月エジプトの過激原理主義組織「ジハード団」指導者アイマン・アル・ザワヒリらと「世界イスラム戦線」を結成し「アメリカ人とその同盟者は軍人、民間人を問わず殺害するのがイスラム教徒の宗教義務とする」旨のファトワ(イスラム法判断)を発した。こうした経緯からアメリカ政府は、同年8月アメリカ大使館爆破事件が起きるとビンラーデン・グループの犯行と断定して、同月下旬潜伏先のアフガニスタンなどを巡航ミサイルで爆撃した。アメリカ政府は99年5月ビンラーデン逮捕につながる情報に500万ドルの懸賞金をかけ、7月タリバン政府に対し、アメリカ内の資産凍結など経済制裁を開始した。

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