月刊基礎知識
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耳ざわりのいい言葉には注意せよ
―― 「改革」「革命」は起こったか、なぜ起こらなかったかの用語集
 

赤い革命

理屈のうえでは、うまくゆくはずだったこの種の革命は、ある時期・ある局面では、たしかに有効だったが、最初の革命が起こって70年、現在ではことごとく“失敗”の結果がでている。そのようなわけで、現在、手放しでこれを支持する人は世界的にみても少ない。理論上はとても上手くゆくはずだったのだが…。その理論は、今日的な経済パラダイムにどっぷり漬かった我々からみると随分と身勝手な論理であったりする。

革命

本誌1948年版収録。

経済的には生産力の発展と生産関係の変化にともなって社会経済制度が根本的に変革されることをいい(例えば産業革命によって封建的封鎖経済から自由競争的資本主義純済に変わるごとき)、政治的には一国の政治権力が一つの階級から他の階級に移行することをいい(例えば政権が貴族・地主階級からブルジョア階級に移ったフランス革命、ブルジョア階級からプロレタリア階級に移ったロシア革命等)、法律的には、在来の憲法に定められた原則に反するやり方で変更されることをいい(例えば武装蜂起、人民の圧力等により)、思想的には、宗教や哲学や科学のの根本概念が決定的に変化することをいう(例えば自由主義思想から社会主義思想への人間の思考の転換のごとき)。

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反革命

本誌1958年版収録。以下、

国家権力がある階級から他の階級に移ることが革命であるが、旧支配階級が権力を奪回しようという試みが反革命である。普通、共産主義政権打倒のための反乱やクーデターがこう呼ばれる。1956年10月のハンガリー動乱を、ソビエトは反革命とみなして武力出動を行って弾圧した。

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人民革命

本誌1951年版収録。以下、

人民の利益のために、人民の支配を実現するために、人民自身の参加によって行われる革命をいう。別に「下から」の革命ともいう。その典型的なものはフランス大革命、パリー・コンミュン、ロシア3大革命、東欧の人民民主主義革命、中国大革命等である。

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平和革命と暴力革命

本誌1951年版収録。以下、

革命は一階級による他階級への国家権力の奪取であり、従って、通常暴力的である。しかしある条件の下においては暴力なしに革命を遂行し得ることがある。在来の支配階級が無力化し、または人民の大多数から孤立化し、直接衝突に入る前に革命の側が決定的に有利な場合平和的に進行する。

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平和革命論

本誌1951年版収録

議会を通じて社会主義社会の実現が可能であるという主張であって、武装革命は不必要であるという主張である。社会民主主義は通常、平和革命論のようにいわれているけれども、厳密にいえば、社会民主主義は社会主義社会の実現ということなく、資本主義社会のままで社会主義政策を実現しようというのである。しかるに平和革命論というのは、社会主義社会の管理は考えるがその手段として武装による暴力革命をえらばないというのであるから、この場合には容共的な理論であるということが出来る。日本共産党の平和革命論がコミンフォルムによって批判されたのは耳新らしい事実であろう。

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ブルジョア民主主義革命

本誌1951年版収録。以下、

封建制社会から資本主義社会への歴史の移行にあたって遂行される政治革命をいう。その内容は資本主義経済の発展を阻害する一切の封建的束縛の排除、封建的身分制の撤廃、政治的自由の獲得、基本的人権の確立等であって、その基本的目的は資本主義諸関係の自由な発展を保障するにある。封建制から資本主義への政治変革には3通りの途がある。これを歴史的にみると第1は18世紀フランス大革命にみられるように革命的なブルジョアジーの主導の下における封建制の徹底的破壊とブルジョアジー政権の樹立の途であり、第2は19世紀後半のドイツにおけるようにブルジョア化しつつある封建的諸要素(大地主・官僚等)の上からの漸次的なブルジョア的革命と政権のブルジョア的変質の途であり、第3はロシアの2月革命後に各地でみられるように封建的要素と妥協したブルジョアジーに反対し、プロレタリアートの主導下に農民小市民等の人民勢力によって行われる極めて徹底した人民革命と人民民主主義政権の樹立の途で、この最後のやり方は同時に社会主義革命への過渡的性格をもつ。

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プロレタリア革命(社会主義革命)〈1951〉

本誌1951年版収録。以下、

資本主義社会のブルジョア政権を強力的に打倒してプロレタリア独裁(勤労人民にとっては完全な民主主義)を樹立し、社会主義社会を建設することを目的とする革命をいう。ロシアにおける1917年10月革命はその最も典型的なものである。最近東欧諸国においても――ロシア革命におけるとは若干異なる諸条件のもとに、しかし本質的には同一な――社会主義革命が進行しつつある。ブルジョア革命がプロレタリア革命と異なるところは<1>前者が封建制社会の胎内で成熟した資本主義諸関係に依存して遂行しうるにたいし、後者は社会主義諸関係の未だほとんど未発生のところではじまる。<2>従って前者は権力の獲得によって革命の基本的使命を終るが、後者にとっては権力の獲得は革命の基本的使命である社会主義社会建設の端緒にすぎない。<3>前者では封建的搾取階級にたいし資本主義的搾取階級が代ったに過ぎないが、後者では搾取制度そのものの排絶が主要課題となる。従ってプロレタリアート以外の一切の被搾取階級をその周囲に結集できる。<4>前者では封建的国家権力がブルジョア的国家権力に代るだけであるが、後者では、社会主義社会建設の完成につれて、国家権力そのものが無用化し死滅することとなる。

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プロレタリア(社会主義)革命〈1954〉

本誌1954年版収録。以下、

資本主義的諸関係を打破して社会主義的諸関係を確立する革命であって(たとえばロシアの十月革命)、その特徴はつぎの点にある。

<1>革命は、社会主義のできあがった形態がまったく存在しないか、ほとんど存在しないときにはじまる。<2>その基本的任務は、国家権力を奪取して、新しい社会主義経済を建設完成するにある。<3>権力の奪取はただ革命のはじまりにすぎず、権力は古い経済を建て直しなおして、新しい経済を組織するためのテコとして利用される。<4>この革命は、すペての搾取者集団を権力の座から引ぎずりおろして、すべての勤労者と被搾取者の指導者たる労働者階級を権力につかせるものであるから、古い国家機関を破壊して、新しい国家機関をつくらざるをえない。

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プロレタリア革命〈1968〉

本誌1968年版収録。以下、

Proletarian Revolution 資本主義社会自体が生み出す近代的賃労働者階級(プロレタリアート)によって行なわれ、資本主義そのものの打倒と社会主義建設をめざす革命。ロシア10月革命(1917年)が典型的。プロレタリアートは生産手段から自由であって、労働力以外には失うべき何ものも持たず、労働力を資本家に売って生活資料をかせぐことができるだけである。このようなプロレタリアートは資本主義のもとでは、賃金奴隷制にしばりつけられ、絶対的・相対的な窮乏状態におとしいれられており、資本主義の矛盾の最大の体現者である。失うべき何ものも持たずしかも資本主義の矛盾を最大限に体現するプロレタリアートは、工場で訓練された連帯性・計画性・強靱性を発揮しつつ、資本主義体制下で苦しむすべての人民の解放をめざして、資本主義打倒の革命を起こす。ロシア革命ではプロレタリアートは、広範な農民との同盟のもとに、この革命を行なった。

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プロレタリア文化大革命〈1968〉

本誌1969年版収録。以下、

この革命は、生産手段の社会主義的所有制が成立したことを基礎にして、「イデオロギーの分野で、プロレタリアートどブルジョアジーの、どちらが勝ち、どちらが負けるかという問題を解決するためのものである。これはすべての仕事をつらぬく、長期の、なみなみならぬ歴史的任務である」(紅旗、1966年第8号社説)といわれる。そしてこの「文化大革命における主要な矛盾は、広はんな労働者、農民、兵士大衆、広はんな革命的幹部、広はんな革命的知識人と、ひと握りの反党・反社会主義のブルジョアジーの代表者との敵対的矛盾である。これは革命と反革命との矛盾であり、和解できない敵味力の矛盾である」(前同)といわれる。

文化大革命は、思想的には57年2月の毛沢東の講演「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」に基礎を求めることができる。また58年5月の中国共産党大会が、初歩的に文化革命の課題を提起したことも見逃せない。しかし、これが具体的に問題となるのは、「総路線、大躍進、人民公社に反対する劉少奇や三家村グループが台頭した59〜61年の経済困難期である。62年9月の中国共産党中央委員会総会は社会主義社会にも階級闘争が継続されることを、理論的に明らかにした。この階級闘争の理論が、文化革命の理論の基礎をなしている。そして、この理論にもとづいて、63年春から農村の社会主義教育運動(四清運動)がはじめられる。この運動を通じて、農村における「党内のブルジョアジーの道を歩む実権派」に向けての闘争が組織される。四清運動のたかまりのなかで、65年11月に、姚文元(ようぶんげん。現在、中央文化革命小組組員)の呉晗(ごがん)批判の論文が「文匯(わい)報」紙に発表された。これをきっかけにして呉晗、鄧拓、寥沫沙(りょうまっさ)らの三家村グループ、共産党北京市委員会幹部に対する闘争が公然となる。批判が三家村グループの「文芸」作品をとらえて行なわれたために、一見文芸整風に似たかたちが現われた。しかし、66年の5月25日に、北京大学の哲学講師の聶元梓(じょうげんし)ら7人の革命派が、呉晗に連なる陸平(りくへい)校長(北京大学党委員会書記を兼務)を批判する大字報を貼り出し、全学1万4000人の人たちの大衆闘争のきっかけをつくった。この大衆闘争のなかで、清華大学や北京大学に紅衛兵組織がつくられ、それが全国にひろまり、北京市を中心とした紅衛兵の革命的大交流がはじまる。紅衛兵は農村の人民公社や国営企業に入りこみ、農民や労働者の立上がりをすすめる。労働者階級はこの紅衛兵運動に刺激されて、66年11月ころから、労働者階級革命造反組織を地方ごとにつくり、大衆的なデモを繰りひろげ、企業内部や省市の党機関の実権派に対する闘争を組織した。この造反運動は、67年1月以降に、省市の人民委員会や党委員会の指導権を、実権派から奪取する闘争、導権闘争にすすむ。導権闘争のなかから、省市革命委員会がつくられた。以上の経過をへて、プロレタリア文化大革命がすすめられてきた。この革命の課題は、イデオロギーの分野での階級闘争という本質をもつもので、実権派の打倒は、その課題を達成するための道をひらく、革命のはじまりであるといえる。

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プロレタリア教育革命

本誌1971年版収録。以下、

ブルジョア階級出身の知識人が影響力をもつ教育制度を改めることは、文化大革命のはじめからの課題であった。小学6年、中学(初級と高級〉6年、大学4〜6年という長期の年限の教育制度を改めるとともに、さらに、知育と立身出世にむけられた教育方針を改め、点数と進学本位の教育方法を改める必要があった。

教育革命の目的は「教育はプロレタリア階級の政治に奉仕し、教育を生産労働に結びつける方針を貫徹し、教育をうけるものが徳育、知育、体育の面で成長し、社会主義的自覚をもち、教養のある勤労者になるようにする」ことである。この革命は文化大革命が勝利した1968年夏から、具体的にはじまった。

この時期に、産業労働者の先進分子からなる労働者毛沢東思想宣伝隊が解放軍毛沢東思想隊の協力をえて、大学や中学や研究所あるいは病院に進出し、長期駐留して、革命を指導しはじめた。

8000人の学生のいる北京大学には、1000人の宣伝隊がはいり、学生と起居、学習、労働をともにした。多くの大学では、宣伝隊は学生と教師を引率して工場や農村に入り、労働者や貧農から学ぴ、プロレタリア階級が必要とする教育制度や知識人のあり方を修得させている。その経験をつうじて、進学は学業成績だけでなく、労働の態度や人民に奉仕する作風を考慮した、労働者や農民の推薦を条件とすること、卒業しても普通の労働者や農民になるなどの、改革の試案が提出されている。

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プロレタリア文化大革命〈2000〉

本誌2000年版収録。以下、

無産階級文化大革命、文化大革命、文革とも。1966年5月から76年10月にかけて中国全土をまきこんだ政治的社会的運動。毛沢東によって発動された。毛沢東は国家主席の劉少奇を修正主義者とみなし「劉少奇の政策により革命的国家としての中国は資本主義化しつつある、これは放置すべきでなく、打倒すべきだ」と訴えた。毛沢東は林彪を通じ、人民解放軍を掌握、解放軍をうしろだてに大学生、中学生を紅衛兵と名づけて表面にたて、また労働者の一部も造反労働者を名のり、その実力行使によって、劉少奇をはじめ、党の要人や学術文化界の“権威”を逮捕、監禁、拷問、虐待、死に至らしめることさえあった。多くの自殺者もでた。

69年4月、九全大会(中国共産党第9回全国代表大会)は、毛沢東を党主席、林彪を副主席とした。劉少奇は、国家主席の地位を奪われ、党からは除名され、虐待によって死亡した。しかし、林彪は毛沢東の暗殺を企てて失敗、71年9月に、逃亡の途中、モンゴルで墜落して死亡した。このあと毛沢東の死、四人組逮捕、トウ小平(トウは登におおざとの字)復活を経て、劉少奇をはじめ文革中に失脚した人々もすべて復活、名誉回復をした。

81年6月の六中全会で採択された「歴史決議」により、文革が主として毛沢東によって引き起こされた重大な誤りであったことが確認され、現在では「動乱」とよばれている。

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サイゴン文化革命

本誌1976年版収録。以下、

解放後、サイゴン・ジアデイン地区では20年以上もつづいたアメリカ支配とかいらい政権下でのエロ・グロの植民地的退廃文化や売春婦、麻薬患者を追放する運動が学生・青年・市民の手ではじめられた。反動的な外来文化や旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を一掃する意味で、これは文化革命の名でよばれた。

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農民革命

本誌1976年版収録。以下、

カンボジア解放勢力は、抗戦の過程で農村に解放区を建設・拡大し、プノンペン解放直後には約200万住民の大部分を農村へ帰して、農業に従事させる政策をとった。その意味でカンボジア解放は、農民の勝利、農民革命であるといわれた。

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革命的危機

本誌1954年版収録。以下、

民族解放民主革命は、暴力革命であるが、武装蜂起は、そのための諸条件が成熟したとき、おこされる。最後の決戦が問題となるときには、数千数万の共産党員だけでなく、数百万数千万の搾取され抑圧されている人々を考えることが必要である。この時には、共産党員が確信をもっているかどうかということだけでなく、その社会のすべての階級の歴史的に有数な勢力配置が、決定的戦闘の機がすでに熟しているような形でおこなわれているかどうかを、われわれは問題にしなければならぬ。

すなわち、<1>敵階級の力が十分に混乱におちいっており、お互同士がいがみあっており、かれらの力を超える闘争によって十分弱められているかどうか、<2>すべての動揺する中間群、すなわち小ブルジョア民主主義者たちが、人民のまえで十分にその本質を暴露されており、実践において十分その正体を示しているかどうか、<3>労働者階級のなかでは決戦をおこなおうとする気分が高まっているかどうかを、みなければならぬ。これらの条件が具わっておれば、革命的危機は熟しているのである。

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農業革命

本誌1954年版収録。以下、

民族解放民主革命は、日本の社会の封建的な残りかすを取りのぞくことを目的としている。だから農業革命は、その中心的任務のひとつである。民族解放民主政府は、寄生地主、皇室、および他の大きな土地所有者の土地をすべて没収して、これを農民にただであたえる。アメリカ占領当局がおこなった農地改革は、農民に土地をただで与えないで、金で買わしたのだから、余裕のあるもののためにおこなわれた改革である。土地を買う金のない農民にはなにも与えなかった。農民のもとめているものは耕地だけでなく、山林、原野、遊休土地をふくむ一切の地主の土地を、ただで農民にあたえるような、革命的な土地改革である。

その他、<1>水利および水利の設備を利用する権利を農民にただであたえ、<2>未耕地の開墾をおこなう農民に国家的援助をあたえ、農具を買い、<3>農業施設を新設する農民に低利の長期貸付をおこない、<4>貧農にたいして税の軽減、滞納税金の棒引をおこない、<5>高利貸、銀行、政府からの借金の返せない貧農や漁民の借金の棒引をおこない、<6>作付の強制と食糧の強制供出を廃止し、農業をつづけてゆける農産物価格を確立する。

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世界同時革命〈1975〉

本誌1975年版収録。以下、

日本共産党の革命路線に反対して、60年安保闘争(1960年前後)を契機に結成されたトロツキスト諸派、とりわけ共産主義者同盟(ブント)諸分派が、唱えている世界プロレタリア革命論。世界の革命は同時に火ぶたを切ってこそ意味があると主張する。淵源はエンゲルスの「先進国同時革命論」(『共産主義の原理』1847年)にあるが、直接にはトロツキーの革命条件成熟論、前衛党(ソ連共産党とコミンテルンおよびその傘下の各国共産党)堕落論に触発され、影響をうけている。よど号ハイジャック事件(70年)、浅間山荘=リンチ殺人事件(72年)、パレスチナ解放人民戦線PFLPとの連帯によるテルアビブ空港乱射事件(72年)に関した共産主義者同盟赤軍派の革命路線として耳目を集めた。

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世界同時革命

本誌1976年版収録。以下、

新左翼各派は一様にスターリンの「一国社会主義革命論」を批判し、一国で勝利した社会主義革命は、世界革命まで連続的に他の国へおしすすめられねばならないという「世界革命論」の立場に立つが、とくに赤軍派は各国ゲリラと手を結んだ「世界革命戦争」による「世界同時革命」を主張し、その具体的な実現として、昭和45(1970)年4月、日航機ハイジャックによる幹部9人の北朝鮮への亡命と、46年2月の重信房子のPFLPへの派遣で「国際根拠地」づくりに乗出した。ブントの「世界共産主義社会の実現」を「世界革命戦争派の国際的結合による世界同時革命」へと止揚したものといえる。

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永続革命論

本誌1976年版収録。以下、

トロツキーがとなえた革命理論のなかのもっとも基本的な特徴。官僚的スターリニズムを解体して帝国主義権力をともに永続的に打倒し、プロレタリア・インターナショナリズムを確立してゆこうという理論。そこから、世界のすべての国で社会主義革命の案件が成熟しており、一国で勝利した社会主義革命はつぎつぎ他の国にぴろげて、世界革命まで連続的におしすすめられねばならないという、スターリンの「一国社会主義革命論」に対する「世界革命論」に通じる。マルクス・レーニン主義の正統派として、新左翼の考え方の基調となっている。

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民族民主革命

本誌1968年版収録。以下、

植民地・従属国において、帝国主義の支配をくつがえし、政治的独立と経済杓自立を獲得するとともに、国内の封建地主階級・買弁資本家階級を打倒して、徹底的な土地改革、封建遺制の一掃、重要企業の国有化、民主的権利の拡大などをめざす革命。帝国主義と地主、買弁資本は密接に結合しているので、一方の革命だけを遂行することは不可能である。この革命は民族ブルジョアジー、小ブルジョア・インテリゲンツイア(軍人を含む)、労働者、農民の統一戦線によって問われるが、民族ブルジョアジーは本来妥協的であり、一定の勝利(政治的独立)の後は反動化することが多い。したがって革命の成功の鍵は、統一戦線内部における労働者階級の指導権の確立と、圧倒的多数を占める農民との同盟である。ソ連などの「民族民主国家論」は新興国における民族ブルジョアジーの指導権を是認し、革命の進展を押しとどめるものとして、中国などから批判されている。

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人民民主主義革命

本誌1954年版収録。以下、

第2次世界大戦後、東欧諸国――チェッコスロヴァキア、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアなど――では、人民民主主義革命がおこなわれた。ファッシスト侵略者にたいする民族解放戦と、ファッシスト侵略者とむすびついた大地主および大資本家にたいする革命的階級戦との結合されたものであって、労働者およびその前衛(共産党〉の指導のもとに広汎な人民大衆によって戦われた。それは、その発展の途上で、ブルジョア民主主義革命の諸課題(農業における封建的残存物の一掃)をも解決した。しかしそれは、その起動力からみても、それが打倒した敵の階級的性格からみても、社会主義型の革命である。

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新民主主義革命

本誌1993年版より。以下、

1940年の毛沢東の「新民主主義論」により提起された。中国の革命は、アヘン戦争以後、旧ブルジョア民主主義革命としての太平天国運動や辛亥革命などを経過し、1919年の五四運動以後、新ブルジョア民主主義革命の段階にはいった。ロシア10月革命のあと、社会主義国家があらわれ、中国革命は、プロレタリア社会主義革命の一環となった。新民主主義革命は資本主義のためにも道をひらくが、成立するのはプロレタリア階級の指導する新民主主義国家である。

新民主主義革命の勝利によって、49年10月1日に中華人民共和国が成立した。このあと、社会主義革命がはじまり、国の工業化と農業、手工業、資本主義商工業の社会主義的改造によって、56年、社会主義が実現したとされる。

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2段階革命論

本誌1959年版収録。以下、

1958年7月21日から8月1日まで開かれた第7回日本共産党大会で問題になった中心的論議。来るべき日本の革命は「社会主義へ引続き発展する可能性をもつ、人民民主主義革命」であるという点で、この大会で審議された党章草案の基本的考え方である。この考え方をとるのは、日本はまだ完全な独立国ではなく、米国になかば占領された事実上の従属国であると規定しているからで、したがってそこでの革命はいきなりソ連のような社会主義革命の形をとれず、中共や東欧諸国のように幅の広い民主勢力を結集した漸進的な人民民主主義革命の形をとらざるをえない。そしてその人民民主主義革命を、急速に社会主義革命の方向へ発展させるという戦略が打ちたてられなければならない、というのである。

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第2革命

本誌1958年版収録。以下、

ソヴィエトの第20回共産党大会以後、東欧共産主義諸国に生まれた、旧共産主義体制に反対する一連の動きをいう。ポーランドのポズナン暴動のようなものまでゆかないにしても、党首脳の個人指導に対する批判、ソ違共産党に対する平等な協力関係と自由な相互批判の要求というような形であらわれている。共産主義そのものに反対する動き、つまり反革命ではないという意味で、第2革命といわれるわけである。

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構造改革論

本誌1965年版収録。以下、

イタリアの共産党が打ち出した一連の政策。イタリアでは保守と左翼の半数の下で社会主義的条項を盛り込んだ憲法ができたので、共産党は民主的憲法の擁護を唱え、憲法の下で、資本主義構造を社会主義構造へ平和のうちに移行しうるとした説。共産党のトリアッチは憲法を武装蜂起の瞬間までのブルジョア民主主義機構の利用と考えるのではなく、憲法を守ることによって、金融寡頭政治を権力から追放し、権力を労働者階級が握りうるといっている。この主張はネンニの左派社会党の支持を得た。

この「イタリアの道」は、そのまま日本の平和革命のコースとなりうるかが論点であって、日本における構造改革派は平和革命の1つの方法として、憲法の役割を評価するが、日本国憲法はイタリア憲法の制定事情と性格を異にする。イタリア憲法は財産は公的および私的であるとして社会的所有を認めるが、日本憲法は私有財産制の上に立つ。しかし日本の構造改革論はイタリア共産党のままの主張をするのでなく、日本社会党内の主張としての平和革命論の一つで、資本主義構造に対して社会主義政策を重ねていくうちに、社会主義へ移行しうるという説。理論的というよりも実際的な考えに立つので、社会党内でもマルクス主義の理論を重んずる人びとと対立している。

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先進国革命

本誌1975年版収録。以下、

スターリン批判以後、マルクス主義は社会主義革命の展望と戦略をめぐって世界的に大きくゆれ動いた。その中で、高度に発達した資本主義国における、いわゆる先進国革命の問題が重要な争点となった。一方には、大衆的前衛党を中核に広範な民主勢力を結集し、議会を通じて合法的に政権を掌握しようとする日本、フランス、イタリアなどの共産党の路線がある。

他方には、先進国の革命に「絶望」し第三世界の後進国革命に期待をよせる毛沢東主義者、労働者階級の保守化を唱え知識人や学生を革命の部隊だとするマルクーゼやサルトルの集団、先進国内で差別され抑圧されている有色人種や移民・未組織労働者などこそ革命連動の基盤であると主張する第三世界主義者、反体制運動として世界同時革命をスローガンとするトロツキスト集団などがある。

最近注目されている集団としてフランス新左翼の代表的理論家セルジュ・マレを創立者の一人とする統一社会党(PSU)の主張がある。この集団は、フランス共産党に対立し、同時に上述の新左翼をプチブル的・農本主義的変種としてしりぞけ、先進国における革命勢力の本流は新しい労働者階級=テクノクラート(豊かになり、技術化され、知識水準も高い労働者階級)だと主張する。

また、エリートに権力を渡すだけの中央権力奪取主義(正統左翼)、今日の高度に機械化された生産力を社会主義社会へ継承してゆくことを考えない復古主義(ルソー主義者)とを批判し、労働者による職場の自主管理と労働者評議会を通じての労働者権力の樹立を主張している。

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5月革命(フランス)

本誌1968年版収録。以下、

1968年5月から6月にかけフランスのパリを中心に展開された学生、労組、革新的市民層を中心とする反ドゴール体制連動。5月10日パリの学生約2万人がラテン区でデモをし、警官隊との間に乱闘を行なった。これをきっかけとしてフランス労働総同盟(CGT)はじめ主要労組が、賃上げなどの待遇改善を要求してゼネストにはいった。ドゴール体制は一時窮地に陥ったが、6月23日に総選挙を行なうことを声明し、強気な反撃に出た。選挙の結果、ドゴール派は圧勝してこの危機を切り抜けることに成功、一応の安定を得ることができた。

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構造改革論(日本社会党)

本誌1961年版収録。以下、

日本社会党は昭和35(1960)年10月の党大会で、新しい政治路線を打ち出したがその方向を「構造改革論」と称し、内外に大きい反響を起こしている。社会主義の実現を目指すためには、ただ反対だけのイデオロギー闘争をしているだけでは十分でなく、現在の独占資本の構造を具体的につき崩すべきだという主張。国の政策を変えるため、独占の利益本位の政策を国民の利益本位に変えることであり、それには生産関係に労働者が介入して部分的改革をかちとり、広汎な国民大衆の日常的要望にこたえることを目的とする。したがって、このような経済構造の改革と結んで民主・中立・護憲等の政策を唱える。イタリア共産党のトリアッチが行なった「社会主義へのイタリアの道のために」で展開した構造改革論にヒントをえたところから、この名称がある。

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第2革命

本誌1994年版収録。以下、

The Second Revolution in Russia 「ロシア共和国の第2革命」「エリツィン革命」。1993年9月21日、ロシア共和国のエリツィン大統領が「議会(最高会議=ハズブラートフ議長)を解散する」という大統領令を発したのを機に、かねてから“改革派”の政策に不満を抱いていた“保守派”がルツコイ副大統領とともに反エリツィンの逆クーデターに立ち上がり、武器を持ってモスクワのホワイトハウス(最高会議ビル)に立てこもった。初めエリツィン大統領は流血の惨事に発展するのを懸念して「武器による鎮圧」をためらっていた。しかし、10月3日になって反エリツィン派がテレビ局(オスタンキノ・テレビ)やモスクワ市庁舎に乱入してこれを占拠したため、軍の戦車や装甲車を動員して反撃に転じ、10月4日に最高会議の代議員ら400人以上を投降させるとともに、ハズブラートフ議長やルツコイ副大統領らを逮捕した。もともとボリス・エリツィンが権力を掌握するきっかけとなったのは91年の8月に起こった旧共産党保守強硬派のクーデターを失敗に帰せしめた事件であるが、依然として旧ソ連時代の憲法にもとづいて形成された最高会議は残っており、ことあるごとに「ロシアで最初に公選で選ばれたナンバーワンマン(大統領)」であるエリツィンの改革路線に反対したため、思うように自由化や民主化などの“改革”が進まなかった。したがって、旧ノーメンクラツーラ(共産党の特権階級)や改革からこぼれ落ちた貧困層らの支持を受けた旧共産党系保守派や民族派が議会を拠点に立ち上がった。この“1993年の反撃”は、ある意味ではエリツィンにとって非常に好都合な事件でもあったわけで、これを機にエリツィンは共産党を非合法化することに成功した。つまり、これはソ連崩壊後のロシア共和国における「第2革命」でもあったわけだ。しかし、“宿敵”を倒そうと焦るあまり軍部に頼り過ぎたきらいもあり、かえって“軍事政権”的な保守反動化への道を開いたのではないかと懸念するものも多い。

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キューバ「第2革命」

本誌1987年版収録。以下、

1986年2月のキューバ共産党第3回大会を中心に、一連の新しい方向が表面化したので、このようにもよばれた。フィデル・カストロは、大会への中央委員会報告のなかで、第2回大会以後5年間の成果をのべるとともに、「非能率と官僚主義」と「怠慢と無責任」をきびしく批判し、「社会主義諸原則への不動の忠誠」とならんで「不屈の道義的完璧性」を強調した。同大会で選出された政治局員24人のうち、9人が新任で、古参の革命家が引退することとなった。党人事では、婦人と黒人の比重が高められた。また、この2月には、革命後最初の司教会議が開かれ、85年11月にフィデルとブラジルのペト神父との対話『フィデルと宗教』が出版されたことと相まって、宗教、とくにカトリック教と革命との共存、共通性が明らかにされたのである。

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作風改革運動

本誌1965年版収録。以下、

学習と訓練活動を活発に行うことによって政党員の理論的、意識的水準を高めようという運動。日本社会党が1964(昭和39)年の運動方針にこれを盛り込んでいる。“作風”ということばは中共の党員再教育活動が語源である。

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