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80周年の日本プロ野球
執筆者 椎野礼仁

80周年の日本プロ野球

全日本軍

1934年、ベーブ・ルースら米大リーグ選抜が来日。全日本対全米選抜野球チームである「全日本軍」は16戦全敗。この年の12月に大日本東京野球倶楽部がつくられる。

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大日本東京野球倶楽部

1935年、大日本東京野球倶楽部(読売ジャイアンツの前身)がアメリカへ遠征。トウキョージャイアンツと呼ばれる。

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日本職業野球連盟

1936年、東京巨人、大阪タイガース、阪急、名古屋金鯱、他の7球団で日本職業野球連盟が創立される。37年には8チームとなり、春シーズンは東京巨人軍、秋シーズンは大阪タイガースが優勝する。

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三冠王

1938年、巨人の中島治康が初の三冠王を達成するが、当時はまだ三冠王の認識がなかった。

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英語禁止

1940年、日本野球連盟による英語禁止の通達で大阪タイガースが「阪神軍」と改称(他2チームも)する。43年、日本プロ野球連盟規則委員会が開催され、野球用語の全面的日本語化が決定される。44年、「日本野球報国会」と改称された日本野球連盟が、プロ野球の休止を声明。45年11月、神宮球場で戦後初のプロ野球試合「日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦」が開催される。

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永久欠番

1947年、巨人は戦死した沢村栄治投手の背番号14を日本プロ野球史上初の永久欠番に。また沢村賞も創設される。

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ナイター

1948年8月17日、横浜ゲーリッグ球場(横浜スタジアム)でプロ野球初のナイターが開催される。

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2リーグ制

1950年、セントラル8チーム、パシフィック7チームで2リーグ制が始まる。セ・リーグはセントラルリーグ、正式にはセントラル野球連盟。パ・リーグはパシフィックリーグ、正式にはパシフィック野球連盟。

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オールスターゲーム

1951年7月4日、セ・パ対戦としては初のオールスターゲームの第1戦が甲子園で開催される。セントラル、パシフィック両リーグからそれぞれファン投票で選ばれた代表選手によるチームが、公式戦を中断して両リーグ対決の試合を行う。「夢の球宴」といわれた。

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長嶋茂雄

戦後10年以上を経て、日本のプロ野球を一変させたのが立教大学から巨人に入団した長嶋茂雄選手だった。立教大学から1958年、巨人に入団。開幕戦では、国鉄のエース金田正一に4打席連続三振。

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神様・仏様・稲尾様

1958年の日本シリーズでは、巨人に3連敗したあと、西鉄ライオンズの稲尾和久は4連投4連勝し、逆転優勝を遂げている。61年、稲尾はシーズン42勝の日本タイ記録。この鉄腕投手の活躍をファンは〈神様・仏様・稲尾様〉と大合唱した。

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天覧試合

1959年、昭和天皇ご夫妻が初の天覧試合。その巨人・阪神戦では長嶋茂雄がサヨナラホームラン。

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一本足打法

1962年、巨人の王貞治が7月の大洋戦から「一本足打法」を披露。初のホームラン、打点の2冠を獲得。64年には年間55本のホームラン。2013年にバレンティン(ヤクルト)に破られるまでの日本記録になる。

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ドラフト

プロ野球新人選択会議。プロ野球の球団がアマチュア新人選手を獲得する際、球団間の競争が激化して思わぬ無秩序を生むことを防止する知恵としてこの制度が編み出された。

1958年から始まった巨人の黄金時代をこのドラフト制度が崩したともいえる。各チームの戦力が均衡し始め、広島カープや阪急ブレーブスなどの初優勝チームが現れる。江川卓と巨人が起こした「空白の1日」事件や、PL学園の桑田真澄投手を巨人だけがまんまとドラフト指名した「桑田事件」も、ドラフト制度が生んだあだ花だった。

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奪三振王

1968年、阪神タイガース江夏豊がシーズン401奪三振の新記録樹立。これはいまだに破られていない記録。

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アイドル投手

1970年、太田浩司が1勝しかしていないのに、ファン投票でオールスター戦出場。初のアイドル投手といわれる。

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巨人軍は永久に不滅

1974年10月12日、長嶋茂雄選手が「我が巨人軍は永久に不滅です」の言葉を残し引退する。

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赤ヘル軍団

1975年、広島東洋カープ、球団創設26年目で初のリーグ優勝。赤ヘル軍団の異名をとる。

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756号本塁打

1977年、王貞治選手が、ハンク・アーロンの記録を抜いて756号のホームラン世界記録。

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空白の1日

1978年、巨人と江川卓がドラフト会議前日に入団契約を結んだと発表。「空白の1日」事件と言われた。

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江夏の21球

1979年、広島対近鉄の日本シリーズ7戦目で無死満塁のピンチを江夏が抑える。「江夏の21球」として語り継がれる。

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西武ライオンズ

70年代後半から80年代は、阪急や広島が日本シリーズの常連に躍り出たが、そのあと常勝軍団の異名をほしいままにしたのが西武ライオンズ。広岡達朗→森祗晶の2監督のもとで82年からの13年間で11度のリーグ優勝、8度の日本一に輝いた。

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初登板ノーヒットノーラン

1987年、中日の新人・近藤真一投手が初登板(巨人戦)でノーヒット・ノーランを達成。空前絶後。

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NOMO

1990年、近鉄の野茂英雄が最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、MVP、新人王を獲得。

95年、近鉄を退団、ドジャースと契約。5月にメジャーデビュー。7月には日本人初のオールスターにも選ばれ、米国にNOMO旋風を巻き起こす。

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フリーエージェント

free agent

通常FA選手といわれ、何者にも拘束されずどの球団とも自由に契約できる選手のこと。1993年からフリーエージェント制が設けられた。

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松井秀喜

1993年、大物新人・松井秀喜が巨人に入団。この年のホームランは11本、打率は2割2分3厘だった。星稜高校時代は通算60本塁打を放ち、甲子園では5打席連続敬遠も。

2002年、ホームランと打点王に輝いた後、来季のヤンキース入団を決める。

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メークドラマ

1996年、巨人が最大11.5ゲーム差をひっくり返して優勝。長嶋茂雄監督の「メークドラマ」が流行語に。

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いてまえ打線

2001年、ローズ、中村紀洋を中心とした“いてまえ打線”で近鉄がリーグ優勝。ローズは55本塁打。

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新規参入

2004年、近鉄とオリックスが合併を発表。5球団となったパ・リーグに、新たにライブドア、楽天の2社が参入を表明。業種は両者ともIT関連の情報産業。球団は大騒ぎ。

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WBC

ワールドベースボールクラシック。アメリカ大リーグ側の呼びかけで始められた野球開催16カ国による国別対抗戦。2006年の第1回大会では日本が優勝。

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フランチャイズ・プレイヤー

2014年9月5日、中日・山本昌は阪神戦で勝利投手となり、最年長勝利投手記録(49歳0カ月)を樹立。山本昌は1984年以来中日に籍を置き、移籍未経験。日本最長のフランチャイズ・プレイヤーである。

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