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白蓮の時代の女たち
執筆者 谷川由布子

白蓮の時代の女たち

柳原白蓮

NHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』で、ヒロイン花子の腹心の友として描かれるのが仲間由紀恵演じる葉山蓮子。蓮子のモデルになったのが柳原白蓮(Y子)で、明治時代、伯爵家の娘として若くして結婚するも耐えかねて実家に戻り女学校に編入。が、政略結婚のため福岡の炭鉱王と再婚するが愛のない生活に苦しみ、年下の社会運動家・宮崎龍介と恋に落ちる。「白蓮事件」ともいわれ、新聞で報道されるほど大正の時代に世間をにぎわせた白蓮だが、歌人としても活躍し命がけの恋に生き、宮崎家の人間として生涯を全うした。

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『踏絵』

柳原白蓮が最初に出した歌集の書名で、正確には『踏繪』。若き白蓮の告白的短歌の結晶といわれ、大正4年3月に竹柏會から出版された。ながらみ書房が竹久夢二による瀟洒な装丁の初版本を復刻したのは2008年のこと。ドラマ「花子とアン」からの反響で再版された数千部が2週間でなくなった。この本で序文を書いている佐佐木信綱はあの俵万智に短歌を始めさせた佐佐木幸綱の祖父。

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元始女性は太陽であった

明治44年に創刊された「青鞜」の創刊の辞にあるこのフレーズは当時の女性解放運動のシンボル的な存在になった。「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた」。平塚らいてうを中心に創刊された、自我の確立を求める中産階級の女性による女流文芸雑誌「青鞜」。誌名「青鞜」は18世紀のロンドンで目覚めた女性たちの代名詞「ブルーストッキング」に由来する。揃いの青い靴下をはき、文芸趣味や学問を論じる女性たちを、当時のイギリスでは嘲笑の意味を込めてそう呼んでいたが、あえてその語を選んだ。

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新しい女

大正2年1月、平塚らいてうが雑誌「中央公論」に執筆した論文のタイトルが「新しい女」。「自分は新しい女である。少なくとも真に新しい女でありたいと日々に願ひ、日々に努めてゐる。・・・・」。らいてうらの運動の影響を受けて、婦人雑誌には「反良妻賢母主義的婦人論」などが発表されたが、文部省はこれらを取り締まり、「青鞜」「女学世界」などに発禁の処分が下された。女子の高等教育は徐々に進んできていたが、まだ良妻賢母たれと教えるものが圧倒的で、この年東北帝国大学に女子大生3人が合格し、話題となった。

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ボヴァリズム

ギュスターヴ・フローベールの小説『ボヴァリー夫人』やエミール・ゾラの『女優ナナ』など、翻訳された文学作品の数多くが道徳や風俗を壊乱することを理由として発禁とされた。激しい性描写が描かれている『ボヴァリー夫人』は、ボヴァリズムという言葉を生み出すほど話題を集め、海外でも物議を引き起していた。

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羽仁もと子

羽仁もと子は報知新聞の記者として才能を発揮し、その後フリーとなり、日本で初めての女性ジャーナリストといわれた。明治36年に雑誌「家庭之友」の創刊に関わり、41年には「婦人之友」を創刊する。大正10年には夫の羽仁吉一とともに自由学園を創立する。

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松井須磨子

坪内逍遥の主宰する文芸協会で、女優の松井須磨子が「人形の家」のノラ役の好演が認められ、そのころから、劇作家・島村抱月との恋愛関係が始まったとされる。須磨子は抱月に宛てた手紙に「あなたのことを思えば、ただうれしい。世間も外聞もありはしない。すぐにも駆け出して抱いて来ようかと思うほどです」と書いている。

二人の関係は醜聞となり、文芸協会は須磨子を除名処分にした。ところが抱月も同協会を脱退したため、中心メンバーの欠けた同協会は解散へ向かう。抱月と須磨子は新たに芸術座を結成。芸術座は大正3年の舞台で「カチューシャの唄」をヒットさせる。

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カチューシャの唄

トルストイ作、島村抱月脚色の『復活』が帝国劇場で上演され、この作品中で下女カチューシャに扮した松井須磨子が歌う劇中歌「カチューシャの唄」(島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)がレコード化されヒットした。

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日蔭茶屋事件

短刀で首を刺された男は、無政府主義者にして「自由恋愛」を提唱していた大杉栄。この事件は大正5年。大杉には妻子があったが、同棲していた女性記者の神近市子が、伊藤野枝に心を移した大杉を追って、伊藤と投宿していた葉山の料亭旅館日蔭茶屋まで乗り込んだのである。「新しい女」の起こした四角関係事件として話題を集めた。

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自由恋愛

無政府主義者の大杉栄(→日蔭茶屋事件)が「男女同権」その他と同様に訴えていた「フリーラブ」(自由恋愛)は、この時代、社会運動のうちにあった。姦通(不倫)が犯罪とされ、避妊や堕胎においても制度的な強制を受けるといった時代背景の下、「恋愛の自由」が流行語になる。

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「主婦之友」

大正6年 、石川武美によって「主婦之友」が創刊された。すでに刊行されていた「婦人公論」が女性問題の評論誌であるのに対して、「主婦之友」は「夫をなんとよぶか」「手軽な経済料理法」など生活に密着した実用記事をもっぱらとした。これが女性たちの心をとらえた。石川武美は婦人雑誌記者出身で、戦後、東京出版販売(現在のトーハン)の社長となる。

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恋愛の自由

東北帝国大学理科大学教授で日本物理学界の第一人者とも言われた石原純は、大正9年、歌人の原阿佐緒へ求愛したが受け入れられずに自殺未遂をする。原阿佐緒はアララギ会員の歌人で、九条武子、柳原白蓮と共に三閨秀歌人と呼ばれていた。

石原から逃れるため上京した阿佐緒だったが、家庭を捨てた石原と同棲を始め、石原は大学を辞職。新聞各紙が2人をスキャンダラスに報道したこともあり、「恋愛の自由」という言葉がこの年、流行語になった。

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白蓮事件

原阿佐緒、九条武子、と共に三閨秀歌人と呼ばれていた柳原白蓮は、九州の炭鉱王伊藤伝右衛門の妻だったが、東京帝大生の宮崎龍介と出会う。当時の日本には「身分」があり、龍介は彼女にとって年下であるだけでなく、身分の差が存在した。2人の出奔は大正10年10月20日。白蓮はすでに「筑紫の女王」として全国的に名を知られた存在だった。翌々日の大阪朝日新聞はこう伝えた。

「同棲十年の良人を捨てヽ白蓮女史情人の許に走る/東京驛に傳右衛門氏を見送り其儘姿を晦ます」。

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『真珠夫人』

大正9年に新聞連載された菊池寛の小説。ヒロインの令嬢・唐澤瑠璃子は伊藤伝右衛門の妻・Y子(柳原白蓮)がモデルだったとされる。

『真珠夫人』は2002年のテレビドラマ化(フジテレビ系)が記憶に新しい。旧華族令嬢の波乱に満ちた悲恋を描いて、主婦層を中心に真珠夫人ブームを起こした。ヒロイン・瑠璃子は、造船会社の御曹司・真也への純愛を胸に、ほかに嫁しても貞操を守り、娼婦の館の女王となっても純潔を全うする。彼らと関係する男女は、その異常とも思えるプラトニックラブに打ちのめされ、次々に死へと追いやられる。そういったけれん味たっぷりの展開とどろどろの愛憎表現が受け、高視聴率を記録した。

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軽井沢心中

大正12年7月7日、軽井沢の別荘に滞在中だった小説家・有島武郎が、愛人とともに縊死しているのが発見された。「カインの末裔」や「生れ出づる悩み」で有名だった有島は前年北海道にある広大な有島農場を小作人に分け与え、私有財産も処分して借家生活をすることになっていた。それは白樺派として人道主義や理想主義を掲げた有島の白樺理想主義の実践だった。社会主義運動が高揚してゆくなかで、有産階級に生まれた矛盾に悩んだ末での結果だといわれる。心中の相手は雑誌「婦人公論」の記者で、既婚者だった。

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白蓮関連本

ドラマ『花子とアン』の人気で、『赤毛のアン』や翻訳家・村岡花子についての本が多数店頭を賑わせているが、この夏の意外な展開は、柳原白蓮の関連本のヒットだ。復刻系では、白蓮歌集の『踏絵』や、自伝の『白蓮自叙伝 荊棘の実』。物語系では、すでに小説化されていた『恋の華・白蓮事件』(永畑道子)や『白蓮れんれん』(林真理子)、2000年に舞台化された『恋ひ歌』の脚本『恋ひ歌/宮崎龍介と柳原白蓮』(斉藤憐)。さらに『娘が語る白蓮』(宮崎蕗苳)もファンを喜ばせている。

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