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普天間基地の問題を基本から考える用語集
執筆者 桧山信彦

普天間基地の問題を基本から考える用語集

普天間飛行場  Marine Corps Air Station Futenma

沖縄県宜野湾市にある米軍海兵隊の航空基地で、2800メートルの滑走路をもつ。通称普天間基地。近隣には住宅地が密集しており「世界一危険な基地」といわれる。1996年4月、日米両政府が普天間の返還に合意するが、その後、代替施設の移設先として県外・国外も含めさまざまな候補地が検討されるも土地や基地機能をめぐって交渉・議論が錯綜。11年6月、日米両政府の外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)では、辺野古にV字型滑走路をもつ代替施設をつくることで合意しているが、地元の名護市は受け入れに反対しており、先行きがみえないまま現在に至っている。→最低でも県外名護市長選挙

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仲井眞弘多  Hirokazu Nakaima

仲井眞弘多沖縄県知事(現職)は、第1次安倍政権発足から間もない2006年11月の知事選で初当選を果たし、10年の選挙では普天間基地の「県外移設」を公約に掲げ再選した。去る13年12月27日、政府が申請した名護市辺野古沿岸部埋め立てを承認。これは事実上、辺野古への移設を進めることであり、沖縄県議会の本会議では公約違反であるとして知事の辞任を求める決議が可決された。住宅密集地に囲まれた普天間の危険性を早急に除去し、基地の固定化を回避しなければならない考えの仲井眞知事は、普天間の5年以内の運用停止を政府に求めている。今回の埋め立て申請に関しては「公有水面埋立法に基づき承認したが、辺野古への移設は日米両政府の見解でも9.5年かかる。これは普天間の運用停止を求める5年よりも長く、現実的に辺野古への移設は難しい。県外移設の公約はたがえていない」と主張、辞任しない意向を明らかにしている。その後、14年2月の沖縄県議会における「辺野古埋立承認問題等調査特別委員会」でも知事の証人喚問が行われるなど、事態は紛糾している。→普天間飛行場名護市長選挙

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辺野古埋め立て調査

仲井眞沖縄県知事の名護市辺野古の埋め立て承認を受けて、反対する近隣住民らは2014年1月、県を相手に承認の取り消しを求める訴訟を起こすことを表明した。基地の移設が目的であることはもちろん、世界自然遺産登録を目指す琉球地域の環境が、埋め立てにより破壊されるという懸念がある。仲井眞知事は辺野古の埋め立てを承認した理由について「現段階で取りうると考えられる環境保全措置などが講じられ、基準に適合していると判断した」と説明しているが、これまで防衛省・沖縄防衛局が「事前調査」として行ってきた調査は「環境影響評価法(環境アセスメント法)」の手続きに違反しており、絶滅危惧種に指定されるジュゴン追い出しのための違法調査をくりかえしているとの指摘もある。政府は今回の承認を受け、13年度中に移設に向けた辺野古の調査や設計に着手する方針を表明している。→仲井眞弘多

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名護市長選挙

2014年1月19日、1996年に普天間返還が合意されて以来5回目となる名護市長選挙が行われ、辺野古移設反対派で現職の稲嶺進市長が再選した。かつて97年には、当時の比嘉鉄也市長が名護市民投票の結果に反して海上ヘリポート案の受け入れを表明、直後に辞任したことがある。以後98年、02年、06年の市長選では、移設容認派の候補が当選した。しかし、09年に「最低でも県外」と訴えた鳩山由紀夫民主党代表(当時)が首相となった民主党政権の誕生がきっかけとなり、10年には移設反対派として初めて稲嶺氏が当選、同年の知事選では、2期目の仲井眞氏も「県外移設」に舵を切ったという経緯がある。今回再選した稲嶺市長は、移設工事に関係する市長権限を使い、辺野古への移設計画を阻止する姿勢を示している。→最低でも県外仲井眞弘多

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最低でも県外

2006年に日米両政府が合意した在日米軍再編の行程表では、14年までに普天間基地の辺野古移設を完了することが決められていた。その後、09年の衆院選で鳩山由紀夫民主党代表(当時)が、移設先を「最低でも県外」と主張し、首相に就任した後、鹿児島県徳之島などを検討した。しかし地元の反対が強く10年5月には県外移設を断念。その後、11年6月には日米両政府の外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)において、辺野古にV字型滑走路をもつ代替施設をつくることで合意している。→普天間飛行場

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一坪地主

1972年の沖縄返還後も、日米安保条約を根拠に沖縄の基地はほとんどが残された。日本政府は米軍に土地を提供し続け、地主とは土地の賃貸借契約が交わされたが、2万7000人の地主のうち約3000人がこれを拒否。1971年12月、この3000人が中心となって「権利と財産を守る軍用地主会」(反戦地主会)が結成される。政府は沖縄の復帰前から基地として使用している土地を「公用地」とみなしてこれに対抗、反戦地主の土地の強制使用を現在も続けている。1982年には、反戦地主を支えるため土地の一部を譲り受け、一人1万円で登記する「一坪反戦地主運動」が開始された。しかし一方で、地元では反戦平和を主張する立場でも、実際には基地に反対できないことも多い。 基地反対が反戦平和と結びつくことは一見当然のようだが、住民の死活的・経済的な利害は基地とは関係していても、反戦平和と直接には結びつかない。簡単に基地に反対することのできない利害関係ができあがっているため、運動に参加できない住民が存在する。それゆえ基地反対運動は、運動へのさらなる動員のために「反戦平和」の理念を強調する必要があったという側面がある。→沖縄返還

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キャンプ・シュワブ  Camp Schwab

名護市辺野古地区に隣接する米海兵隊基地キャンプ・シュワブができたのは、いまから半世紀以上も前のこと。1955年に米軍がこの地区の接収を宣告すると、反対していた辺野古住民からは、すべてを失うよりライフラインの整備や基地への優先雇用を条件に受け入れるほうが賢明と判断する者も出始め、米軍との土地契約が結ばれた。それにより地元民のなかにも反対派との間で分断が生じた。59年には米海兵隊基地キャンプ・シュワブが完成。以後、辺野古において基地収入は大きな財源となり、これは現在の基地受け入れ容認派の主張ともなっている。辺野古はシュワブに依存し、一方でシュワブがある以上、地域おこしも難しいという側面もある。シュワブを受け入れた辺野古住民の基地への経済依存は、現在の反対運動にも複雑な影響を与えている。→辺野古埋め立て調査一坪地主

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沖縄返還

第二次世界大戦後、沖縄はアメリカに占領され、1951年のサンフランシスコ講和条約締結後もアメリカ施政権下に置かれる。沖縄米軍の役割は朝鮮戦争を機にますます重要になり、共産主義勢力に対抗するアジアの要石として基地は拡充され、ベトナム戦争では米軍の出撃基地となった。65年4月、那覇で開かれた祖国復帰集会では8万人が集結。駐日大使ライシャワーは沖縄の怒りを鎮め、日米安保を延長するためには返還を視野に入れることが必要と考えるようになる。69年、佐藤栄作首相とニクソン大統領は「72年・核抜き・本土並み」復帰で合意。日本と沖縄で高まっていた安保破棄を求める世論は収束していく。翌70年、アメリカは日米安保条約を自動的に延長した。72年5月15日、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還されたが、米軍基地は撤去されることなく残された。現在、日本にある米軍基地の実に約75%が沖縄に集中し、沖縄県の面積の約10%、沖縄本島に限ればその約5分の1を占めている。→沖縄密約

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沖縄密約

1972年の沖縄返還に際して、日米間で結ばれたとされる密約。有事の際の米軍による核兵器の持ち込み、および軍用地の原状回復費用の肩代わりに関するもの。一つめは、米軍は有事の際、沖縄に核兵器の持ち込み、通過、貯蔵できるとする合意・密約。返還前の沖縄の米軍基地には核兵器が配備されていたことから「再持ち込み」ともいわれ、日本政府が1968年に宣言した非核三原則や沖縄返還時の「核抜き・本土並み」合意とも矛盾する。もう一つは、米軍用地の原状回復補償費を日本側が肩代わりするというもの。公式発表ではアメリカが支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを日本政府が支払う密約をしているという情報を、毎日新聞の西山太吉記者がつかみ、日本社会党議員に漏洩した(沖縄密約事件)。この密約自体は事実であったが、西山記者は外務省の職員から国家機密を漏洩させたとして国家公務員法違反で有罪となった。→沖縄返還

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日米地位協定

1995年に起きた米兵による少女暴行事件で、アメリカ側は日米地位協定を根拠に、起訴前の身柄引渡しに応じなかった。米兵の身柄は日本の検察が起訴をした後に引き渡される規定のため、日本側で十分な捜査ができない問題がある。

また2004年の沖縄国際大学米軍ヘリコプター墜落事件では、米軍が現場を封鎖し、機体を搬出するまで日本の警察・行政・大学関係者が立ち入れなかった。機体の燃焼による放射能汚染が疑われたが、土壌や機体は米軍により回収され詳細は解明されなかった。

2013年12月、安倍首相は仲井眞沖縄県知事と会談し、日米地位協定改定への取り組みを通じての沖縄負担軽減策を示した。今回の取り組みは身柄引き渡しの問題ではなく、環境に関しての政府間協定作成に主眼がある。返還予定の米軍基地での環境調査や浄化措置をめぐるのもので、普天間基地返還後の、環境浄化にかかるコスト負担のルールづくりである。

政府にとってこの日米協定改定への取り組みは、辺野古の埋め立て承認を仲井眞知事から得るための、沖縄負担軽減策の切り札に位置づけられていたとされる。アメリカ側はこの改定に難色を示すとみられる。→普天間飛行場仲井眞弘多

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