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戦後史ヒストリア「連合赤軍とは何だったのか」
執筆者 椎野礼仁

戦後史ヒストリア「連合赤軍とは何だったのか」

連合赤軍事件

1970年前後に盛り上がった学生運動(新左翼運動)の、ある意味では息の根を止めたものの一つが、一連の連合赤軍事件と言っていい。連合赤軍事件と言った時、主には二つの事件を指す。一つは「あさま山荘事件」であり、もう一つは「同志殺し」である。

前者は1972年2月19日から28日まで、軽井沢にあった河合楽器の保養所「浅間山荘」に、連合赤軍の5人が立てこもり、居合わせた管理人の妻を「人質」とした形で、警察と10日間の銃撃戦を繰り広げた。この戦闘で警察官2人が殉職、民間人も一人、犠牲になった。この時、あさま山荘の壁にぶつけられた大きな鉄の球(モンケン)の記憶が焼き付いている方も多いだろう。

だが、事件が人々に負の記憶として残るのは、連赤メンバーの自供により、あさま山荘事件の前に、12人もの同志を「総括」という名のもとに死に至らしめていたことが明らかになったからだろう。新左翼運動の支持者のみならず、国民に広く、動揺と暗澹たる思いが広がった。

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1970年の安保闘争

連合赤軍前史である。1960年の安保反対闘争は、社会党・共産党を中心に、労組や市民団体、知識人ら広範な国民が結集した運動主体が担った。しかし、その「壮大なるゼロ」を擬制の終焉(吉本隆明)ととらえ、新しい運動主体として登場してきたのがブント(共産主義者同盟)や革共同だった。70年安保の粉砕闘争は、これら新左翼組織がリードした。その過程では、ベトナム反戦や全共闘など、広範な広がりを持った自主的な運動も大いに勃興した。しかし70年も過ぎ、運動の退潮が言われる中で、武装闘争のエスカレートにより情況を突破しようとした二つの党派が、連合赤軍に帰着する。→70年安保闘争

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壮大なるゼロ

60年安保闘争は、大衆的盛り上がりを見せながら、安保条約の国会承認を契機に、運動が雲散霧消した。これを「壮大なゼロ」という。

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新左翼

70年安保闘争を中心に担った革共同中核派やブント(共産主義者同盟)各派、社青同解放派などの政治党派のこと。社会党や共産党などを旧左翼と呼び、自らを区別する言い方だったものが定着した。

新左翼と旧左翼を分けるものは、暴力革命を志向するか否か。議会での議席数の伸長を目的とする体制内左翼か、実力闘争を志向する革命的左翼かだった。

60年安保闘争は、大衆的盛り上がりを見せながら、安保条約の国会承認を契機に、運動が雲散霧消した。そのことから社会党・共産党に代わる革命組織を志向する人々が、新左翼に結集した。

日本社会にその存在が知られたのは、67年の10.8羽田闘争(じゅっぱちはねだ)だった。三派全学連(=反日共系全学連)2500名の学生が、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止をとなえ、ヘルメットと角材で羽田空港に乱入しようとして、機動隊と衝突した。

この第1次羽田闘争以降、68年10.21の新宿騒乱、69年4.28の国際反戦デーの街頭闘争や秋の安保粉砕闘争を担った新左翼セクトの闘争がある。一方、それらと関連しながら、日大や東大から始まった大学闘争(一部はバリケード・ストライキ闘争など)で意思表示しようとした全共闘運動や、沖縄闘争、三里塚空港粉砕闘争や狭山差別糾弾闘争など、個別戦線を担った運動も新左翼運動と呼ばれる。

同時期、フランス、ドイツ、アメリカなどでも若者の異議申し立て運動が起こり、ニューレフトの運動と呼ばれた。

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70年安保闘争

第2次安保闘争とも呼ばれる70年安保闘争。安保とは日米安全保障条約のこと。60年の第1次安保闘争は、新安保条約の成立(6月)とともに目的を失い一気に下火になったが、70年安保闘争は直接的に安保条約を問題にするというより、この前後に起きた新左翼諸党派やそのシンパ(同調者)による反体制運動の総称的な意味を持つ。各セクトによる街頭闘争は、69年に入ると、警察側の装備の充実や、破防法の適用、火炎瓶立法などにより、制圧されるようになった。そこをどう突破するかを巡って、新左翼各派の戦略・戦術の乖離を招き、武装のエスカレート(武器や爆弾)を志向する赤軍派革命左派を近づけ、連合赤軍が結成される結果になった。

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全共闘

全学共闘会議の略。60年代後半に、各大学で、学内課題(授業料値上げなど)や政治闘争(70年安保など)などさまざまな闘争を闘う学生が結成した。

従来は、各学部の自治会が闘争単位となっていたが、政治にも直接民主主義を求めることから、自分たちの学内でも、自治会の枠にとらわれない共闘の合議体ができた。そこでは、自治会、サークルの団体、あるいは狭山差別裁判粉砕○○大学闘争委員会など、それぞれが作った組織が自由に討議に参加できた。

東大全共闘(山本義隆議長)や日大全共闘(秋田明大議長)が代表的存在で、69年9月5日には日比谷野外音楽堂で全国全共闘結成大会が開かれ、上記の二人がそれぞれ議長・副議長に選ばれた。しかし運動の退潮とともに、統一した動きをとることなく自然消滅した。

新左翼の活動家からシンパまでが参加できることが特徴で、結集軸としてよく機能したが、組織だった動きや人数、方針を含めて、セクトが主導権をとる大学も多かった。

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自己否定の論理

東大全共闘をはじめ、真面目な学生が問題意識を持った論理。反体制を標榜し、社会主義志向を持つ中で、大学が持つエリート養成機関という機能の真っただ中にいる自分たちの存在を問うという、根源的な問いだった。そのなかで大学をやめたり、資本主義の矛盾が集中する社会的な弱者との連帯を唱え、山谷や釜ヶ崎で闘争を継続したりする層を一定程度生み出した。同じような意味で、大学解体というスローガンも唱えられた。ちなみに、当時大学に進学するのは同世代のわずか20%だった。

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赤軍派

後の連合赤軍を形成する前身の組織。そもそもはブント(共産主義者同盟)の内部フラクションだったが、69年の運動の後退局面で、四分五裂状況に陥ったブントの中で、最左派として分派・独立した(69年8月)。議長は、ブント党内でも有力なイデオローグの一人だった塩見孝也で、後によど号ハイジャック事件で北朝鮮に飛び立つ田宮高麿ら関西メンバーが中心だった。

69年秋には大阪戦争、東京戦争を呼号して交番や警察署を火炎瓶で襲撃などしたが、さしたる戦果も上げられなかった。11月には逮捕されていないメンバーを大菩薩峠(山梨県)の福ちゃん荘に集結させ、首相官邸占拠のための軍事訓練を行おうとしたが、警察に急襲され53人が一網打尽となった。

思想的には、過渡期世界論―世界同時革命を唱え、その下に国際根拠地づくりを掲げていた。

この後、赤軍派は、日本で初めてのハイジャックを敢行して北朝鮮に渡った「よど号グループ」(→よど号赤軍)、革命左派と合同して連合赤軍を作った森恒夫をリーダーとするグル―プ、それに塩見議長をはじめ獄中に捕えられた指導的メンバー(数的にはここが多数派)の3つに分解した。

獄中の指導者の多くは、連合赤軍の結成には反対したが、森は受け入れなかった。そのため、このことが後の同志粛清につながったと批判する獄中者も多い。

なお71年2月にパレスチナに渡った重信房子が74年ごろから「日本赤軍」と名乗り、ハイジャックや各国の大使館占拠などを起こして、獄中同志の奪還などを果たした。戦果が大きく、派手に報道されたため、人々の記憶には鮮明だが、この当時、赤軍派に属していたメンバーは少ない。

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革命左派

後に赤軍派とともに連合赤軍をつくった党派「京浜安保共闘」のこと。正式名称は日本共産党革命左派神奈川県委員会。直接的には、河北三男と川島豪というブント系の人脈だった二人が「警鐘」というグループを結成し、日本共産党から脱党した日共左派(神奈川県委員会)に合流したのが最初だが、その後変遷を経て河北は組織を離れ、川島が最高指導者となった。

毛沢東主義を標榜し、「反米愛国」をスローガンとしていた。69年9月4日、愛知外相のソビエト連邦(現在のロシアなど)やアメリカの訪問阻止闘争として前日から羽田空港の近辺にひそみ、滑走路に飛び出して火炎瓶を投擲。「反米愛国」と大書された旗を掲げた。

この時に逮捕された坂口弘や吉野雅邦は、後に幹部として連合赤軍に参加する。この二人の出身大学である東京水産大学と横浜国立大学が拠点校だった。

マスコミ報道では、大衆組織である「京浜安保共闘」の名前が使われたので、この名の方が認知されている。

川島の逮捕の後、永田洋子が互選でリーダーとなり、赤軍派の森恒夫と意志一致して連合赤軍路線に突っ走った。

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よど号赤軍

赤軍派は世界一国同時革命という主張の下、国際根拠地論を唱えていたことにより、70年3月末に、日本で初めてのハイジャックを挙行。田宮をリーダーに、高校生も含んだ9人のメンバーで、羽田発の日航機よど号を乗っ取り、ピョンヤン(北朝鮮)行きを要求。博多で女性乗客などを下した後、飛び立ったよど号だったが、米軍の要請を受けた韓国軍の誘導でソウルに着陸。騙されたと知り不穏な空気が流れたが、日本の運輸政務次官(山村新治郎)が代わりに乗り込むことを条件に残りの乗客100名余を解放し、ピョンヤンに出立した。

以来40数年を、亡命者としてピョンヤンに暮らすが、秘かに日本に潜入したり、資金稼ぎに海外で貿易事業を手掛ける最中に逮捕され、日本に強制送還されるメンバーも出たりと、その後の人生も数奇。なお田宮をはじめ、ハイジャックメンバーのうち5名は既に死亡していると言われる。

ピョンヤンでメンバーの8人は日本人女性と結婚、子供も設けた。子供たちみんなと妻など計20名がすでに日本に帰国を果たし、まだピョンヤンに残るのはサブリーダーだった小西隆裕らメンバー4人と妻2人だけとなった。

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