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連載「平成ヒストリア」その1=平成元年、バブルの憂鬱
執筆者 木村傳兵衛

連載「平成ヒストリア」その1=平成元年、バブルの憂鬱

24時間タタカエマスカ

バブル時代の真っ直中、エネルギッシュなことばがCMから流行した。地球規模で金融取引は絶え間なく動き続け、24時間、円は働きつづけた。CMは、ロボットまがいの動き、切換の早い画面の活力、演じたのは俳優・時任三郎。まさにジャパニーズ・ビジネスマンの置かれた構図そのものだが、作り手にも視聴者にも醒めた視線があったから面白がられたのだろう。

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平成おじさん

昭和天皇崩御の翌日、1月8日。臨時閣議が開かれ新しい元号が公表された。「新しい元号は、平成であります」と宣言し、墨書された額縁を示したのは、当時竹下内閣の官房長官小渕恵三52歳だっこの姿は、1年に及んだ自粛ムードの終わりと、新しい時代の始まりを象徴するものであり、人々に深い印象を残した。小渕は、これによりしばらくの間「平成おじさん」と呼ばれた。

小渕は、竹下登、金丸信の後を継いで小渕派を創設したが、同じ選挙区に福田赳夫、中曽根康弘の両巨頭がいたため、目立つ存在ではなかった。田中真紀子から「凡人」、ニューヨークタイムスから「さめたピザ」と酷評されたこともあった。

1998年、首相となるや自由党や公明党と連立を組み、国旗・国歌法、通信傍受法、住民票コード付加法などを成立させたり、労働者派遣法を改正して派遣の原則容認を認めたりした。そして小渕自らテレビ番組の現場や各界著名人に直接電話をして意見交換や依頼をするようになり、飾らない人柄や話しぶりがマスコミで大きく取り上げられた。これがブッチホンである。しかし超多忙な仕事は大きなストレスを生み、2000年、脳梗塞を発症して帰らぬ人となった。

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おたく

1989年、連続幼女誘拐殺害事件が世の中に大きな衝撃をあたえたが、この事件の犯人の日常生活は、アニメ、ビデオなどいわゆる〈おたくグッズ〉であふれた、まさしく〈おたく〉の部屋で営まれていたのだった。ということで、ここから〈おたく〉ということばが一般社会に広がる。

対人関係が苦手で、アニメやビデオ、フィギュアなど自分の世界に没入し、同好仲間でも相手の名前ではなく「おたく」と呼び合う少年たち。長髪にTシャツ、Gパン、小太り、であることが多い。彼らはパソコン通信や電話のパーティーラインなどによる付き合いを好み、マニアックで、直接的な人間関係を嫌う。そんな限られた世界に没頭している連中を〈おたく〉と命名したコラムニストの中森明夫はすでに83年、雑誌「漫画ブリッコ」に「おたくの研究」を執筆していた。

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3K職場

1986年ごろには〈3K〉といえば、高度情報化、国際化、高齢化の頭文字だった。89年には産業界に「3K職場」という新語が誕生。危険、汚い、きつい、である。人手不足が産業界全般に広がり、とくに建設・土木業界の現場で深刻になった。その原因が〈3K〉である。

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山は動いた

「マドンナ旋風」といわれたこの年、その中心にいたのが社会党党首の土井たか子だった。7月の参院選では、女性たちの政治意識の高まりを背景に社会党を中心に22名の女性議員が生まれた。土井は与謝野晶子の「山の動く日来る」から「山は動いた」と名セリフを発する。

1986年、日本政治史上初の女性党首となった土井。長身で歯切れのいい話し方、カラオケ好きの豪快なキャラクターが、党を超えて愛され、土井ブームが巻き起こった。委員長就任挨拶での覚悟を決めた「やるしかない!」は、86年の日本新語・流行語大賞特別賞に。

93年には細川護煕を首相にした連立内閣の下で、初の女性衆議院議長に就任する。

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北野武

1989年、「その男、凶暴につき」を初監督。愚直な叩き上げの刑事が、捜査現場と警察機構の軋みに潰れてゆく様子をクールに切り取って描かれてゆく。映画監督・北野武は、ここから始まった。派手なアクションも音響も極力排した映像に、エリック・サティの音楽が、主人公の心音のごとく重なり合う。陰惨な暴力は、よりリアルに、ときに滑稽さを帯びる。

お笑いコンビ・ツービートの「毒舌」「高速」漫才の突っ込みとして世に知られたビートたけしは、MANZAIブームを足がかりに、一気にスターダムにのし上がった。

その後、監督作7作品目となる「HANA-BI」(98年)ではベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞、「座頭市」ではベネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞し、海外での評価も高い、世界のタケチャンマンである。

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プリプリ

バンドブームのなか、女性のみで構成されたガールズバンドでSHOW-YAとともにパイオニア的役割を果たしたのが、プリプリことプリンセスプリンセスだった。

そしてガールズバンドとして初めて日本武道館で公演を行ったのが1989年1月。この年、「Diamonds(ダイアモンド)」「世界でいちばん熱い夏」を大ヒットさせ、アルバムもミリオンセラーに。メンバーは奥居香(ヴォーカル、ギター)、中山加奈子(ギター、コーラス)、渡辺敦子(ベース、コーラス)、富田京子(ドラムス)、今野登茂子(キーボード、コーラス)の5人。96年バンド解散。2012年には、東日本大震災の復興支援として、期間限定で16年ぶりの復活を果たしている。

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千代の富士

1989年、角界初の国民栄誉賞を授与されたのが第58代横綱・千代の富士。前年には双葉山に次ぐ53連勝という大記録を達成。

入幕したばかりのころは、軽量なうえ肩に脱臼癖があって苦労したが、それをウェイトトレーニングで克服。大関、横綱へと快進撃を続けるにつれて女性ファンも急増、ウルフと呼ばれるようになった。

1991年に引退して年寄・九重を名乗るまでに、史上最高の幕内通算1045勝を達成。優勝回数は大鵬に次ぐ31回を数えた。

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クリスマス・イブ

クリスマスが近づくと商店街のスピーカーから山下達郎が聴こえるものだが、それは平成元年から始まった。JR東海のテレビCMで、CMタイアップ曲として「クリスマス・イブ」が採用されたのだ。山下達郎の、高い空に抜けていくような歌声が心地よく、この曲はオリコンで1位を獲得。以降、クリスマスの定番曲になる。もともと1983年に限定リリースされ、しだいに人気ナンバーとなり、CMブレイク後は、毎年シーズンになるとチャートを昇るロングセラーとなっている。

山下達郎は、73年、大貫妙子らと伝説のバンド、シュガー・ベイブを結成。バンドの解散を受け、76年ソロデビュー。80年リリースのアルバム「RIDE ON TIME」が大ヒット。その類い希な美声の故か、CMタイアップ曲や、ドラマの主題曲などのヒット作が多い。

レコードコレクターとしても有名。その趣味が生きたラジオ番組「サンデーソングブック」(JFN系)でオールデイズをかけまくっている。

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松田優作

手塚治虫、美空ひばり、松下幸之助と、昭和の大物が逝ったこの年11月6日、松田優作が40歳という若さで他界する。リドリー・スコット監督、マイケル・ダグラス主演『ブラック・レイン』、米公開がこの年9月、日本公開は10月、米映画界でも絶讃された演技で松田は世界を舞台にした活躍を期待されていた。『ブレードランナー』ばりのサイバー・パンクな映像も話題を呼んだが、延命治療を施さず、死を賭して臨んだ松田のハリウッド映画での『成功』が、このあと日本の映画人に与えた影響ははかりしれない。

TVドラマでは『太陽にほえろ』で人気を博し、映画では遊戯シリーズ(村川透監督)『陽炎座』(鈴木清順監督)『家族ゲーム』(森田芳光監督)『探偵物語』(根岸吉太郎監督)に主演、着実にキャリアを積み、それまでの日本人俳優にない世界観と繊細さを体現し、魅力的な俳優と成長していった矢先の訃報であった。

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