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『坂の上の雲』と、時代の言葉たち
執筆者 木村伝兵衛

『坂の上の雲』と、時代の言葉たち

松山市

愛媛県の県庁所在地。市制施行は1889年(明治22年)。『坂の上の雲』の主人公である秋山好古、秋山真之の兄弟、正岡子規の生誕地。人口約51万7000人(2010年現在)。松山城や道後温泉などがあり、夏目漱石「坊っちゃん」の舞台としても有名。高浜虚子、伊丹十三、天童荒太、杉作J太郎らの出身地でもある。

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司馬遼太郎

20世紀日本における最大の歴史文学者の一人(1923〜1996年)。山路愛山、徳富蘇峰ら世紀前半の歴史批評家をひきつぎ、戦後における国民的歴史観をリードしつつ、エンターテインメントをも兼ねたすぐれた歴史文学を創造した。『燃えよ剣』『坂の上の雲』『空海の風景』などの名著により、平安時代から明治にいたる長い日本史に、独特の眺望をあたえ、良質なナショナリズムの心情を促した。

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千人針

1904年2月8日、日本はロシアに宣戦布告、満州を舞台とする日露戦争が始まった。この頃、街角に老婆や婦人が立って、通行人にハンカチぐらいの布に赤糸と針を添えて差し出し、1人1針ずつ1000人の女性に糸を結んでもらうことが流行った。これを軍人が身につけると敵弾に当たらないとされ、戦場へ送るときに持たせるようになった。日中戦争が激しくなると千人針は習慣化してくる。最初は寅年の女性だけが刺したという。

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二百三高地

当時、流行したヘア・スタイルの名前。

ロシア軍のいる旅順への総攻撃は失敗続きであったが、港を見下ろせる二百三高地に焦点を定めた1904年11月の第3回目の総攻撃が成功し、一進一退の攻防戦の末12月に占領した。日本軍はなおもジリジリと攻め寄り、翌年1月1日にロシア軍は降伏し、ついに旅順は陥落。

これ以後国内では、頭上に高い髷(まげ)を結って、前髪を大きく張り出す「二百三高地」という髪型(ひさし髪の一種) が大流行。この髪型は和装にも洋装にもマッチしたため日露戦争の終結した後もはやり続けた。

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軍神広瀬中佐

1904年2月8日、日本海軍は宣戦布告前に旅順と仁川にいたロシア軍艦を奇襲、10日に宣戦布告し、満州を舞台とする日露戦争が始まった。

広瀬武夫中佐は、旅順口閉塞作戦で福井丸を指揮していたが、ロシアの魚雷を受け沈没。沈みかけている福井丸に部下の杉野兵曹長を探すうち、自分も敵弾を受けて戦死したとされる。

広瀬中佐は「軍神」とされ、大分県竹田市の広瀬神社に祀られた。東京の万世橋には、「忠士」杉野兵曹長と共に、二人の銅像が建てられた。また、小学唱歌にも「広瀬中佐」に「杉野は何処、杉野は居ずや」と歌われ、広く国民に浸透していった。

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専売タバコ

日露戦争の戦費調達を名目にして、タバコの収納から製造・販売まで全過程が専売となった。敷島8銭、大和7銭、朝日6銭、山桜5銭、スター7銭、チェリー6銭。民営たばこが姿を消した。

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君死にたまうことなかれ

与謝野晶子が「明星」9月号(1904年)誌上に、旅順に出征している弟を思って、「君死にたまふことなかれ」の長詩を発表した。大町桂月(けいげつ)はこの戦時に「けしからん」と非難。新詩社同人との間に論争が起こり大きな話題となった。

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記者倶楽部

新聞記者に対する軍当局者の圧迫に抵抗し、これを排除するために、東京朝日、大阪毎日、時事新報、国民、読売、万朝報、東京日日など15社の記者によって、このころ「記者倶楽部」が結成されたとされる。

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皇国の興廃この一戦にあり

ロシアはバルチック艦隊を大西洋、インド洋経由で日本海に送り込んできたが、東郷平八郎を司令長官とする連合艦隊はこれを対馬沖で発見。東郷司令官は「皇国の興廃この一戦にあり、各員いっそう奮励努力せよ」とのZ旗をかかげて南下。1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦でバルチック艦隊に完勝した。

以降5月27日は海軍記念日になった。

東郷は、日清戦争でも戦艦浪速(なにわ)の艦長として黄海海戦に参加。この日露戦争の戦功で「東洋のネルソン」と呼ばれて国民的英雄としても尊敬され、元帥となり、海軍部内でも大きな発言権を持った。

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天気晴朗なれども浪高し

日本海海戦でバルチック艦隊と相まみえたときの連合艦隊のZ旗信号の合いことばが〈本日、天気晴朗なれども浪高し〉。

このフレーズは流行語となった。

「天気晴朗なれども」とは、視界良好で砲撃がやり易く、また敵を取り逃がす心配が少ない。「浪高し」とは、艦が大きく揺れてお互い狙いを付け難いが、練度の高い日本軍の方が有利である。つまりは「気象条件は我が方に極めて有利である」という意味である。

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英霊

すぐれた働きをした人の霊に敬意を込めた用語表現。とくに戦死者の霊魂を意味することが多い。

日露戦争戦没者3万余名の招魂式を挙行し、祭神を「英霊」と呼んだのが最初といわれる。

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ここはお国を何百里

「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の……」というこの歌のタイトルは「戦友」。

厭戦的、反戦的と軍から禁止されたが、哀愁ただようメロディーが国民感情に受けたのか、日露戦争の最中、広く歌われた。作詞は奉天会戦に従軍した真下和泉。

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ポーツマス会議

日本海海戦の後、日本から講和の斡旋を依頼されたアメリカのルーズベルト大統領は、ロシアを説得して、講和勧告書に同意させた。講和会議は1905年8月10日から、日本全権大使小村寿太郎、ロシア全権大使ウィッテのもとに、アメリカのポーツマスで行われた。交渉は紆余曲折を経て、9月5日、日本の韓国における支配権をロシアが認めること、ロシアが清国から得ている旅順・大連の租借権と長春―旅順間の鉄道およびそれに付随する利権を日本に譲渡すること、さらに樺太の南半分の割譲と沿海州沿岸での日本の漁業権を認めるポーツマス条約が調印された。

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日比谷焼打ち

ポーツマス条約調印が行われた1905年の9月5日、東京では講和反対の全国大会が日比谷公園で開かれた。

この戦争に勝ったと思い込まされていた国民は、軍事費賠償請求権の撤回、樺太は南半分だけという日本側の譲歩は納得できなかった。閉会後、憤懣やる方ない群集は新聞社、官邸、警察署、交番、電車、キリスト教会などを焼打ちし、政府は東京市および府下に戒厳令をしいた。

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満鉄

1906年11月26日、ポーツマス条約でロシアから譲渡された権利をもとに南満州鉄道株式会社が設立された。資本金2億円のうち1億円は政府の出資で、残りの1億円は株式募集で調達することになり、旅順―長春間の鉄道やその支線の経営をはじめ、炭鉱業・水運業・電気業など多様な業務が定款に定められていたその会社に多くの人々が夢を託すべく出資を希望。9万9000株の募集に対して1億株を超える申し込みという満鉄ブームが巻き起こった。

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後藤新平

南満州鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁は後藤新平。後藤は「文装的武備」による植民地経営という考えに基づき、付属地に学校、病院、公園、神社などを建設し、満鉄線の都市を日本色の強い近代都市へと変貌させた。「カネを残すのは下、事業を残すのは中、人を残すのが上」といい、人材に出費は惜しまなかった。その後、後藤は鉄道院総裁・内相・外相・東京市長・東京放送局(NHKの前身)初代総裁などを歴任し、「鉄道・放送の父」とも言われる。

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殉死

1912年7月30日明治天皇の死去が公表され、皇太子嘉仁が皇位を継ぎ、「大正時代」の幕開けとなる。

9月13日、青山葬場殿で大葬が行われたが、その日、乃木希典陸軍大将は「うつし世を神さりましし大君の/みあとしたひて我はゆくなり」の辞世を残し、妻とともに殉死した。乃木の出身地の下関市、栃木県西那須野町、東京(乃木坂)、函館市などに乃木大将を祀った乃木神社がある。

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