月刊基礎知識
月刊基礎知識トップページへ バックナンバーへ
還らぬ人びと2009

還らぬ人びと2009

森繁久弥

1913年5月4日-2009年11月10日。俳優。戦後の復興に汗を流した「一億総サラリーマン時代」の日本のお父さんの代表格だった。目玉焼きの黄味をチュッとすすって女房の顔色をうかがう、気弱で浮気もできないちょっぴり助平なお父さん。

早稲田大学時代に演劇を志したが軍事教練拒否で退学、満州に渡って放送局に勤める。戦後、GHQの肝入りで作られたNHKラジオの「愉快な仲間」に藤山一郎の相手役として抜擢され(1950年)、この番組のヒットで52年、源氏鶏太作の「三等重役」に人事課長役で出演、サラリーマンが出世するように森繁も社長役まで出世していく。53年「次郎長三国志」(マキノ雅弘監督)の森の石松役、55年「夫婦善哉」(豊田四郎監督)の大店ぼんぼん役で名優森繁を確立。70年「知床旅情」(森繁作詞・作曲)のヒットで多才ぶりも発揮、ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」出演は900回を数え、代表作となった。

ページの先頭へ 戻る

忌野清志郎

1951年4月2日-2009年5月2日。1970年、RCサクセションのフロントマンとして「宝くじは買わない」でデビュー。代表曲に、都立日野高校時代の担任・小林先生をモデルにした「ぼくの好きな先生」(72年)、「雨上がりの夜空に」(80年)など。原発を揶揄した詞の「サマータイム・ブルース」が収録されたアルバム「COVERS」(88年)、パンクロック風「君が代」を含むアルバム「冬の十字架」(99年)などの発売中止問題は、歌と社会の関わりをめぐる広範な論議をひきおこすこととなった。

享年58歳。癌性リンパ管症による、早すぎる死。青山葬儀所で行なわれたロック葬、弔問数は43,000人に及んだ。日本の「キング・オブ・ロック」の死に対して、ミュージシャンの泉谷しげるは「俺だけは絶対に忌野清志郎の死は認めないから」と語り、夏のフジロックフェスティバルでは、仲井戸麗市、char、甲本ヒロトらによるトリビュートバンドが追悼の意を表した。

ページの先頭へ 戻る

古橋広之進

1928年9月16日-2009年8月2日。元水泳選手。1948年に開かれたオリンピックロンドン大会には、日本は戦争責任を問われて不参加だった。だが前年の全日本選手権400メートル自由形で世界新記録を出していた19歳の日大生・古橋広之進は8月17日、オリンピック決勝に合わせて神宮プールで開かれた競技会に出場。期待に応え、オリンピック優勝者を上回るタイムを叩き出した。またその後の日本選手権では400メートル自由形、1500メートル自由形で世界新記録を連発。敗戦で打ちひしがれていた人々はその快挙に勇気づけられ、古橋は一躍ヒーローとなった。

古橋は小学生のころから「豆魚雷」と呼ばれ将来を嘱望されていたが、戦争中の勤労奉仕で左手中指の先を旋盤で切断するというハンデを負っていた。記録は、それを乗り越えて達成されたのだ。さらに翌1949年には、ロサンゼルスで開かれた全米男子屋外選手権で、400メートル、800メートル、1500メートルに世界新記録で優勝。アメリカのマスコミもこれには驚きを隠せず、「フジヤマのトビウオ」と賞賛を惜しまなかった。古橋は、非公式も含めると通算33回も世界新記録を出し、日本中を熱狂させた。

ページの先頭へ 戻る

臼井儀人

1958年4月21日-2009年9月11日。埼玉県立春日部工業高等学校卒。人気アニメ「クレヨンしんちゃん」の作者。

1990年8月『週刊Weekly漫画アクション』で「クレヨンしんちゃん」連載開始。2009年までにコミックスのシリーズは、累計5000万部超が発行されている。92年からTVアニメ化。野原しんのすけはたちまち子ども達の爆発的人気者になった。

毎回、しんちゃんが引き起こすやっかいな事件とその家族の生活がおもしろおかしく描かれる。しんちゃんの独特のしゃべり方とブラックな内容は、とても子ども向けとは思えないし、いわゆる下ネタや、パンツをずらしてお尻を見せる姿などが一部で波紋を呼んだが、なぜか子どもたちには、大受けでまねをする子も多い。ちなみにしんちゃんは自分のことをオラと呼ぶ。海外では95年の香港を皮切りにアジア各国で放映され、2000年代に入るとヨーロッパやアメリカでも放映されている。臼井は09年9月、妙義荒船佐久高原・荒船山で転落死。

ページの先頭へ 戻る

加藤和彦

1947年3月21日-2009年10月16日。日本のポップミュージックの王道を経験した、あるいは、させた人物である。団塊真っただ中の世代。1968年、♪オラは死んじまっただー コミカルな歌詞もうけて、深夜放送にリクエストが殺到。この「帰って来たヨッパライ」が注目され、フォーク・クルセダーズが世に出た。メンバーは、加藤和彦と北山修、はしだのりひこ。フォークルを解散した後も、ソロになって、71年、名曲「あの素晴しい愛をもう一度」を北山とのデュエットで発表。そしてフォークからロックへ、72年、当時の妻・福田ミカをボーカルにサディスティック・ミカ・バンドを結成。高中正義、高橋幸宏、小原礼ら強豪メンバーとイギリスでも活躍。77年、作詞家・安井かずみと再婚し、作詞作曲コンビで多くの名曲を作り出したが、94年、安井と死別。2009年10月2日、東京での松任谷由実のライブにゲストとして登場した2週間後、自死のニュースが駆けめぐった。

ページの先頭へ 戻る

金大中

1925年12月3日-2009年8月18日。1973年8月8日、反政府運動を展開中の新民党所属の元大統領候補・金大中が、KCIA工作員の手によって東京のホテルから拉致され、殺害されようとした。いわゆる金大中事件である。金鍾泌首相の謝罪訪日によって一応の政治決着をみた後も、金大中の政治運動は極度に制限され、投獄が繰り返された。79年12月に釈放されたのち、朴正煕大統領暗殺後の80年の「ソウルの春」に、金鍾泌、金泳三とともに、いわゆる「三金」の一人として華々しい政治活動を展開。しかし、金大中は再び逮捕され、第1審で死刑判決を受けたが、国際的救命運動やアメリカ、日本政府からの外交的圧力により、81年1月23日無期懲役に減刑された。1987年には公民権を回復、1997年の大統領選挙で当選した。北朝鮮に対して太陽政策を志向。2000年に実現した南北首脳会談などが評価されノーベル平和賞を受賞した。

ページの先頭へ 戻る

田英夫

1923年6月9日-2009年11月13日。日本のニュースキャスターの草分け的存在。「JNNニュースコープ」のキャスターだった田英夫は、日々ベトナム戦争を伝えながら、ニュースソースが偏っていると気にかけ、公正な報道を目指してベトナム・ハノイに飛ぶ。現実に見たベトナムは米国防総省による「北爆は軍事目標に限定している」という発表と明らかに違っていたという。帰国後、1週間にわたり体験報告、報道特番を放送し、その集大成として「ハノイ・田英夫の証言」を放送。その放送後、TBS社長が自民党に呼び出されたのは、報道姿勢が反米的だとみなした圧力ではないかといわれている。TBSは、「言論の自由は守らなければならない」と抵抗を続けるが、最終的には放送再免許の不更新をちらつかされるなどの過程を辿り、田は降板する。日本のテレビジャーナリズムの、報道の自由を揺るがす出来事だった。TBSを退職した田は、71年日本社会党から参院選に出馬し、192万票でトップ当選し、2007年まで議員を務めた。

ページの先頭へ 戻る
All Right Reserved, Copyright(C) ENCYCLOPEDIA OF CONTEMPORARY WORDS