月刊基礎知識
月刊基礎知識トップページへ バックナンバーへ
誰かの名前がついてるコトバ

歴史に登場した○○書簡(の類)はもう少し重みがあったの用語集

ドムニツキー書簡

1956年版本誌掲載。以下、

日ソ国交調整具体化に関するソ連政府の意向を伝えるために、ソ連駐日元代表部主席ドムニツキー氏が、55年1月25日鳩山首相に手渡した書簡。書簡は、日ソ問題の懸案である戦犯、領土、漁業などの具体的な問題についてはふれず、(1)ソ連は、日ソ関係正常化のために取りうべき措置について意見を交換したいこと、(2)交渉の場所はモスコーか東京、(3)そのためにソ連は代表を任命する用意があること、(4)日本の意向を知らせ、とのべている。日付けも署名もなかったが、数日後、ソ連側が公式文書であることを確認したので、日ソ交渉具体化の第1歩となった。

ページの先頭へ 戻る

ブルガーニン書簡

1957年版本誌掲載。以下、

6月8日、ブルガーニン・ソ連首相から、アイゼンハウアー米大統領にあてた親書。内容は軍縮に関するもので、ソ連の地上軍120万削減に歩調をあわせて、アメリカも軍備を縮小するように呼びかけ、かつ米、英、仏3国の西独駐留軍削減を提案したもの。同文の書簡が、8日、英、仏、西独、イタリアの4政府にも手交されている。ブルガーニン書簡は1955年の9月の軍縮提案以来、数回発せられており、1月25日には、米ソ双務協定を提案した書簡もあるが、いずれもアメリカの拒否にあっている。この一連の書簡の動きを、ソ連の手紙外交などともいう。これに対してア大統領は、56年8月6日、ブルガーニン・ソ連首相にあてて軍縮問題についての手紙を送った。アイク回答はブ首相提案を遠曲に断ったものだが、そのほかに(1)空中査察の態度を改め(2)3月1日に提案した原子兵器の製造停止に合意し(3)ジュネーヴ巨頭会談で生れたドイツ問題解決などの希望を実現するため、ソ連が努力するよう呼びかけたものだった。「米政府は原子戦の脅威を除くため、軍縮問題の重点的検討を行っているが、それが進めば、ブ首相に直接か、国連を通じて、何らかの提案が行われることになろう」と述べた展が注目されたが、特に積極的なものはなかった。

ページの先頭へ 戻る

吉田・ダレス往復書簡

1962年増補版本誌掲載。以下、

日本が台湾にある国民政府との間に平和条約を締結する意向を表明したダレス大使あて吉田首相の書簡とその返簡。書簡は1951年12月24日に出され、返簡は翌52年1月18日に到着した。対日平和条約は51年9月8日に署名され、日本は11月18日に批准したが、これには日本が中国のどの政府と平和条約を結ぶのかを規定していなかった。講和会議にどちらの中国政府を招請するかについて米英間に意見の食いちがいがあり、51年6月のロンドンでの第3回目の米英会談で、日本が平和条約締結後独立国として自由に選択しうるという見解のもとに、平和条約草案が米英の考え方の折衷案という形で成立した。ところが、平和条約調印後、東京を訪れたダレス大使らはアメリカ上院の平和条約承認を円滑にとりはこぶ必要からと称して、国民政府とのあいだに平和条約を締結することを強く日本側に要請した。その結果出されたのが吉田書簡で、(1)日本が国民政府と正常な関係を再開する条約を締結する用意がある、(2)この二国間条約の条項は、国民政府の支配下に現にありまたはこんご入るべきすべての領域に適用があること、(3)中国の共産政権と二国間条約を締結する意図を有しないこと、が述べられた。

ページの先頭へ 戻る

平賀書簡

1971年版本誌掲載。以下、

昭和44年9月、北海道空知支庁長沼町の「ナイキ基地設置反対訴訟」で札幌地裁平賀健太所長が審理担当の同地裁福島重雄裁判長に訴訟の判断にふれる書簡を審理中に出した(44年8月)ということが明るみに出て、「憲法で保障された裁判官の独立をおびやかす」と問題になった。この書簡が“平賀書簡”で他の裁判官にももう一通出されており、同地裁裁判官会議は平賀所長に厳重注意、最高裁も注意処分、同所長を東京高裁判事に転勤させることを決めた。

ページの先頭へ 戻る

松村・廖覚書

1972年版本誌掲載。以下、

昭和39年4月19日に、訪中の自民党の松村謙三と、中国の中央委員の廖承志の間に取り交わされた、新聞記者交換と貿易連絡事務所の相互設置を骨子とする覚書。LT貿易の窓口として、日本に日中総合貿易連絡協議会(高碕事務所)、中国には廖承志事務所が設けられているが、この覚書によれば、中国は東京に「廖承志事務所東京事務所」を、日本は北京に「高碕事務所北京事務局」を置くことになる。外務省、通産省、法務省は、代償3人と随員2人が1年の期限で常駐することになれば、体外的に外交機関に似通ったものを設置させる印象を与え、政経分離の建前が崩れるとして反対、5月これらの人びとを貿易連絡員として扱うことにした。8月、連絡員5名が来日した。

ページの先頭へ 戻る

ロジャーズ書簡

1973年版本誌掲載。以下、

昭和47年5月15日の沖縄返還にともない、ロジャーズ米国務長から福田外相宛におくられた核抜き保障に関する同日付の書簡。核兵器の、沖縄からの撤去という事実の確認が期待されたが、書簡では1969年11月の日米共同声明における、沖縄の返還を日本国政府の政策に背馳しないよう実施するという確約と、これを規定した沖縄返還協定第7条に言及しているのに過ぎないため、「核抜き保証」が間接的に表現されたのにとどまるとか「核隠し」の恐れがあるといった批判が残されている。

ページの先頭へ 戻る

田中親書

1975年版本誌掲載。以下、

朴大統領狙撃事件を契機にもたらされた日韓の危が機的状況を打開するため、田中首相から朴大統領あての書簡。1974年9月19日に渡韓した椎名特使(自民党副総裁)が携行し、特使が親書の内容を口頭で補足説明することによって、韓国側が強く要求した朝鮮総連の規制に対して答えることになっていたが、日本は、韓国側に譲歩して、補足説明は、後宮大使のイニシアル入りの「メモ」によってなされた。日本側は否定しているが、韓国は、椎名「特使」を「陳謝特使」と説明した。

親書は、朴大統領夫人の悲劇的な死に対し、重ねて(夫人の国民葬に田中首相が参列した)哀悼の意を表するとともに狙撃事件の事前準備が日本国内で行われた事実につき、日本政府が道義的責任を感じている等について述べたもの。「メモ」では、さらに、日本政府が右の事実にかなりの責任を感じ、遺憾の意を表して、朝鮮総連の名をあげ、韓国政府の転覆を意図する犯罪行為、あるいは要人の生命をねらうテロ活動などについては、朝鮮総連などの団体構成員によると否とを問わず、犯罪行為を取り締まる方針であることを表明した。日本の立場としては、犯罪行動を取締ることは当然であるが、韓国側が朝鮮総連規制を日本との約束と受けとっている以上、犯罪行為の認定に関して、今後に大きな問題を残したことは否定できない。また、この田中親書が日韓の出発点となったことについて、韓国側が、金大中事件、日本人二学生を帳消しにする意図か否かも重大な問題となろう。

ページの先頭へ 戻る

ドプチェク書簡

1976年版本誌掲載。以下、

1968年のチェコ事件のあと党・国家の要職を追われて、ブラチスラバで営林署職員(その後自動車駐車場の管理人)として生活しているドプチェク前党第1書記は、チェコスロバキア独立記念日にあたる74年10月28日執筆の書簡を連邦議会(国会)とスロバキア民族評議会に対して送った。

ドプチェクは、「現政権の路線は市民の社会的な生存と市民権をおびやかしている」「何ものもおそれず自由に党の政策を討議する可能性が奪われている」「現体制は権力の乱用を野放しで認めている。私はこの体制がはじき出したすべての人たちの名においてこの書簡を書いた」と述べ、現体制を厳しく批判し、同士や家族に対する監視や尾行を非難した。

チェコ当局は同書簡を握りつぶしたが、コピーが国外に持出され、75年4月西側の有力紙誌(ニューヨーク・タイムス(アメリカ)、オブザーバー(イギリス)、ル・モンド(フランス)、デア・シュピーゲル(ドイツ)、朝日新聞(日本)など)に発表された。

西側で書簡発表後フサーク第1書記は、ドプチェクが党および社会主義を中傷しているときめつけ、「西側に行きたければ行ってよし、とどまるのであればわが国の法律を守るべきだ」とドプチェクに警告した。

ページの先頭へ 戻る

カーター人権書簡

1978年版本誌掲載。以下、

カーター米大統領はソ連の反体制物理学者サハロフに親書を送り(1977年2月)、「世界の人権尊重促進に関する公約を守り続ける」ことを約束した。書簡は、大統領選挙期間中のカーターの人権公約の遵守を求めたサハロフの書簡に対する返書の形をとったものであるが、一国の元首が他国の反体制派の指導者に直接手紙を送ることはきわめて異例であり、今後の米ソ関係に複雑な影響を与えるものと思われる。

ページの先頭へ 戻る

グロムイコ対日覚書

1992年版本誌掲載。以下、

1960年の日米安保条約締結に腹を立てたソ連は、56年の日ソ共同宣言に盛られた歯舞、色丹両島の日本への引き渡しには「全外国軍の撤退」が必要だとの条件をつけてきた。これは当時のグロムイコ外相が対日覚書の中で明らかにしたものであるが、日本側は批准、発効した条約を一片の覚書で取り消すことはできないとして、この覚書の法的効力を認めていない。

91年4月に訪日したゴルバチョフ大統領は帰国後の4月26日のソ連最高会議で訪日についての報告を行い、歯舞、色丹両島の返還に関連して「実現しなかったことを30年後にそのまま復活させることは不可能だ。チャンスは失われた」と2島返還を否定し、グロムイコ覚書に立脚しているとも解される発言をしている。日本政府の見解は、56年の共同宣言が依然として有効であり、ゴルバチョフ訪日に際しての日ソ共同宣言には明示的な確認はないが、56年宣言が含まれているというもの。

ページの先頭へ 戻る

渡辺書簡

1993年版本誌掲載。以下、

ウルグアイ・ラウンドの行き詰まりに対する日本の苛立ちから、渡辺外相が1992年4月ヒルズ米通商代表とアンドリーセンEC副委員長あてに送った書簡で、ECとアメリカが農業問題の対立を解消できるならば、日本もコメ問題を見直す用意があるという趣旨のものである。これに対する海外の反応は、「沈黙している大多数の国の声を代表している」という評価もあるが、EC委員会は「一方的な言い分だ」と反発している。

ページの先頭へ 戻る

モス覚書  La Nota Moss

1993年版本誌掲載。以下、

ニカラグアのチャモロ政権の完全右傾化を迫る米国のヘルムズ上院議員の報告。1909年ニカラグアのセラヤ自由党政権を倒したノックス国務長官の「ノックス覚書」になぞらえて、ニカラグアでは、執筆者モス秘書の名を冠して、こう呼ばれている。ヘルムズ議員は、1992年6月に、チャモロ政権の汚職・米国の「援助」の不正利用を口実に、1億1600万ドルの借款の実施を阻んだ。米政府は、H・オルテガ国軍司令官らサンディニスタ高官の解任を強要してきた。チャモロ大統領は9月に警察庁幹部を解任したが、追い打ちをかけるように、この報告が公表された。これにより、政府とサンディニスタとの間の亀裂は深まり、他方、大統領の娘婿の協調派ラカヨ大統領府相は軽んじられ、保守強硬派のセサル国会議長の発言権が大きくなり、チャモロ政権は分裂危機に迫られている。

ページの先頭へ 戻る
All Right Reserved, Copyright(C) ENCYCLOPEDIA OF CONTEMPORARY WORDS