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ショー化が進む人の死
執筆者 土屋彰久

ショー化が進む人の死

キラー・コンテンツ

コンテンツ(contents)というのは、中身、ショー・ビジネスにおいては、それが提供する商品の内容のことを意味し、同じ意味合いで使う「ソフト」(たとえば、ゲーム・ソフト、ビデオ・ソフトでいうソフト)と、ほぼ同じような使われ方をしますが、ソフトは「売り物」で、コンテンツは「ウリモノ」といった感じで、微妙なニュアンスの違いがある他、コンテンツの方がより概念が抽象的、あるいは広いという雰囲気があります。また、「ソフト」の方は、語源が特殊です。ただ、そうした用語法の基礎にある文化そのものが、かなりいい加減なので、用語法もいい加減でして、その含意は、定義よりも気分や流行で決まると思った方がいいでしょう。そして、キラー(killer)というのは、直訳すると、殺人者、殺し屋ですが、そのような意味ではなく、ここでは「すごく強力な」という意味で使われています。つまり、キラー・コンテンツとは、これを盛り込めば高視聴率確実、というようなネタのことを意味しているわけです。キラー・コンテンツは、けっして、「人が殺されるシーン」という意味ではないのですが、「人が殺されるシーン」は、キラー・コンテンツです。

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ソフト

ソフトという言葉は、ここ10年くらいの間に、あっというまに定着しましたが、外来語としては、実はかなり以前から日本に入ってきていました。ただ、その頃は、その語源であり、本来の意味であるコンピューターのソフトウェア(software)という意味だけでした。この「ソフトウェア」から、当初、略語として派生した「ソフト」が独り立ちする上で、最大の功労者となったのは、任天堂のファミコン(ファミリーコンピュータ)でした。このテレビ・ゲーム機は、様々なゲーム・ソフトが入ったカセットを差し替えることで、一個の本体で、ゲームセンターの営業用ゲームと同等の様々なゲームが楽しめるという仕様で、一世を風靡というより、一時代を築き・・・いやいや、それどころではなく、子ども達の遊びの文化を根底から変えてしまうほどの大革命を起こしました。これにより、それまで、一部技術者、及びマニアのところにしかなかった「ソフト」という名の商品が、瞬く間に一般家庭に広まり、その新たな購買層のおそらく99%は、「実は、厳密に言うとカセットはハードウェアで、その中に書き込まれたプログラムがソフトだ」などということは知らないまま、「ゲーム・ソフト」を買うようになったわけです。こうして、「ソフト」は、一人歩きを始め、ビデオ・ソフトや、CDソフトという用語、用法が一般化し、今に至るというわけです。

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リセット文化

昔からあったはずの「リセット」という言葉が、特別な意味合いを持つようになったのもまた、ファミコンの影響です。ファミコンの本体には、普通の電源スイッチと、押して手を離すだけで、電源を切って入れ直したのと同じ働きをするリセットスイッチが付いていました。初期のファミコンのゲームは、今では当たり前になったコンティニュー(継続)機能がないため、ゲームオーバーになれば、最初からまたやり直しです。そのため、ゲームの序盤で致命的なミスを犯すと、どうせ目標に到達する前にゲームオーバーとなることが明白なので、さっさとリセットスイッチを叩いて、最初からやり直すわけです。実際、当時の状況下では、このリセットスイッチは、すばらしい親切設計の賜物と言ってよい存在でした。以後、リセットスイッチは、あらゆるゲーム機で当然の標準装備となり、ゲームに興じる人々は、老若男女の区別なく、皆、リセットスイッチを叩くようになったわけです。もちろん、アツいミスをやってしまった場合には、様々な打撃が、その他の部分にも容赦なく加えられました。当時の親は、この種の玩具が、どうしてこんな物理的な壊れ方をするのか理解できませんでしたが、今の親は、自らの経験に照らして、どうしてこんな壊され方をするのかがわかります。その後、ゲームは飛躍的に進歩し、複雑化しましたが、「最初、うまくいかなかったのが、うまくいくようになるのが面白い」という、ゲームの根本的性質は変えようもなく、当然ながら、どこまで行っても腹立たしいミスは発生するわけで、ゲームの世界から「リセット」需要が消えることはありませんでした。こうして、「気軽に全てをご破算にして最初からやり直すという行為」が、ゲーム遊びの共通経験を通じて、「リセット」という一つの行為として類型化され、ゲーム世代を中心に、その文化が広く共有されるようになりました。

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少年犯罪

近年、話題を呼んだいくつかの少年犯罪事件は、「いよいよ、子どもが子どもを殺す時代が来たか」といった印象を人々に与えましたが、これは、実はメディアの報道によって誘導された印象であって、実態は違います。たしかに、少し前に比べれば、少年犯罪は、総件数、凶悪犯罪の件数、ともに増えていることは確かですが、それでも戦後の約60年、しかも戦争直後の混乱期を除いてのスパンで見ると、いずれも歴史的低水準の位置にとどまっています。数字に表れている事実は、次の通りです。昔の方が、子どもは子どもを殺していました。今でも、殺された子どものほとんどは大人の手によるものです。総件数、凶悪犯罪、ともに大人も大きく増えています。ですから、悲劇を繰り返さないためには、大人の犯罪に対する対策を進めた方が有効と言えます。実際、年間700人に上る致死犯罪被害者(交通関係業過を除く)のうち、圧倒的多数が大人に殺されています。しかしながら、国民の関心は、少年犯罪対策に向きがちです。それにはやはり、それなりの理由があります。たしかに、「まさか子どもが!!」とか、「そんな理由で!!」というような、少年の凶悪犯罪は増えました。ただ、それは100が200になったというような増え方ではなく、0が2になったとか、1が4になったというような一桁レベルの話です。しかし、この種の事件は、それ故にまた珍しく、センセーショナルでもあるだけに、メディア的には「おいしい」事件と言えます。そして、視聴者の食いつきもすこぶる良いために、メディアもその種の情報を積極的に求め、あるいはまた、同じネタをしつこく流す結果、一つ一つの事件が視聴者の意識に強く印象づけられるという効果が生まれます。

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交通関係業過

「業過」とは、警察用語で、「業務上過失」の略語です。正確に言うと、業務上(重)過失致死傷罪のことで、交通関係業過とは、要するに交通事故の人身事故のことです。法律上、人身事故は業務上過失致死傷、すなわち刑法上の犯罪として処理されるのですが、他の一般的な刑法犯と異なり、故意がなく、また、結果は重大でありながらも、発生件数が圧倒的に多いために、警察関係の統計処理においては、別々に処理されています。そして、そのことを明記するために、犯罪統計の数値などでは、「(交通関係)業過を除く」との但し書きが付くわけです。実際、死亡被害者数で見ても、業過は一般犯罪の10倍程度の数値を示しており、両者を一緒くたにしてしまっては、犯罪検挙率から何から、あらゆる数値が、実態とはかけ離れたものになってしまうであろうということがわかります。

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少年の刑事責任

少年事件に、世間の関心が集まる要因の一つとして、この刑事責任の問題もあります。刑事責任の問題というのは、実質的には刑罰が科されるか否かということで、刑法上は14歳未満は刑事責任なしと規定されています。また、刑法の特別法にあたる少年法では、かつては刑事罰適用年齢をさらに引き上げて、16歳からとしていましたが、神戸のいわゆる酒鬼薔薇事件をきっかけに、刑法と同じ14歳に引き下げられました。当時、捕まった少年が、「自分は未成年だから死刑にならない」などと言っていたとの報道が世間を賑わしましたが、現実には、大人でも人を一人殺した程度では死刑になることはまずないですし(神戸の事件は、二人殺しだということが、あとでわかりましたが)、子どもだって、捕まってしまえば、法律上の名目は違っても罰を受けることは避けられないので、いかにも子どもらしい浅知恵と言えます。そして、その子どもの浅知恵にムキになって法改正した大人の側も、かなり子どもじみていると言えましょう。子どもは大人の鏡と言います。子どもに殺人をやめさせるには、まず、大人が先にやめなきゃ駄目でしょう。

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特別法

特別法というのは、たしかに「なんたら特別法」といったように、特別法を名乗るものもありますが、本来、名前とは無関係で、しかも相対的に決まるものです。これは、一般法と特別法の関係と言われるもので、複数の法律の規定が異なっている場合に、どの規定が優先されるかという問題で、この場合、特別法の規定が優越します。ですから、少年に対する刑事罰の適用を巡っては、刑法が一般法、少年法が特別法という関係にあるので、少年法の規定が優越するわけです。ちなみに、この関係はあくまで相対的なものなので、たとえば商法は、民法に対しては特別法の地位にありますが、さらに細かい商事関係の特別法との関係では、一般法となります。

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応報主義

刑法には、二つの流れがあります。刑法学の中では、旧派−新派という分け方がされていますが、応報主義は、旧派の立場です。これは、簡単に言えば、「悪いことをしたのだから罰を受けるのは当然」という考え方です。これに対して、新派は、「悪いことを繰り返さないように教育することが大事」という考え方で、これは応報主義に対して、教育主義、あるいは目的主義と呼ばれます。実際の法制度には、両者の理念が取り入れられていますが、少年法が教育主義を基本理念に据えてきたのに対して、大人向けの刑事法制は、伝統的に応報主義の色彩が強く、さらに国民文化としては、メディアにおける犯罪報道のあり方や、時代劇やヒーローものなどのテレビ・ドラマにおける勧善懲悪型映像娯楽の影響が強く、応報主義一色と言ってもよい状況です。そのために、凶悪な犯罪が発生すると、とにかく犯人を捕まえて厳しく罰しないと気が済まないという国民感情が、ヒステリックなほどの高まりを見せます。しかし、その望みが叶えば、つまり、犯人が捕まって死刑にでもなれば、それで気分的には一件落着という意識が強く、同種の事件の再発を防止するために、その事件の背景をつぶさに検証するというような姿勢は見られません。また、応報主義に凝り固まっている人には、教育主義の理念を知らないまま、それを頭から拒絶するという傾向があります。これは、応報主義が自然な感情に合致しやすいため、二つの理念について理解した上で、いずれかの選択、あるいはそのバランスを判断するという、理性的行動をとらなくとも、気分だけで自分自身の意見として選択できるからです。

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教育主義

日本においては、かなり分が悪い教育主義ですが、少年法の中では基本理念として、お山の大将、あるいは内弁慶をやっています。そして、このことが、事態を一層悪化させてきたという側面もあります。まず構造的に、外は応報主義の風が吹いているのに、中では教育主義一色という状況では、内外の格差が大きすぎ、「外の常識」から見れば、少年法の中だけ異常な状況にあるということになってしまいます。また、かねてから指摘されてきており、近年の法改正で部分的に改善された問題点として、犯罪被害者の利益が不当に無視されてきたという問題があります。これは、少年法の内部でだけ教育主義が均衡を欠いて突出した結果で、かえって教育主義に対する誤解を招く事態となっています。実際は、被害者無視というのは、少年法、刑法を問わず、日本の刑事政策・行政の基本文化であり、警察の腐敗体質などと並んで、根本的な問題点の一つなのですが、少年法を巡る議論では、まるで教育主義がその元凶であるかの如く、不当な責任を被せられているという状況にあります。少年法の中では、教育主義がいい口実になるので、当局は体よく被害者保護の責任から逃げているというのが実情です。教育主義は、当局に対して教育効果の高い刑罰、すなわち再犯率を低く抑えることを要求しますので、実は法務省の責任が重くなってしまうのです。そのため行政側としては、世間が応報主義で満足していてくれる限り、ほっかむりして知らんぷりを決め込みたいわけです。

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厳罰政策

少年法を巡っては、被害者利益の保護と、厳罰化、二つの問題があります。厳罰政策は、一見、応報主義に基づく政策のように見えますが、実は、その関係は間接的なものにすぎません。なぜなら、「過不足ない相応の刑罰」を要求するのが、応報主義の原則だからです。ですから、ハンムラビ法典で有名な、「目には目を」という量刑は、その典型と言えます。これに対して、厳罰政策というのは、犯罪に対して過重な刑罰を科すことで、一罰百戒の効果を狙う政策で、イスラム原理主義の「泥棒は手を切り落とす」や、江戸時代の「姦夫姦婦は重ねて四つ(浮気の現場を押さえたら、その場で切り捨ててよい)」などが、典型と言えましょう。厳罰政策が、昔から権力者に好まれてきたのは、金がかからないためで、その基本構造は今も変わりません。つまり、警察の能力に限界があり、そうそう全ての犯罪を摘発できない場合には、運悪く捕まった犯人を見せしめとして厳罰に処することで、犯罪の抑止と権力のアピールが同時に図れるということです。しかも、死刑や体刑(切断刑、焼印、鞭打など)は、懲役刑と違ってその場限りで終わるために、刑の執行費用も安く済み、さらに公開処刑などは大衆娯楽の提供にもなるということで、おいしい限りです。大衆は、昔から人殺しショーが大好きで、キリストの故事にもあるように、石投げ処刑は市民参加型の公開処刑として大人気でしたし、中世の異端審問や魔女裁判にも、教会による大衆娯楽の提供という側面があり、そのために、過剰な犠牲者を生んだと言われています。今の日本は、一昨年度の犯罪検挙率が、前年よりは改善したものの約23%と低迷しており、当局が厳罰政策に魅力を感じるのも、無理からぬことと言えましょう。

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被害者利益

被害者利益を保護する具体的な政策としては、見舞金、生活再建支援のような給付的なもの、訴訟支援(民事)、捜査・裁判情報の提供のような補助的なもの、さらに、加害者の裁判における傍聴席の確保や、陳述機会の確保といった、特殊な便益の提供があります。最近の法改正(2000年の犯罪被害者保護関連二法の制定)でやっと改善されましたが、かつての日本は、少年事件の場合、犯人が捕まっても、警察は少年法を盾に犯人の名前すら教えてくれず、当然、審判も秘密なために、被害者は独自に調査して加害者を特定しなければ損害賠償の請求すらできないなど、被害者利益の保護において圧倒的に後進国でした。最近の法改正で、情報提供の他にも、傍聴、陳述の機会が確保されるなど、若干の改善はされましたが、まだまだ後進国であることには変わりありません。これは、<1>利権がからまない出費に関しては、基本的にドケチ、<2>到底、票にならないような少数者、弱者は切り捨てるか、いじめる、<3>面倒な仕事はしたくない、という日本の政治・行政文化に起因するものです。実際、被害者にとって最も切実な訴訟支援などは、話題にすら上がらず、陳述機会の確保のような、刑事面での金のかからない「恨み晴らしますサービス」の提供でお茶を濁すにとどまっています。

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犯罪報道の影響

日本では、刑法学界や国会での議論よりも、むしろ犯罪報道によって形成、誘導される世論の方が、刑事政策に大きな影響を与えてきたと言えます。たとえば、かつては50%を下回ることなく、日本の安全神話を数字の上でも裏付けてきた犯罪検挙率は、90年代後半から低下傾向を強め、最近では、年を追うごとに1/3(約33%)→1/4(約25%)→1/5(約20%)と、一昨年こそ、若干、持ち直しましたが(約23%)、劇的な崩落ぶりを露呈しています。これについては、不況の長期化に代表される社会環境の悪化もさることながら、警察当局の政策ミスの影響も指摘されています。これは、グリコ森永事件など、かつて世を賑わせた重要事件で警察の失態が続き、警察の威信が低下したために、信頼の回復を目指し、捜査力を重要事件に重点的に配分する政策転換を行った結果、一般犯罪の検挙率が低下し、犯罪件数の急激な増加を招き、手に負えなくなってしまったというものです。警察のこのような政策転換を招いたのは、他でもない、「警察は何をやっているんだ」という世論を喚起した、犯罪報道のプレッシャーでした。

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日本の犯罪報道

日本の犯罪報道は、センセーショナリズムを基本としており、大衆の理性よりも感情に訴えて、好奇心をかき立てる手法を採っています。そのために、それに素直に反応する大衆の関心は、犯罪が発生する社会的要因よりも、どんなひどい犯罪が起こったか、そして、犯人は誰なのか、といった点に集中することになります。もちろん、タテマエとして、表向きは被害者に同情してみせるのがお約束ですが、ホンネの部分では、「面白い話を聞かせてくれ」という、下品な好奇心の方が勝っています。つまり、日本においては、犯罪報道は一種のエンタテイメントであり、しかも、その犯罪は凶悪、悲惨、異常であるほど、メディアにも大衆にも喜ばれるということです。アナウンサー達は、「このような悲劇が、二度と繰り返されれぬよう・・・」などと、毎回繰り返してくれますが、あれは嘘っぱち、もっともっとひどい事件が起こって欲しいというのが、正直なところです。

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警察の信頼回復

警察は、信頼回復ために、重要事件に捜査力を重点的に振り分けたと言っていますが、実は、本当に重要事件の解決にだけ注力したわけではなく、ドル箱事業の「キップ切り」には、常に最重点業務として、豊富な人員を投入してきました。ですから、街の治安を守る交番からは、警官の姿がどんどん消えていく一方で、白バイやミニパトは、毎日元気に街を走り回って、キップを切っています。実際、今の日本は、「路駐をすると捕まるが、路駐の車を盗んでも捕まらない」と言ってもよいような状況です。しかし、重要犯罪に注力してみても、重要犯罪検挙率は、辛うじて50%ラインを保っている程度で、国松長官狙撃事件、八王子スーパー強盗殺人事件、世田谷一家惨殺事件など、重大事件の多くが、未解決のままです。ただ、警察の信頼回復を真剣に考えるならば、世の話題に上るこのような重大事件にこだわるよりも、警察官が白バイやミニパトを降りて、交番に戻ることが第一でしょう。

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重要犯罪

重要犯罪とは、殺人、強盗、放火、強姦、略取・誘拐、強制わいせつのことを指します。この中で、強制わいせつだけが軽いのですが、これが含まれているのは、実際の犯罪において、強姦罪との境目が微妙で、悪質なものは実質的に差がないためです。しかし、軽い方に行くと、おなじみ満員電車の痴漢もまた、同じ強制わいせつ罪となるために、これが「痴漢冤罪」の構造的温床ともなってしまっています。なぜならば、痴漢を捕まえれば、それで「重要犯罪の検挙率」が上がるという、数字のマジックというかインチキがあるからなんですね。そのために、痴漢摘発の現場だけは、実質的に「疑わしきは罰する」の嵐が吹いていて、バッグの角が尻に当たっただけでも、「この人、痴漢ですー!!」と手を掴まれたらアウト、というような魔女裁判と大差ない状況にあります。

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災害報道

犯罪報道と並んで、犠牲者数の数字が踊る災害報道のエンタテイメント化もまた、日本のメディアの得意とするところです。スマトラ沖大地震を巡る報道では、一日のうちに何度も何度も、しかも、地震の発生から数日経った後になっても、「前回発表より増加した」津波の犠牲者数が繰り返されました。現地での混乱状況などを考えれば、正確な数字が出てくるのはまだまだ先になるのはあきらかであり、それまでは、一日に一度か二度の情報の更新が妥当なところでしょう。しかし、まるで「災害の規模はでかい方が面白い」とばかりに、犠牲者数の増加を密かに楽しむ(喜ぶとは違う)無責任な視聴者の要望に応えるかの如く、テレビは、津波の映像や、悲嘆にくれる犠牲者家族の映像を交えつつ、犠牲者の増加を繰り返し、伝えていました。

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人津波

スマトラ沖大地震では、本物の津波に続いて、メディアの人津波が犠牲者を襲いました。中でも、最も大きな被害を受けたのは、杉本遼平君でしょう。杉本君は、今回の津波で、両親、兄弟を一度に失うという悲劇に見舞われましたが、小学生6年生という若さで、自分を守ってくれる家族を全て失ってしまったため、メディアの人津波から身を守る術も知らぬまま、悲劇の主人公として徹底してさらし者にされました。他の犠牲者家族が、これを見て、次々と犠牲者氏名の公開を拒んだように、表向き、同情を装ってはいても、それがとことん興味本位の取材、報道であるということは、取材される側にはよくわかるものです。杉本君は、さながら人津波を一人でくい止める堤防の如く、メディアの取材攻勢を一身に受け止めることで、他の犠牲者をメディアの暴力から守ってくれました。犯罪、災害を問わず、「面白そうな悲劇」が発生すると、その後を必ず襲って、被害者、犠牲者に二次被害をもたらすものが、このメディアの人津波です。そして、その発生源をたどっていくと、大衆の無責任で下品な好奇心に行き着きます。失意のどん底をさまよう杉本君をカメラの放列で取り囲み、情け容赦なくライトやフラッシュを浴びせかけているのはメディアですが、そのメディアを背後から後押ししているのは、結局のところ、ブラウン管の前に座っている一般大衆だということです。

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