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現代用語に見る商売のあれこれ半世紀

昔はこんな商売がありました

マキ屋

1951年本誌掲載。以下、

号外屋のこと。街をジャンジャンと鈴をならして売歩く号外屋には親分があり、新聞社から電話があるや、常に新聞社の周辺にそれとなく待機しているマキ屋を直ちに召集する。

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地見屋(じみや)

1951年本誌掲載。以下、

鉄鋼金属類の値上りで、焼跡や埋立地やゴミ捨場などを掘返してはそれらのものを掘り出すのを生業としているもの。

※編集部註:現代でも自販機から取り忘れたつり銭や路上に落ちている金銭を生活の糧としている人をさしていう。また、競馬場や競輪場で当たり馬券が落ちていないか探し歩く人をさすこともある。

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よなげや

1951年本誌掲載。以下、

川底からすくい上げたり、焼跡を掘返したりして、貴金属や、その他の金目の金属類をさがし集め、それを古物屋に売って生活している商売。戦後とくに、朝鮮動乱の影響で鉄鋼、金属類の値上りをみてからはめっきりこの商売が増えた。

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報道屋

1951年本誌掲載。以下、

ニュースが極端に統制されていた戦時中には、「新聞に出ないニュース」を会社や個人に売りつける職業が相当繁盛していた。戦後は進駐軍関係を除いてほとんど統制はなくなったが、それでも政界、財界の舞台裏の動きや共産党の動静などを印刷したり、謄写版に刷ったりして特約者の間に配るか、あるいは限られた人々を対象に講演して歩いたりするものが多く、結構商売として成り立っている。

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民営米屋

1951年本誌掲載。以下、

1951(昭和26)年4月1日から切り変る主食の配給店、いままでの食糧配給公団の出店という形式でなく、それぞれの店が自主的に独立採算でやるむかしの米屋の形式でその店はお客に登録させて、自分の好きな店から買える仕組。但し配給量は公団が統制する。

※編集部註:第2次世界大戦下の41年に消費統制のため米などの配給制が開始される。戦後も、物資不足の折から食料品配給公団が設立(48年)され、配給制がとられていた。

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公益質屋

1951年本誌掲載。以下、

地方公共団体が経営している質屋で、現在日本には東京が1951(昭和26)年中には35軒になるのをはじめ、約250軒ある。東京の場合だと、民間質屋が月1割という高い利子であるのに比べて、まる1ヵ月3分、15日以内なら1分5厘という低利で、最高8000円まで貸出している。

※編集部註:2000年6月に公益質屋法が廃止された

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録音便利屋

1952年本誌掲載。以下、

頼みたい芸能人を遠く離れている放送局のマイクに引っぱってくる事はなかなか大変なので、そこに眼をつけ、お好みの芸能人を録音してその注文に応ずるという便利な商売。民間放送は関西が先きを越したが、芸能人の大部分が東京に集中しているため、大抵この便利屋の手を通して放送している。日本芸能人連盟はその便利屋の頭株である。

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シヨウイ屋

1952年本誌掲載。以下、

傷痍軍人のニセ物。白衣を着て、傷痍軍人をまねて街頭や電車内などで金銭の寄付をうける。

※編集部註:傷痍軍人とは、公務・戦争で負傷した兵隊のこと。

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洗い屋

1954年本誌掲載。以下、

ウォッシュ・ボーイとよばれる戦後風俗の1つで、乗用自動車を専門に洗ったり磨いたりする商売。洗いが150円、磨きが500円で、月極めなら「磨き」3回「洗い」が毎日で、2000円。

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押し屋/はぎとり屋

1963年本誌掲載。以下、

1960(昭和35)年終わりから交通地獄の生んだ新商売。国鉄職員だけではまにあわず、アルバイトを雇っている。ラッシュの満員時に身動きのできない乗客の尻を押して、ドアを閉じさせるのを押しこみ、扉がしまらないので、半分乗った客を降ろさせるのをはぎとり屋という。こうしたラッシュ・アワーを今日ではクラッシュ・アワー(crush hour)と呼ぶ。

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テスト屋

1967年本誌掲載。以下、

進学率が高まるにつれて、入試競争はエスカレートする一方。そこで生まれたのがテスト屋。小学校の高学年を対象に入試予想問題集をプリントして、各学校に売り込み、それが補習授業の一部に使われていた。このテスト屋商売は教育ママの思惑にもピタリ一致して繁昌している。ところが、東京都教育長の小尾乕雄は1965(昭和40)年11月、テスト屋は義務教育をゆがめるものとして、補習授業の禁止、テスト屋しめ出しなど、一連の小尾通達を出したので、にわかにクローズ・アップされた。

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かつぎ屋

1998年版付録『20世紀事典』1946年の項掲載。以下、

やみ物資行商人。主として主食、野菜、魚類をリュックや石油カンなどに入れて売り歩く。女はパンパン、男はかつぎ屋といわれ、戦後日本の象徴であった。米のかつぎ屋などはある程度組織的な動きもみせ、警察のいっせい取締りがある日などは、仲間の1人が取り締まりの行われている駅のいくつか手前の駅でこれを知らせ、警察の網をのがれた。

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ひかりもの

1998年版付録『20世紀事典』1951年の項掲載。以下、

朝鮮戦争で鉄鋼、金属産業の特需景気から金属類が値上がりしたため、スクラップでも相当の金になり、クズ屋、拾い物屋の世界では金属を「ひかりもの」と珍重するようになった。

また焼け跡やドブ川にうずまっている金属を拾い出すものもいて、これは淘げ屋(よなげや)といわれ、けっこう商売になった。

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